ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

香も高きケンタッキー

ジョン・フォード監督『香も高きケンタッキー』(Kentucky Pride, 1925) が高画質で見られるなんて、これは夢だろうか。ちょうど蓮實重彥の『ショットとは何か』(2022) も出たところなので、この映画のたまに動くことはあっても基本はフィックスされたキャメ…

若菜集

古本を見ていたら『若菜集』の復刻版があったので買って何ということなしに眺めていた。下の詩『春の歌』なんか「冰」は「氷」で今はあまり使わない漢字だなあ。しかし、「冰」は「氷」の正字だと辞書にある。現在は名詞は「氷」で、動詞は「凍る」を使うの…

五重塔 (2)

前の記事、「一葉の墓」で示した泉鏡花の『貧民倶樂部』にも増して、『五重塔』のこの部分では「写実」を遥かに超えて、文そのものが巨大な台風のように荒れ狂っている。文が嵐を写しとるのではなく、表現自体を暴風雨へと生成変化させること。明治のこの時…

風流佛

露伴の『風流佛』を読んだ。仏師である珠運の話だから、漢字の音読みは呉音が基本となるが、なかなか直ぐに出てこない。下に挙げたところでは「聖書の中へ山水天狗樂書したる兒童が日曜の朝字消護謨に氣をあせる如く」なんて、どうしたらこんな比喩が出てく…

二人比丘尼色懺侮

明治二十二年四月に発表された尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺侮』を読んだ。明治二十三年一月発表の『緣外緣』(對髑髏) がどのくらい影響を受けているかを確認するためである。 冒頭の一部分だけを載せておく。『二人比丘尼色懺侮』は 2019 年に岩波文庫が復刊…

仮名遣い

露伴の「対髑髏」のテクストを読んでいて、自分は仮名遣いのことを何も知らないということがよく分かって、あれこれ調べてとても勉強になった。たとえば、テクストの最後にある「狂ひ狂ひて行衞しれず。」の「行衞」は、「ゆくへ」とするのがよいのだろうか…

対髑髏 (3) 幸田露伴

(三) 聞けば聞く程筋のわからぬ 戀路(こひぢ)のはじめと悟りの終り能々(よく〳〵)たゞして見れば世間に多い事其時お妙は長江(ちやうこう)を渡る風輕(かろ)く雲を吹(ふい)ておぼろにかすむ春の夜の月大空に漂よふ樣(やう)に滿面の神彩(しんさい)生々(いき〳〵…

対髑髏 (2) 幸田露伴

(二) 色仕掛生命(いのち)危ふき鬼一口(ひとくち)*1と 逃げてまはりし臆病もの仔細うけたまはれば仔細なき事年は今色の盛り、春の花咲き亂れたる樣(やう)に美しき婦人(をんな)と一ツ屋の中(うち)に居るさへ、我柳下惠(りうかけい)*2に及ぶべくもあらぬ身の氣…

対髑髏 (1) 幸田露伴

對髑髏 蝸牛露伴作 (一) 旅に道連(みちづれ)の味は知らねど 世は情(なさけ)ある女の事〳〵但しどこやらに怖い所あり難(がた)い所我(われ)元來洒落(しやれ)といふ事を知らず數寄(すき)と唱ふる者にもあらで唯ふら〳〵と五尺の殼(から)を負ふ蝸牛(でゞむし)の…

「對髑髏」 (三) 蝸牛露伴作

(三) 聞けば聞く程筋のわからぬ 戀路のはじめと悟りの終り 能々たゞして見れば世間に多い事其時お妙は長江を渡る風輕(かろ)く雲を吹(ふい)ておぼろにかすむ春の夜の月大空に漂よふ樣に滿面の神彩(しんさい)生々(いき〳〵)と然も柔(やさ)しく、藍田(らんでん)…

「對髑髏」 (二) 蝸牛露伴作

(二) 色仕掛生命危ふき鬼一口*1と 逃げてまはりし臆病もの 仔細うけたまはれば仔細なき事年は今色の盛り、春の花咲き亂れたる樣に美しき婦人(をんな)と一ツ屋の中に居るさへ、我柳下惠(りうかけい)*2に及ぶべくもあらぬ身の氣味惡し。然しながら何千萬人浮世…

「對髑髏」 (一) 蝸牛露伴作

(一) 旅に道連の味は知らねど 世は情ある女の事〳〵 但しどこやらに怖い所あり難い所我元來洒落といふ事を知らず數寄と唱ふる者にもあらで唯ふら〳〵と五尺の殼を負ふ蝸牛(でゞむし)の浮れ心止み難く東西南北に這ひまはりて覺束なき角頭(かくとう)*1の眼に力…

官能小説家

高橋源一郎の『官能小説家』を読んだ。 「いや、だからどこまでがほんとうで、どこまでが興味本位の噂話なのか、はっきりとは申し上げられないわけなのです。先生(注:漱石)、実は、わたしは一葉女史や半井桃水といささか縁があるものでして」 「どういう縁な…

胡砂吹く風

半井桃水の『長尾拙三 探偵博士』『胡砂吹く風』前後編を読んだ。もとは新聞小説である。変体仮名や合字に多少途惑うものの、言文一致体でもないのにある程度まではスラスラ読めてしまうこのひっかかりのなさで感じたことは、誰でも読める平易な文体というの…

通俗書簡文

半井桃水の『開化の復讐(あだうち)』『水の月』を読んだ。いずれも1891年の出版(出版社は日本橋區新和泉町にあった今古堂)で一葉が桃水に師事したころの小説である。『水の月』の序を書いている「梅園主人」とは誰なのだろうか。その序文は一葉の『月の夜』…