ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

仮名遣い

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露伴の「対髑髏」のテクストを読んでいて、自分は仮名遣いのことを何も知らないということがよく分かって、あれこれ調べてとても勉強になった。

たとえば、テクストの最後にある「狂ひ狂ひて行衞しれず。」の「行衞」は、「ゆくへ」とするのがよいのだろうか、それとも「ゆくゑ」だろうか。これが「行方」ならば、定家仮名遣いの「ゆくゑ」は正しくなく「ゆくへ」が旧仮名遣いの現代的規範では正しいとされ、古語辞典にもそう表記している。しかし、別の観点も存在する。「衞」の字音仮名遣いは「え」ではなく「ゑ」なので「行衞」と漢字表記したのなら「ゆくゑ」でもよいはずである (少なくとも、ネットに公開されている漢字音表には「衞」の呉音の表記は「ゑ」になっている)。春陽堂から出た「葉末集」の『對髑髏』も、博文館から出た「露伴叢書」の『緣外緣』もルビは「ゆくゑ」と振ってあるので、少し気持ち悪さを感じながらも結局「ゆくゑ」とした。

それでは、いつも「葉末集」や「露伴集」の元の振り仮名を忠実に採用すればよいかというと、これにも問題がある。いちいち例をあげないが、まず、テクスト間での仮名遣いは一定していないし、現代の「旧仮名遣い」の規範からもかなり異なっている。明治のこの時期、出版でさえ「歴史的仮名遣い」の規範を忠実に守ってはいないのである。それがわかって面白かった。

これとは別に、「是は恐れ入り升ナニ自分で濯ぎます」の 「濯ぎます」は「そゝぎます」なのか「すゝぎます」なのか、どちらだろうか。これは作品の最初に「浮世そゝがばや」とあるので、「そゝぎます」をとった。露伴は、芭蕉の句「露とく〳〵心みに浮世すゝがばや」の「浮世すゝがばや」のところを「浮世そゝがばや」として引用している。足を「そゝぐ」行為は、浮世から異界に入る契機としての意味があると思う。春陽堂は「すゝぐ」、博文館は「そゝぐ」としている。

「対髑髏」にはいろいろなテクストが存在する。大きく分けても四種類は存在すると思う。作品の題名も春陽堂から出ているものは、『對髑髏』であり、博文館のものは『緣外緣』である。テクスト間の差異についてはここで細々と触れようと思わないが、最後の改訂は大正時代に入ってからのものであり、明治二十三年の発表当時からは、二十五年もの隔たりがある。「ちくま文庫」で現在入手できるものは、この最後の改訂版を更に新字新仮名に変換したものと思われる。テクストの変遷を見ると露伴自身はこの作品を若気の至りと考えていたようにも見受けられる。この最後の改訂では作中の「露伴」の名前は削られ、「乳首」「助倍」の語も削られて、時代的限界はあるものの、この作品の B 級的な楽しみ (もちろん B 級は褒め言葉の意味で使っている) はかなり減じられて、より退屈なあの「文学」に接近してしまっている。フィクションを現実に投影して勘ぐることが読むことだと考える連中はいつの時代にも存在していて、「魂魄宙宇に彷徨し三十年來自ら笑ふ一生定力なく」と二十二歳の露伴が書くぐらいのことではおさまらなかったこともあったのかもしれない。

前の一連の記事にあげたテクストは「葉末集」のテクストを基本にしているが、他のテクストも参考にして (国会図書館でインターネット公開されているものを利用した) 一部修正しており、完全に同一のものではない。また、あれだけ複雑な漢字を多用する露伴の作品の漢字の一部分に過ぎない旧漢字だけを新漢字(基本は過去の筆写体)に修正する意味がどこにあるかわからないので、限界はありながらも活字としてはなるべく旧漢字を使うようにした。