ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

香も高きケンタッキー

ジョン・フォード監督『香も高きケンタッキー』(Kentucky Pride, 1925) が高画質で見られるなんて、これは夢だろうか。ちょうど蓮實重彥の『ショットとは何か』(2022) も出たところなので、この映画のたまに動くことはあっても基本はフィックスされたキャメラが捉える穏やかであってもスローモーションの弛緩しきった運動とはまったく異なる内に力動が込められた馬の運動や、馬の毛並みの艶から感じとれる再現行為を支える光そのものの美しさといった「単純であることの穏やかな魅力」*1としてのショットに視線を注ぎ、思いを馳せる絶好の機会である。

以下に以前の記事の一部を再掲する。

1983 年 6 月 27 日から始まったフィルムセンターの「ジョン・フォード特集」*2でこの映画を「発見」した蓮實重彥は当時、こう書いている*3

この年齢 (注: 当時 47 歳) になってから映画史でもっとも美しいシーンに出会って身を振るわせるというのはむしろ恥ずかしいことだと知っていながら、映画の効能の一つは恥も外聞もなく興奮に浸ることが許される点にあるので 、むしろ楽天的な表情を装ってあっけらかんと告白してしまうと (以下略)

「映画史でもっとも美しいシーン」という評価は、文芸誌「文學界」2020 年 2 月号に発表された『ジョン・フォード論 第一章-I 馬など』においてもいささかも変わっていない*4。蓮實はそのことを二度も強調している。

しかし、わたくし個人としては、作品にこめられているこうしたテーマにもまして、フォードの演出の細部における冴えた繊細さに深く心を奪われずにはいられない。それには、没落したボーモン氏 (注: ヘンリー・B・ウォルソール) が、いまは交通整理の警官として働いているかつての調教師ドノヴァン (注: J ・ファレル・マクドナルド) とともに、重い荷車を引いているヴァージニアズ・フューチャーと交差点で偶然にすれ違い、それと気づかぬままに別れてしまうという美しい——映画の歴史でもっとも美しいと断言することに何の誇張もない——シークェンスを思い出して見れば充分だろう。

(前略) このシークェンスは、あえてくり返すが、映画史でもっとも美しいと呼ぶこともいささかの誇張ではない光景として、見るものの心をぞわぞわと騒がせずにはおかない。

そして、『ジョン・フォード論』のこの章には、『ショットとは何か』に深く関連する次の記述が見られる。それは、ヘンリー・B・ウォルソールについてフォードが発言した、

この作品中では、彼は何もしなくてもよかった。ただそこにいるだけでよかった。ジョン・バリモアもそうだったが、ウォルソールのほうが、一枚上手の俳優だった。

後に続く文章である。

この「ただそこにいるだけでよかった」という存在感にこそ、彼の作品の人物や動物を鮮やかにきわだたせる秘密がひそんでいる。「存在感」という言葉がある種の鬱陶しさを示唆しがちだとするなら、よりいっそう希薄な「存在の気配」といいかえてもよい。

『香も高きケンタッキー』の冒頭の数ショットで見るものを魅惑し、あらぬ錯覚へと導き入れたのも、「ただそこにいるだけでよかった」ともいうべき馬たちの「存在の気配」にほかならない。
(中略)
ジョン・フォードの真の偉大さは、走っている馬のみならず、立ち止まっている馬にもキャメラを向け、思わず手をのばして触れずにはいられなくなるその毛並みの艶にキャメラを向けることで、その希薄だがどこかしら生きていることの色気を漂わせてもいる「存在の気配」を、人間のそれにも劣らずにスクリーンに漂わせる術を心得ていたことにある。雨上がりの濡れた鋪道でそれをごくさりげなくやってみせることこそ、グリフィス以来、映画作家にとっての真の「伝統と義務」だったはずではなかっただろうか。

最後に、蓮實さんも書いているが、いつもは重い荷車を牽かされていたヴァージニアズ・フューチャーが、その同じ鋪道をドノヴァンを乗せて娘のレースを見るために晴れやかに走るほんの短いショットの対比は、人を幸福にしてやまない素晴らしいものである。

*1:以下の記事を参照。

*2:MoMA の協力を得て『譽の名手』(1917) から『荒野の決闘』(1946) までジョン・フォード監督作品 31 本が上映された。

*3:「話の特集」に当時毎月連載されていた見開き 2 頁の映画コラム (1980 年 1 月号 〜 1985 年 8 月号) をまとめた『シネマの煽動装置』(1985) に所収されている。なお、まだ「マリ・クレール」ではなく「ブルータス」だったように思うが、当時の関連の文章を読むことができる ——『映画に目が眩んで』(1991) 所収。

*4:この文章の母体として、以下の “Touching the Glossy Coat of a Horse. John Ford's Kentucky Pride” (2009) が存在している。 また、この英文をもとにした日本語の「思わず触れたくなるような艶やかな馬の毛並みにキャメラを向ける」が『映画時評 2009-2011』(2012)にある。さらに、『映画時評 2012-2014』(2015) 所収のスティーヴン・スピルバーグ監督の『戦火の馬』(War Horse, 2011) 評でもこの作品が触れられている。