(二)
- 色仕掛生命危ふき鬼一口*1と
- 逃げてまはりし臆病もの
- 仔細うけたまはれば仔細なき事
年は今色の盛り、春の花咲き亂れたる樣に美しき婦人と一ツ屋の中に居るさへ、我柳下惠*2に及ぶべくもあらぬ身の氣味惡し。然しながら何千萬人浮世男の口喧しく我を罵り責むるとも、鐵牛角上の蚊*3ほどにも思はぬ瘦我慢の强ければこそ此家に止まりて此女とさしむかひに飯もたべたれ談話も仕たれ。素より人間の批判取沙汰何とも思はざる我も、天道の見る前に山中ならばとて見ず知らずの女と同衾する事羞かし。否々同衾する事少しも羞かしからぬにせよ、其柔らかき肌近く、僅に衣服幾重かを隔てゝ、身の內の溫暖みの互に通ふまで密接合ひて我眠らるべきにあらず。共に寐よとの言葉かけられし丈にてさへ身內顫き慄へ、我舌忽ち乾き、我心かきむしらるゝ如く、幾年の修行少しの役にたゝず、もだ〳〵と上氣して今遏慾の文一通り口の中に唱へ了りしまでは思慮分別の湧く間なく、正直の所は胸の中に一點の主意*4なくなり、婆子燒庵の公案*5ひねくりし昔時のやうにはあらざりし。況や此美しき婦人と咎め手の無きかゝる山奧の庵中に眠らば中々以て、枯木寒岩に憑る三冬暖氣なしといふ工合に意を斂めて寂然と濟まし居らるべしとは思へず、美人今夜若し我に約さば枯楊春老いて更に稊を生ぜん*6とは紫野*7の大德一休樣さへ白狀されし眞實の所、大俗の我等賢人顏したりとて危い哉〳〵、婦女の居ぬ山蔭ならば羅漢*8と均しく悟り切ても居らるべし、白い臑見ては通を得し仙人でも雲の臺を踏外して落ちたる話あり*9。若も久米殿其女と同衾したら多分は底の無い地獄の奧深く墮落せん事必定なり。我今此美しく心和しげな女と一つ抱卷掛けて枕をならべ仔細なく一夜を明さんとするとも。背中合せでは肩寒し、山里の夜風透間洩りて一しほ寒ければと我肩に夜着品よく着せ掛けて。此方お向きなされそれでは兩人の間に風が入りてと云はれては愈々むづかし。あの萎やかなる鬢の毛我頬を摩でゝ、花のやうな顏我鼻の先にありては尙々むづかし。玉の腕何處にか置きなん、乳首何處にか去らん、扨は愈々大事なり、女猫抱て寐しと同じ心にて我眠らるべきか。叱。若しや夜着の內人の見ぬ所、身動きに衣引まくれて肉置程良き女の足先腿後など我毛臑に觸らば是こそ。喝。生死一機に迫る一大事。素より道力堅固ならず、戒行常に破れ居る凡夫の我、あさましき心は起さゞるにもせよ長閑なる夢は結び難し、且は此女眞實に人間か狐狸か、先程よりの處置一々合點ゆかず。よしや狐狸にもせよ妖怪にもせよ、人間の形をなし、人間の言葉を交ふる上は人間と見るは至當、其人間と共に眠らん事人間の道理にあるまじき事なり。人間普通の道理にあるまじき事を羞らふ樣子もなく我に逼る女め。妖怪と見るも又至當なり、妖怪に向つて我何をか言はん。小人は謹愼の禮を以て來り惡魔は親切の情を以て誘ふ。扨こそ〳〵ござんなれ惡魔め、 鐵拳は模糊たる人情を存せず眞向より打て下して露伴が力量の恐ろしさを知らせ吳れんか。噫それも賴み薄し、我不動明王ほどの强き者にもあらねど、魔は却つて梵天を攻めし摩醯修羅*10の力を持るかも知れず、毛を吹き疵を求め草を打て蛇に會ふは拙き上の拙き事ぞかし。如何に答へん何と爲ん、アヽ思ひ付いたり、昔時は芭蕉も女に袖を捉へられし事あるに彼默然として動かず、女終に去らんとする時芭蕉却つて女の袂を捉へ、こちら向け我も淋しき秋の暮と一句の引導渡せしよし小耳に挾んで聞覺えたり*11、我又、好し〳〵芭蕉をまなんで默然たらん計りと漸く一心を決し、胸中には九想の觀*12を凝らしながら乾坤を坐斷する勢ひ逞しく兀然と坐着すれば、女はもどかしがりて握りし手を尙强く握りしめ。サア露伴樣何考へて居らるゝ此方へ〳〵と引立つる。引かれじ〳〵南無三引かれてはと滿身力を籠むれば。此方へ〳〵サア此方へござんせ、さりとては頑固な御方、山に浮かれ水に浮かれたまふ氣輕には似ぬ尻の重さと戲言云ひつ尙引立つる。大事々々、此妖魔めに一步を轉ぜられては一步地獄に近づくと齒を囓み切り身を堅くするに尙悠然と女は引く。引かれじと張る力弱くよろ〳〵と引立てられて最早叶はず、ワツと叫びて手を振りはらひ逃出せば女追ひ縋りて我袂をとらへ、ホヽと笑ひながら。扨は妾を妖怪變化の者かと思はれて夫程までに厭がらるゝなるべし、ホヽホヽ今少し膽太く心强きお方ならんと存じての親切仇となり却つてお胸を騷がせたる罪深し、眞誠妾しは妖怪變化にもあらず、浮世を捨し身のあさましき慾に迷ふにもあらず、兎にも角にも同衾せんとは强ひて申さじ、今より夜道あるかせ申さば亭主振り餘りに拙く悔み限りなし、先づ〳〵坐り玉へと止むるを我又無下に振り切るも恐ろしく 爐の向ふに坐れば、女は鉈取り出して立上るに、我又々ビクリとするを見てホヽと笑ひ草履つゝ掛けて戶の外に出で、丁々と響かする木を伐る音。
生木なりと燒かんとて薪取りに外へ出でしぞと悟れば、漸く安堵して我つゞいて外に出で、焚し木を取り玉ふならば男の事我助力致さんと鉈借り受け、そこらの雜木切り倒して一ト抱へだけ家の內に投込み、戶口確りと風を遮ぎりて對ひ坐れば、女は火を搔起して僅に焚し初め頓て漸く焚え立ち暖氣滿るを見て。此通り爐に火もあり、妾は愈々獨り起居る事つらからねばサア露伴樣ゆつくりと御やすみなされ、決して再び不束な妾御一緖にとは申さじ、ホヽホヽ、膽の小さい御客樣に可惜御氣をもませ申しましたは妾があやまりました、御心配なしに獨りでおやすみなされまし。イヤ先刻も申せし通りおまへ樣おやすみなされ。ホヽホヽ、又剛情を張らるゝか、夫ならば御一緖にか。夫は御免蒙りたし大俗凡夫の我等おまへ樣のやうな美しい方と一緖に寐るは小人罪なし玉を抱いて罪あり*13の金言まのあたり。ヲホヽホヽ、おなぶりなさるゝな、何の妾が厭なればこそ其樣に御逃なさるゝなれ、嫌はれては今更是非もなけれど眞實妾の了見では夜風寒き山中何の御馳走申す風情もなければ、其むかし乳母があなたを抱いて寐かして進た時の樣にあなたを緊乎と抱いて妾の懷中で暖めて進ようばかりの親切、妾も佛菩薩の見玉ふ前に決して淫りがましき念は露もつにあらず、あなたとて一箇の大丈夫初めて逢て抱いて寢た女位に心を動かす樣な弱いお方ではあるまいと存じたに御卑怯千萬未練の御性根今の御一言 御戲談ならずば玉を抱かざる前も小人は小人なる通り、妾と同衾し玉はずとも既に罪ある助倍の御方、ホヽ是は失禮、兎も角もあなたの御自由になされ、妾は亭主の身で獨り寢る事致し難しといふ。我呆れて明きし口閉ぎ得ず、茫然と此女の言葉を聞き、つく〴〵考ふるに人の世の毀譽襃貶を心に留めざるのみか、眼前の我をさへ見て三歲の小兒の如く取り扱ひ、然も悠々として胸中別に春ある悟り開けし大智識のやうなるに益々不審晴れず。ハテ何物の子ならん何物の變化ならん、尋常の婦女とは思へず、抑々如何なる履歷ありて斯く可惜しき容貌和しき心持ちながら山中には引籠りけん、當世の小督か佛か祇王か祇女か*14、それとも全く妖魔かとそゞろ恐ろしく。さらばおまへ樣はおまへ樣の御自由我等は我らの自由として我は此爐前に一夜明すつもり。妾も爐の前あなたの向ふ座に一夜明して苦しからず却つて心安し。と斯に一切談しの埓明けば、我大きに安堵して穴のあく程女の頭上より全體を觀るに一點の疵なき玉のやうにて折から燃ゆる火焰の閃めく陰に隱現する女神、とても其氣高さ美しさ人間の繪師まだ是に似た者も畫きたる例しあらざるべし。
荊茨の中に鹿は置きたく無く、鶴は老松の梢にあらせたし、目ざましき者尊きもの可愛きもの美くしき者、皆其所を得させたきは我人の情ならんと思ふ我、あはれ駿馬は勇士に伴なはせたく、名花の園に蝴蝶は眠らせたし。或歲我旅せし時、旅宿の下司洒掃除の時懷中より日本政記*15一册落せしを見て、心掛ありながら空しく人に僕仕居る其男の口惜さ如何ならんと淚ぐみたる事ありし。夫にもまして今此女天晴の姿貌、むざ〳〵と深山の谷間に埋れ木の花も咲かせず朽果るは扨も氣の毒。美人所を得ずして榾火に燻ぼり草の屋に終るとはなさけなき天道の爲されかた。男兒時を得ねば滄海に入る*16と同じく、既に見識ありて俗情に遠く風流を解して仙境に近づき居る此女、浮世の塵を厭ひて山中に終らん所存か。さりとては又女の癖に男めきたる憎さよ。女の女らしからざる男の男らしからざる、共に天然の道に背きて醜き事の頂上なり。さりながら女の女らしからずして神らしき、男の男らしからずして神らしきは共に尊き頂上ぞかし。今此女の言ふ所最早女らしからず、女の口より初めて逢ひし我を抱て寐んなど中々以て言へた事ならざるに、然も乳母が幼稚人を抱て寐る如く我を抱て寐んと云ひし事若し虛誕ならずば此女は女の男めきたるならで神らしき方に近づきたる方外の女なり。然し我凡夫の眼より見れば此女の斯く尊と氣ならんより、良き配偶を得て市井の間に美しき一家を爲したらんこそ望ましけれと思ふまに〳〵又矚れば端然とせし御有樣、愈々凡界の女の戀に病み衣服に苦勞し珊瑚の根掛*17の玳瑁*18の櫛のと慾にざわつく儔にあらず、御眼の中の淸しきは紛紜*19たる世事を御胸の中に留め玉はざるをあらはし、御顏色のあざやかに艷々しきは充分今の境界に滿足して何の苦しく覺さるゝ事なきを示して、且は御口元の締りたるにぞ理非を判め玉ふ知惠敏く居玉ふを知られける。不思議不思議。
餘りの不思議に堪へかねて我いと叮寧に眞實を籠て言葉緩く。先程も伺ひたれど歲若きおまへ樣の尼にもあらでの山籠り、如何にも不思議に存ぜらるゝも、一ツは美しき御容貌和しき御心根持玉ひながら無慘や、猪狼の跡多き地所に潛み玉ふを慨かはしく存ずるよりなり、斯く山住し玉ふ其譯苦しからずば一通り御聞かせ下されたしと問へば女ホヽと笑ひながら。此頃うるさく世間に流行とか聞きし小說にでも書玉はん御了見か、よし小說には書かざるにもせよ、話しの土產と都の人に齎らし歸らん御了見なるべし、羞かしき身の上明して云ふ迄もなけれど、若し人ありて妾の身の上話を聞き、一點あはれと思ふ人あらば嬉しき事の限りなり、いで恥を忘れて羞かしき身の上語り申すべし、緣外の緣*20に引かされて或は泣き或は笑ひし夫も昔の夢の跡、 懺悔は戀の終りと悟りて今何をか慝し申すべきと云ひつゝ榾を添へたりけり。
*1:『伊勢物語』芥川を想起させる。
*2:中国周王朝期の魯の国の賢者。「座懐不乱」のエピソードが知られている。
*3:「牛の角を蚊がせせる」は、物事に対してなんとも感じないことのたとえ。これに黄河の水害を鎮めるために沈めたという鉄牛をさらにかけた。
*4:考え。
*5:中国南宋代に成立した禅宗の燈史(史書) 『五燈會元』他にある有名な公案。公案の内容は『ある老婆が一人の禅僧に庵を建ててやり、衣食を送って修業を二十年間資(たすけ)ていた。そこでもうあの禅僧もかなり修業を積んだであろうと、老婆は自分の腰元の中でも、年頃で一番の美女を選んで、かの禅僧の修業している庵室へと赴かせた。その若い腰元が庵室を覗くと、僧は室の中央で静かに坐禅を組んでいた。女はそこへ寄って行っていきなり禅僧にもたれかかって、どんな気がするか尋ねた。するとその僧は顔色一つ動かさず、「枯木寒巌に倚る、三冬暖気無し」(まるで枯木が冷え切った岩に倚りかかったように寒の真最中、吹き曝しの気持ちだ) と答えた。その話しを女から聞いた老婆は大変怒り、「思いの外に俗物の僧、見込み違いをしていた」と言って、その僧を追い出し、庵室も穢らわしいと焼き払ってしまった』というもの。
*6:一休禅師『狂雲集』にある、公案への漢詩による答から。老婆心爲賊過梯。淸淨沙門與女妻。今夜美人若約我。枯楊春老更生稊。
*7:京都市の大徳寺と今宮神社を含み、東は堀川通り、西は千本通り、南は鞍馬口通り、北は北大路通りを囲む地域。かつては、平安京の内裏北方は天皇や貴族の遊狩地として禁野であったが、平安京が廃れると一帯を洛北と呼び、さらに内野、上野、北野、萩野、紫野、平野、蓮台野を洛北七野と称するようになった。
*8:仏教において最高の悟りを得た聖者。「阿羅漢」の略称。
*9:鳥山明『ドラゴンボール』の亀仙人は久米仙人へのオマージュであると思う。
*10:マヘーシュヴァラの音写。大自在天、もともとはヒンドゥー教のシヴァ神のこと。
*11:『奥の細道』の市振で遊女と同宿したところを踏まえた作り話しだと思う。「一家に遊女もねたり萩と月」
*12:仏教において悟りの妨げとなる煩悩を払うため、人(特に女性)の屍が朽ち果ててゆく各段階の様子を観想する修業。
*13:『春秋左氏伝』桓公十年の「匹夫罪無し。璧(たま)を懷くは其れ罪なり。」から。
*14:いずれも平家物語に登場する女性達である。「佛」は「佛御前」を指す。
*15:頼山陽が著した日本通史。
*16:「滄海遺珠(広い海原の底に採り残された真珠)」は広い世間で人知れずに埋もれている有能な人材という意味から。
*17:女子の髻(もとどり)の根元に巻き付ける紐状の飾り。
*18:べっこう。
*19:物事の入り乱れていること、そのさま。
*20:『對髑髏』は最初『緣外緣』という題名で雑誌「日本之文華」(博文館発行)に発表された(明治 23 年)。