前の記事、「一葉の墓」で示した泉鏡花の『貧民倶樂部』にも増して、『五重塔』のこの部分では「写実」を遥かに超えて、文そのものが巨大な台風のように荒れ狂っている。文が嵐を写しとるのではなく、表現自体を暴風雨へと生成変化させること。明治のこの時期の文学が面白い点は、「近代」も「文学」も自明視された固定概念でないところにある。
其三十二
長夜の夢を覺まされて江戶四里四方の老若男女、惡風來りと驚き騷ぎ、雨戶の橫柄子緊乎と插せ、辛張棒を强く張れと家々ごとに狼狽ゆるを、可愍とも見ぬ飛天夜叉王、怒號の聲音たけ〴〵しく、汝等人を憚るな、汝等人間に憚られよ、人間は我等を輕んじたり、久しく我等を賤みたり、我等に捧ぐべき筈の定めの牲を忘れたり、這ふ代りとして立つて行く狗、驕奢の塒巢作れる禽、尻尾なき猿、物言ふ蛇、露誠實なき狐の子、汚穢を知らざる豕の女、彼等に長く侮られて遂に何時まで忍び得む、我等を長く侮らせて彼等を何時まで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年は既に過ぎたり、我等を縛せし機運の鐵鎖、我等を囚へし慈忍の岩窟は我が神力にて扯斷り棄てたり崩潰さしたり、汝等暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨の毒氣を彼等に返せ一時に返せ、彼等が驕慢の氣の臭さを鐵圍山外に攫んで捨てよ、彼等の頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味の好さを彼等が胸に試みよ、慘酷の矛、瞋恚の劍の刃糞と彼等をなしくれよ、彼等が喉に氷を與へて苦寒に怖れ顫かしめよ、彼等が膽に針を與へて祕密の痛みに堪ざらしめよ、彼等が眼前に彼等が生したる多數の奢侈の子孫を殺して、玩物の念を嗟歎の灰の河に埋めよ、彼等は蠶兒の家を奪ひぬ汝等彼等の家を奪へや、彼等は蠶兒の智慧を笑ひぬ汝等彼等の智慧を讚せよ、すべて彼等の巧みとおもへる智慧を讚せよ、大とおもへる意を讚せよ、美しと自らおもへる情を讚せよ、協へりとなす理を讚せよ、剛しとなせる力を讚せよ、すべては我等の矛の餌なれば、劍の餌なれば斧の餌なれば、讚して後に利器に餌ひ、よき餌をつくりし彼等を笑へ、嬲らるゝだけ彼等を嬲れ、急に屠るな嬲り殺せ、活しながらに一枚々々皮を剥ぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼等が心臟を鞠として蹴よ、枳棘をもて脊を鞭てよ、歎息の呼吸淚の水、動悸の血の音悲鳴の聲、其等をすべて人間より取れ、殘忍の外快樂なし、酷烈ならずば汝等疾く死ね、暴れよ進めよ、無法に住して放逸無慚無理無體に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戰へ佛をも擲け、道理を壞つて壞りすてなば天下は我等がものなるぞと、叱咜する度土石を飛ばして丑の刻より寅の刻、卯となり辰となるまでも毫も止まず勵ましたつれば、數萬の眷屬勇みをなし、水を渡るは波を蹴かへし、陸を走るは沙を蹴かへし、天地を塵埃に黃ばまして日の光をもほと〳〵掩ひ、斧を揮つて數寄者が手入れ怠りなき松を冷笑ひつゝほつきと斫るあり、矛を舞はして板屋根に忽ち穴を穿つもあり、ゆさ〳〵〳〵と怪力もてさも堅固なる家を動かし橋を搖がすものもあり。手ぬるし手ぬるし酷さが足らぬ、我に續けと憤怒の牙嚙み鳴らしつゝ夜叉王の躍り上つて焦躁ば、虛空に充ち滿ちたる眷屬、をたけび銳くをめき叫んで遮に無に暴威を揮ふほどに、神前寺內に立てる樹も富家の庭に養はれし樹も、聲振り絞つて泣き悲み、見る〳〵大地の髮の毛は恐怖に一々竪立なし、柳は倒れ竹は割るゝ折しも、黑雲空に流れて樫の實よりも大きなる雨ばらり〳〵と降り出せば、得たりとます〳〵暴るゝ夜叉、垣を引き捨て塀を蹴倒し、門をも破し屋根をもめくり軒端の瓦を踏み碎き、唯一揉に屑屋を飛ばし二揉み揉んでは二階を捻ぢ取り、三たび揉んでは某寺を物の見事に潰し崩し、どう〳〵どつと鬨をあぐる其度每に心を冷し胸を騷がす人々の、彼に氣づかひ此に案ずる笑止の樣を見ては喜び、居所さへも無くされて悲むものを見ては喜び、いよ〳〵圖に乘り狼藉のあらむ限りを逞しうすれば、八百八町百萬の人みな生ける心地せず顏色さらにあらばこそ。
中にも分けて驚きしは圓道爲右衞門、折角僅に出來上りし五重塔は揉まれ揉まれて九輪は動ぎ、頂上の寶珠は空に得讀めぬ字を書き、岩をも轉ばすべき風の突掛け來り、楯をも貫くべき雨の打付り來る度撓む姿、木の軋る音、復る姿、又撓む姿、軋る音、今にも傾覆らんず樣子に、あれ〳〵危し仕樣は無きか、傾覆られては大事なり、止むる術も無き事か、雨さへ加はり來りし上周圍に樹木もあらざれば、未曾有の風に基礎狹くて丈のみ高き此塔の堪へむことの覺束なし、本堂さへも此程に動けば塔は如何ばかりぞ、風を止むる呪文はきかぬか、かく恐ろしき大暴風雨に見舞に來べき源太は見えぬ歟、まだ新しき出入なりとて重々來では叶はざる十兵衞見えぬか寬怠なり、他さへ斯樣氣づかふに己が爲し塔氣にかけぬか、あれ〳〵危し又撓むだは、誰か十兵衞招びに行け、といへども天に瓦飛び板飛び、地上に砂利の舞ふ中を行かむといふものなく、漸く賞美の金に飽かして掃除人の七藏爺を出しやりぬ。