ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

胡砂吹く風

半井桃水の『長尾拙三 探偵博士』『胡砂吹く風』前後編を読んだ。もとは新聞小説である。変体仮名や合字に多少途惑うものの、言文一致体でもないのにある程度まではスラスラ読めてしまうこのひっかかりのなさで感じたことは、誰でも読める平易な文体というのは、国民統治のための政治的要請であったとともに、経済的要請でもあったということである。一葉が言っている「桃水うしもとより文章粗にして華麗と幽邃(ゆうすい)とをか(注:缺)き給へり、又みづからも文に勉むる所なく、ひたすら趣向意匠をのみ尊び給ふと見えたり」というのは、桃水個人に留まる批評ではないと思う。

明治二十六年二月二十三日の夜樋口家を半井桃水が訪問して、『胡砂吹く風』前後編を一葉に贈呈したと一葉日記にある。『胡砂吹く風』の出版社を金桜堂と全集の注はしているが、インターネットに国会図書館が一般デジタル公開している『胡砂吹く風』前編の原本奥付けを確認すると、今古堂と金櫻堂の二社が出版元になっている (ただし後編の奥付けを見ると發兌は金櫻堂のみ)。扉には前後編とも「今古堂梓」とある。前編の印刷は明治二十五年十二月二十三日、出版は同年十二月二十四日、後編の印刷は明治二十六年一月二十九日、出版は同年二月六日とあるので、日記の日付と齟齬はない。また、下の日記にある漢詩の一部が原本と少し違っていたので、そこは編集した*1

下の日記の一節には、「我が參らせたる (注: 一葉が提供した「朝日さすわが敷島の山ざくらあはれかばかりさかせてしかな」という歌のこと) は晴々しく口畫の前にありて、林正元が肖像とは竝びける」とあるが、国会図書館のものによれば、最初の口絵である林正元の肖像と一葉の歌は並んでいない。実際、桃水自身のはしがきの直前に一葉の歌は位置しており、歌の最後にある「一葉」の名前と、はしがきの最初にある「桃水痴史」の名前とは見開きで右左にそれぞれ並ぶようになっている。桃水自身を林正元に一葉はなぞらえており、林正元を詠んだ歌だと過去の日記にも後の日記にも書いているので、ここは一葉があからさまに書かないための創作だったのかもしれない。
※ 初版本では、たしかに林正元の肖像画の横に一葉の和歌が掲載されており、一葉の創作ではないことがわかった。国会図書館のものとの違いは謎である。

この後、一葉の三月一日の日記には「こさふく風後編少し讀む」とあり、三月七日には感想のようなものを書いている。登場人物の青楊 (林正元の身代わりに毒の入った葡萄酒をあおって絶命し、屍が遺棄される) について、「つひの世を其人にかはりて、いさぎよき終りは本望成けんかし」と書いて、「はかなきに思ひゆるしてしら露の哀れ玉よと君みましかば」という歌を残している。波瀾万丈の末正元と一緒になった香蘭については「うら山し霜に雪にも色かへでおのれみどりの庭の姫松」とある。

(前略)日沒後とさしかためてみな〳〵火桶のもとに寄つどひつゝ物がたりするほどに、門のとほと〳〵とたゝきて音なふ人あり、日暮れて訪ふ人ありとも覺えぬを聞きたがへかと耳そばだつれば誠に我が家なり、誰樣(たれさま)やと家のうちより問へば、半井にこそ候へ夜に入りて無禮なれどゝいふに、其の人なりと聞くまゝに胸はたゞ大波のうつらん樣に成ておもひかけずたゞ夢とのみあきれにけり、立出でて門のと開けて例のもの靜かに立入る姿うれしなどしばし心地さだまりての後こそ、何事も靄(もや)の中にさまよふ樣なり、明ぬれど暮ぬれど嬉しきにも悲しきにも露わすれたるひまなく夢うつゝ身をはなれぬ人のいとゞ此一日二日空(そら)にまたれて訪ひ訪はるべき中にもあらぬをあやしう人づての便りもがな、せめては文にても見まほしきをなど人にいはれぬ物をおもへば幾度かどに出で立つくし、あらぬ郵便にたばかられて心耻かしかりしも一度二度ならず、いふべき事も覺えず問ふべき事も忘れて、面(おも)ほてりのみいと堪がたし、君しづかに口を開きてうち絕參らせし疎緣の罪はおのづから見ゆるし給へ、年頭の狀給はりしに其かへしも參らせず、去歲(こぞ)より風邪(ふうじゃ)を病みて新年に成りては久しう湯治になど遊びしものから思(おもひ)つゝ斯くはなど詫給ふ、去歲給はりし御歌の御禮ながら胡沙ふく風の製本せしを御覽にもそなへ度、夫故にこそ、書肆の慾ばりて賣かたにはいと早く廻すなるを作者のもとには中々に送りもこさず、漸く我が手に廻りければとて胡沙吹く風上下二卷賜ふ、表紙美麗にして畫樣(ゑやう)も美事に中々の大部なり、前篇の題字は朝鮮の忠士朴永考*2、詩は衣洲逸人*3とか君が知己なるべし、我が參らせたるは晴々しく口畫の前にありて、林正元が肖像とは竝びける、素園主人*4が文、うしがはしがき、卷末には愛讀者より送られたる詩文章の類多くのせたり、無名氏寄せられたる詩の內に、

甞期海外擧奇勳
鐵剱芒鞋意氣振
不怨素心歸落莫
一篇傑作證前身

嘗て期す海外奇勳を擧ぐるを
鐵剱、芒鞋(ぼうあい)に意氣振ふ
怨まず素心落莫(らくばく)に歸するを
一篇の傑作前身を證す

たるそゞろに其昔し思はれて、ともし火のかげよりかすかに面を仰げば優然としてうち笑みたる面ざし、まこと林正元今こゝに出現したらん樣なり、我が小說曉月夜いつのほどにか見給ひけん、こまやかに物がたらる、猶折ふしに目とゞめ給ふらん嬉しさいとになし、ことにものがたることも多からでさらばとたつを止め參らせんも中々にて送り出るほどかなしともかなし、嬉しともうしともいはんかたぞなき、夢うつゝともえこそ分ねばいはまほしき事も何もたゞひたすらにものも覺えず。胡沙ふく風は朝鮮小說にて百五十回の長篇なり、桃水うしもとより文章粗にして華麗と幽邃(ゆうすい)とをかき給へり、又みづからも文に勉むる所なく、ひたすら趣向意匠をのみ尊び給ふと見えたり、なれども林正元の智勇、香蘭の節操、靑陽の苦節ともにいさゝかもそこなはれたる所なく、見るまゝに喜ぶべきは喜ばれ、歎くべきには淚こぼれにこぼれぬ、さるは編中の人物活動するにはあらで、我が心の奧にあやつるものあればなるべし、田中みのこぬしは學ふかゝらず識も又高からざる人なれど、胡沙ふく風につきて批難し給ふ所あまた有し、そも當れる說にはあらざりけめど、とまれ完美の作にはあらざるべし、いでよしや、此小說うき世の捨ものにて人の爲には半文のあたひあらずともよし、我が爲生粹の友これを置て外に何かはあらん、孤燈かげほそく暗雨まどを打つの夜人しらぬおもひをこまやかに語りてはゞかる所なくなげきもし悅(よろこび)もせんはうつせみのよにもとめて得がたき所ぞかし、此夜此書をひもとひて曉の鐘ひとり聞けり、

引とめんそでならなくにあかつきの別れかなしくものをこそおもへ

晝(ひる)はしばし別れんにこそ。

*1:半井桃水は対馬出身であり、少年時代は釜山倭館で過ごしたことがある。東京朝日新聞社に29歳で入社するまでの約7年間、新聞社の海外特派員として朝鮮に駐在していた。

*2:開化黨結成時からの中心人物であり、この頃、開化黨によるクーデター、甲申政變 (1884) の失敗により日本に長期亡命していた。朴永考と思しき人物は『胡砂吹く風』にも「朴貞考」として描かれている。

*3:籾山衣洲 (本名は逸) のことかもしれない。籾山衣洲は、1898 年から 1903 年まで 「臺灣日日新報」漢文部主任を務めたことで知られる。

*4:東京朝日新聞の初代主筆である小宮山天香であろう。一葉は半井の紹介で会っている。