對髑髏
蝸牛露伴作
(一)
- 旅に道連の味は知らねど
- 世は情ある女の事〳〵
- 但しどこやらに怖い所あり難い所
我元來洒落といふ事を知らず數寄と唱ふる者にもあらで唯ふら〳〵と五尺の殼を負ふ蝸牛の浮れ心止み難く東西南北に這ひまはりて覺束なき角頭*1の眼に力の及ぶだけの世を見たく、いざさらば當世江口の君*2の宿假さず宇治の華族樣*3香煎湯*4一杯を惜み玉ふとも關はじよ、里遠しいざ露と寐ん草まくらとは一歲陸奧の獨り旅*5夜更けて野末 に疲れたる時の吟、それより露伴と自號して*6、頓て脆くも下枝を落なば*7、摺附木*8となりて成佛する大木の蔭小暗き近邊に何の功をも爲さゞる苔の碧みを添へん丈の願ひにて、囈語にばかり滴水とく〳〵試みに浮世そゝがばや*9と果敢なき僣上*10是れ無分別なる妄想の置所、我から呆るゝほど定まらぬ魂魄宙宇 に彷徨し三十年來、自ら笑ふ一生定力なく行藏多くは業風に吹る*11と古人の遺されし金句に歲の市立つ冬の半夜、蝙蝠騷ぐ夏の夕暮などは膽を冷やし骨を焚く*12感じを起す事もありしが、三日坊主の一時精進、後はゆつたりのつたりにて丁度明治二十二年四月の頃は中禪寺の奧*13、白根が嶽*14の下、湯の湖*15のほとりの客舍に五目竝べの修行を兼て*16 病痾を養ひ居たりしに、有難き溫泉の功能、忽ち平癒するや否、丈夫素より存す衝天の氣などといきり出して元來し道を歸るを嫌ひ、御亭主是から先へ行く道は無いかと問へば。どうも此處は行留りの山の中、見らるゝ通り前は前白根奧白根*17雲の上に頭を出して居る始末、登山は夏さへ六かし、其續き橫手の方は魂淸峠*18と俗に呼ぶ木叢峠、此頂上は上野下野兩國の境界、山々折り累なりて當方より越る六里の間に暖湯飮むべき家もなし、殊更時候大分違ひて、大澤德次良*19あたりは野州*20の名花八汐*21の眞盛りなれど、此近邉はそれもまだ咲かず、況して峠は一面の雪、五尺六尺谷間には積り居りて道も碌には知れず、今年になつてから越した人は指の數に足らぬ位、とても遊び半分なぞに行かるべき地にあらず、御客樣是非もなし中禪寺までお戾りあつて足尾とか庚申山*22とか里近き孫山でも見物致されよとの言葉。おのれ我を都會育ちの柔弱者と侮つたりや、其義ならば旋毛曲りの根性天の邪鬼の意氣地見せつけ吳れんと詰らぬ事に僞勢*23張り、股引もなき細臑踏みはだけて。其峠何程の事あらん、燒飯作れ草鞋買うて來よ、少しばかり難義でも同じ道を歸るより面白からんに鼻歌を山の神に聞せて越えん。さて〳〵途方もない事、雪沓ならでは中々凍ゆべし、强てとならば國境まで案內者僦はるべし、然し名產の肉蓯蓉*24取つて腎藥にでもせんとの御思召ならば時節惡し、醉興は要らぬ者と昔時よりの敎もあるものを。面倒な事、愚圖々々せずと我云ふ通りにせよ、案內者は僦ふべし雪沓も買ふべしと罵りて*25、裾其の儘にグイと端折り沓しつかりと穿き締め、身の丈六尺計りの樵夫を案內として心いさましく登りける、四五町ばかり來て見れば成程人は噓つかぬ者、一面の雪表面は凍りて下は柔なり、段々と登り行く勾配急になり屢々滑るに少し萎みて、見れば案內者は猪の毛皮の沓はきて鐵雪橇に踏答へ悠々と步む憎さ、負じと我も息張りて追付けば其大男ふりかへりて。此通りの雪なれば道も何もある譯では無ければ谷を傳はりて行くだけの分、あなた樣若し堪忍强く少時の難澁を忍ばれるなら一層勾配の烈しき代り頂上へ達する近道を行きませうかと尋ねられ。エーまゝの皮、さう仕ようと決斷し又登る一里あまり、樅の木柘の木タモの木ドロの木唐松など生ひ茂りて蔭暗く、此山の本名木叢峠の名は體をあらはして森々と物凄く、 梢を渡る風に露はら〳〵と襟首に落ち、顏を撲つ空翠*26は引く息に伴つて胸惡し、雪に印せる兎鹿の足痕漸く減りて、耳に音信し鳥の聲も次等々々に絕え、身は攀ぢ登るの苦しさに汗ばみながら心を掩ひし五慾*27の塵衣は一枚々々剝るゝ如く、昨日の榮華縱橫無盡に神通を逞しくせし第六識魔王*28は眷屬味方を失ひて薄ら淋しく、何といふ事はなけれど世界よりの落武者となつたる樣に心臆せられて、人間老衰の曉五官半死して最期に近よりたらん時此境界に似通ふ者あらば何程なさけなく如何程力弱く如何程賴み少なき者ならん乎とそゞろ悲しく思ふ時、岩を透すまで銳き鳥の聲眞黑の梢より射出されギヨツとして頸を縮むる途端、眼にはくら〳〵と湧き亂るゝ唐草樣の者見えし。是にてお別れ申します、此處兩國の境界卽ち頂上なり、是より左り手左り手と谷を傳ひ下らるれば一つの沼*29あり、其沼の左りをまた〳〵下らるれば片科川*30の水源是ぞ坂東太郞と末は呼ばるゝ、それに傍て行れなば溫泉*31湧き出る小川村といふに着べし、此處より其村までまだ四里餘少しも人家なし、能々氣を注けて迷はぬ樣致されよ、さらばと案內者の云ふに又一段に淋しさを增し、今朝の似非勇氣挫け果て茫然と見下すに、曇り空の日の光り力なく、常は見ゆると聞し會津の方の山々も雲がくれて見えず、流石に足の爪先佇む間に冷を覺えける。
案內者に別かれて獨り下る覺束なさ、雪沓なれば滑り〳〵薄ら氷に向臑疵つき岩角に頰を擦り雪頽に埋められし木の枝に衣を裂き、行けども行けども迷うたりや沼の邉りに出ず、樺の木折りて火を燒きあたりながら燒飯を取り出して食ふに木屑を嚙樣にて甘からねど饑を凌ぎたれば、色々方角を考へ正して進む、元より時計も持たぬ男なれば時刻分らず、頻りと氣をあせる中ほの暗くなつて來たれば、是れ大變なり又々曾て荒山に行き暮したる時の樣になりては叶はじと急ぐ程に沼のほとりに來たり、嬉しやと思へば日は冬の*32沒り易く、雪は最早無けれど沓の底は切れて足は痛し、折ふしプツリと沓の紐きれて悲しと道の邉に坐りて夫を繕ひ繫がんとするに、アツ燈の光り幽に動ぐを見付け嬉しや嬉しやとたどり行けば、丸木の掘立柱笹葺の屋根したる小家、尙蕾の堅き山櫻の大木の根方に立てり、所がらとて時候のかくも變る者ぞと驚かれぬ、萩の垣結ふ丈の事もせざるは枝折戶の面倒も嫌へるにや、家の橫手に幅一間計りの小河流るれば筧して水呼ぶ世話も要らぬと見えたり、此樣にしても世は渡らるゝ者と有り難く、尙近く寄て火の洩る戶の際に立ち、中禪寺の湯元より峠越して道に迷ひし者、盡く疲れ果て殊さら夜になりて難義いたしますが、小川村まではまだどれ程の道法でござりますか、且は雪沓を切らして步み難く困りますに草鞋一足御讓り下さるまいかと云へば。それは〳〵お氣の毒な事、小川まではもう二十町*33ばかり川に添うて行かれさへすれば間違ひなし、お履物をお切らしなされては眞に御難義ならんが生憎草鞋一足もない事羞かし、然し私しのはき捨の草履にても宜しくば參らせませうと云ふはアラ不思議、なまめかしき女の聲、かゝる山中に似合しからずされど是も獵師か何ぞの娘ならん、唯弱りたるは足の裏痛み惱みて右の小指左りの拇指は生爪まで剝したれば是より二十町到底あるけず、出來る事なら一夜の宿を賴まんと。眞に申し兼たれど、小川まで二十町と承はりては疲れたる身の中々に步み難く、痛み所さへあれば憫然と思し召て一夜の宿りを許したまへ。それは思ひも寄らぬ事、女子許りなればと云ひ乍ら、板戶引き開け身體を半分出す女、年は二十四五なるべし、後面に燈を負ひて後光さす天女の如く、其色の皎さ、其眼のぱつちりとしたる、其眉つきの長く柔和なる、其口元の小さく締りたる、其髮の今日洗ひたる乎と覺えて結ひもせず後に投掛けて末の方を引裂きたる白紙にて一寸纏めたる毛のふさ〳〵としてくねらざる美しさは人にあらず、おのれ妖怪かと三足ほど退つて覗へば女も我をつく〴〵と見て。傷ましやお前樣の風情、御足のあちこち怪我なされしか紅き者も見ゆるに御袖も草木に障へられてか綻び切れ御顏色もいたく衰へ苦し氣に居らせらるゝに、成程是より小川まで僅かの道なれど行き惱み玉ふべし、留め難き所なれども世捨人にもあらぬ御方に假の宿りに心止むなとも申し難ければ*34抂げて一夜を明させ申すべし、强くお斷絕申すもつらし、いざ爰に御腰かけられよ、御洗足の湯持て參らんと云はれて氣味の惡さ、今更迯出さんも流石なれば持前のづう〴〵しく腰打掛けて有難しと禮いふ中小桶に熱き湯汲み來りて甲斐々々しく洗ひくれんとするを。是は恐れ入り升ナニ自分で濯ぎます。イエ〳〵御遠慮なしにサア御足をお伸しあそばせと問答する暇に指の股の泥まで奇麗に落ちて疊の上にあがり叮寧に挨拶すれば、女莞爾と笑ひながら。山中なれば御馳走も出來ねど幸ひ小川村と同じ脉の溫泉の背戶*35の方に湧き居れば一風呂御這入りあつて一日の疲勞をお休めなされ、サア此方へござれ御背中を流しませうか。ハテ狐にでも誑さるゝではないかと內々危ぶみ居る我手を取る樣にして。湯殿へと申しても片庇廂雨露を凌ぐばかり、いぶせけれど*36湯は天然の靈泉まことに能く暖まりますといふ口上噓らしくなく、底まで見え透く淸き湯槽大事なからうと這入れば、無類の心持遙に湯元より結構、晝間のつらかりしも忘れ悠々と上つて來るを待ち付けて女。御召憎うはござりませうが御着物の綻びを縫うてあげます間是をと、後より引きかけて吳れるはぼてつかぬフラネル*37の浴衣に重ねたる黑出八丈の綿入れ、女物なれば丈ありてユキ無く兩手のぬつと出るは可笑けれど親切かたじけなし、餘程ふしぎな取り扱ひどうした運命だらうと怪みながら少し煙にまかれて。ハイハイ是はどうも恐縮。御帶にも岩角の苔が付て居りますれば 可笑くとも之をと笑ひながら出すは緋縮緬のしごき。ハイ〳〵と帶にして是も大方藤蔓か知れぬと觀念し、座敷へ來て居爐裏の傍に坐る肩へ羽折り吳るゝは八反の鼠小辨慶のねんねこ。湯覺をなされて若しお風邪でも召ては何處ぞのお方に濟みませぬと味な口きゝ、どん〴〵と柴折くべ自在にかけし鍋の沸き立つを取り下して。定めし御空腹でござんしたらう、サア御膳も出來ましたがお氣の毒なは麥飯、暖い丈を取り柄に山家の不自由をお許しなされと取り出す蝶足*38の八寸*39、 盛て吳るゝ山獨活の味噌汁香氣椀に溢る、禮云ひながら我は甘く食へば女も。妾も御一所に片付て仕まひましよかと最と無造作に喰ふに膳なく、椀を爐椽に置かんとして流石に馴れずやたゆたふを。此膳お用ゐなされと突やれば。そんならおとり膳*40とやらに、オホヽ、御免なされと顏も赤めず、宵よりの所業一々合點の行かぬ事どものみなり。
さて飯も了りたれば、女は我に關はず手ばしこく膳椀とり片付て火影ゆらぐ行燈の下に坐り、我衣物の綻びを綴くる樣、十年も連添ひたる女房の樣に見榮も色氣もなく仕こなす不思議さ、さりとては何物ならん、世を捨てたる女かと見れば黑髮匂やかにして尼にもあらず、世を捨てざる女かと見れば此容色を問ふ人もなき深山の獨り住訝かしく、何にせよ口不調法なる我口惜く問ひ出づる詞を知らで樣々考ふる中、女は綻び繕ひ了りて其まゝ疊み置き、爐の傍に來て我とさしむかひ笑まし氣に。若き御方の何故の御旅行か知らねど定めし面白き事もござりましたらうにチトお聞かせなされと却つて向ふより切り掛けられ。イヤ〳〵我等*41凡夫の癖に山あるきは好なれど、歌の一つも讀み得ねば面白き所あつてもお話し申す言葉拙し、お前樣こそ見受くる所御風流の御生活、由緖あるお方とは先程より思ひましたが、さりとては盛りの御身を無殘の山住み、如何なる仔細か御話しなされてよき事ならば。ホヽ中々の事賤の女に何の由緖のありませう、唯妾しは妙と申す氣輕者、去歲より此處に移りしばかり、おまへ樣は。露伴と名乘る氣輕者。扨は氣輕と云はるゝか。如何にも。何の上の氣輕。我は何とも知らず山に浮かれ水に浮かるゝだけの氣輕、おまへ樣は。浮世を厭ふだけの氣輕。ハテ怪しからぬ、浮世を眞誠に厭ひ玉ひなば御頭をもゴツソリと剃り丸め玉ひ、墨染の衣に御身をやつされ、朝は山路に花を採り夕は溪川に閼伽を汲みて供ぜられ看經念佛の勤めあるべきに、珠數さへ持ち玉はざる計りか、昔しの人は美しき面に焚鐵當たるさへあるに*42、お前樣は誰に見よとての黑髮、油こそ無けれしなやかに、友仙の御下着紅こそなけれ仇めかしく色作らせらるゝ事疑はし、世を疎み玉ふとは詐り、深く云ひ交せし殿御を恨らむる筋の有るかなどにて口舌の餘り强玉ふての山籠り、思はせぶりの初紅葉あきくちから濃うなるといふ色手管、是は失禮圖に乘て饒舌りました。アラ此人の口の憎さ、其樣な浮たる事にはあらず、全く世をば避け厭ひて。マザ〳〵とした御戲談、さらば世を厭ふとは如何なる譯と押返して問へば。要らぬ事尋ねて可惜夜の更るに御休みなされと身を起して戶棚より出すは綿まづしき瘦せ蒲團かと思ひの外、緋緞子の蒲團淺黃綸子の抱卷紅羽二重の裏付けて獵虎の襟、驚かるゝ贅澤。サア御寢なれと我を押やりて小屛風立てまはすに是非なく話しを中途にして。然らばお先へ御免蒙ると橫になれば、蓬萊の夢見さうな雲鶴の錦の丸枕に茶を詰めあるやゆかしき香、鼻の頭に立つ不審どうも眠らればこそ、ソツと屛風の外を覗けば爐の傍に尙端然と坐して何やらを讀み居る美しさ人形の樣なり、一時間も經ど我は尙寐られねば又覗くに矢張動かず、二時間も過ぎて又伺ふに女は元の通り、眞夜中頃にも心愈々冴えて後先揃はぬ此家の始末を考へながら又覗けば女は頻りと火箸もて灰搔き起し居れど柴木最早盡て爐の暖かならず、小叢峠の麓なれば流石に寒氣を覺えてや、獨り言に溫泉にでも入らんと云ひ捨てゝ湯殿の方へ行きしが少時して歸れば爐の火は全く細々となりしに尙其傍に端然と坐りたる樣子何の用ありとも見えず、全く寐るべき夜具なき故と知られたれば、我男の身として自分ばかり暖まり居るをさもしき樣に思ひなし、今眼さめたる振して突と起出れば。御手水かと案內するに連れ、用たして戾りがけ心付たる顏して。お妙さま未だおよらず*43か。ハイ。誰人を待るゝ戀か知らねど大分夜も更けましたらうに。ホヽ御調戲なさらずと能うおやすみなされ。イヤ違ひましたら幾重にもお詫をしますが、お獨り住の御樣子、其處へ推て一泊を願ひましたれば御臥床を奪ひましたかとも危みます、若し萬一左樣ならば我等こそ男の身、野宿の覺もござれば柱に憑れて眠る一夜位苦にもならざれ、お前樣さうして居られては心苦し、寢溫もりの殘りしは氣味あしくも思しめさんがどうかお休みなされと云へば顏少し赤め。御言葉の通り眞に夜具一揃より持たざれど、おとめ申したる時より妾しは斯うして夜を明して大事ないと思ひ定めましたれば御構ひなく。それではどうも。そう仰しやらずと。我らが困ります。妾しが困ります。マアお前樣御臥みなされ。マア〳〵あなた御寢なれ。其では際限なし、露伴男でござる、瘦我慢致して是より御暇申す、女性に難儀させて我心よく眠らば一生の瑕瑾、母の手前朋友の手前恥かしく夜道まだ〳〵樂な事なり。それ程までに仰せらるゝを背き難し、あなたに夜道步行せましては妾しの心遣ひ皆空となる事なれば御言葉には從ひませうが、それではあなたに寐床暖めて頂いた樣な者、のめ〳〵と其にくるまつてあなたを火もなき爐の傍に丸寐させては、假令ば妾し夢に戀人に逢うとも面白からず、妙も女でござんす、妾し一生の瑕瑾持佛の手前はづかしく、どうしてもあなたを能うお臥ませ申さでは。其樣に言葉を廻されてはどうして良いやら譯が分らず、無骨者の我等閉口しますに。ホヽ閉口なされたら溫順く妾しの云ふ事を聞てお臥みあれ。イヤ〳〵拙者の申す通りになされ。マア頑固に剛情を張られずとも。頑固でも何でも拙者の申す事聞かるゝがよい。ハイハイ到底あなたの頑固には叶ひませぬからあなたの申さるゝ通りに致しましよう、ホヽホヽ、まあ怖い顏をして。怖い顏は生れ付です。怒られたの。イエ御厚意に向つて何の怒りませう、唯少し眞面目になった計り。ホヽ可愛 らしい眞面目に。ハイ眞面目に。妾しも眞面目に申しませう、サア露伴樣。何。殿御の仰しやる事さへ通れば女子の云ふ事は通らずともよいと思はるゝか。何。御自分の御言葉だけを無理やりに心弱い妾しに承知させて妾しの眞實には露かゝらぬと酷らしうおつしやるか。知らん。知らんとは御卑怯な、サア此方へござれ御一所に臥みませう、妾しもあなたの御言葉を立てますればあなたとて妾しの一言を立てゝ下さつたとて御身體の解くるでもあるまい汚るゝでもござるまいに何故さう堅うなつて四角ばつてばかり居らるゝか、エヽ野暮らしいと柔らかな手に我手を取りて睛も動かさず平氣に引立てんとする其美しさ恐ろしさ。我膽も凍るばかり慄然として眼を瞑ぎ唇を咬み切め心の中にて「孽海茫々たり*44、首惡*45色慾に如くは無く、塵寰*46擾々*47たり、犯し易きは惟邪淫なり。拔山蓋世の雄、此に坐して身を亡ぼし國を喪ひ、繡口錦心*48の士、茲に因りて節を敗り名を隳す。始は一念*49の差たり、遂に畢世贖ふ莫きを致す。何ぞ乃ち淫風日に熾んにして、天理淪亡*50するや。當に悲むべく當に憾むべきの行を以て、反て計を得たりとなし*51、而して衆怒衆賤*52の事、恬として羞るを知らず。淫詞を刊し、麗色を談じ、目は道左の嬌姿*53に注ぎ、腸は簾中の窈窕*54に斷ゆ。或は貞節、或は淑德、嘉すべく敬すべきを、遂に計誘して完行なからしめ*55、若くは婢女、若くは僕妾、憫むべく憐むべきを、 竟に勢逼して終身を玷すを致し*56、既に*57親族をして羞を含ましめ、猶子孫をして垢を蒙らしむ。總て心昏く氣濁り、賢遠ざかり佞*58親しむに由る。豈知らんや天地容し難く、神人震怒し、或は妻女酬償し*59、或は子孫受報す。絕嗣の墳墓*60は、好色の狂徒にあらざるなく、妓女の祖宗は、盡く是れ貪花*61の浪子*62なり。富むべき者は玉樓に籍を削られ*63貴かるべき者も金榜*64に名を除かる。笞杖徒流大辟*65、生ては五等の刑に遭ひ、地獄餓鬼畜生、沒しては三途の苦を受く。從前の恩愛、此に至つて空と成り、昔日の風流而も今安にか在る。其後悔以て從ふなからんよりは、蚤く思ふて犯す勿きに胡れぞ。謹で靑年の佳士、黃卷の名流*66に勸む、覺悟の心を發し、色魔の障を破らん事を。芙蓉の白面は帶肉の骷髏に過ぎず、美艷紅妝*67乃ち是れ殺人の利刀なり。縱ひ花の如く玉の如きの貌に對するも、常に姉の如く妹の如くするの心を存して、未行者*68は失足*69を防ぐべく、已行者*70は務めて早く囘頭*71せよ。更に望む、展轉流通*72し、迭に相化導*73し、必らず在々齊しく*74覺路*75に歸し、人々共に迷津*76を出でしめんことを。すなはち首惡既に除き、萬邪自ら消し、靈臺*77滯りなく世榮遠きに垂れん矣。」とうろ覺えの文帝遏慾文*78を唱へける我見地の低さ鄙しさ。
*1:頭は先端の意味。角(つの)の先。
*2:西行と歌問答した江口の君である遊女の名前は「妙」である。遊女妙の返歌「世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ」が後に引用される。
*3:『源氏物語』宇治十帖の八の宮の姫君たちと薫の関係を引用しているのかもしれない。
*4:香煎は、米や大麦などに漢方薬の原料となるウイキョウ、陳皮など数種類を合わせて香ばしく煎り、粉末状にして焼き塩で味付けしたもの。白湯に入れて香煎湯として供される。江戸時代には宿場や茶屋に普通に置かれ、旅人の身心を癒やすものとして知られていた。
*5:露伴は、18 歳の時に北海道余市の電信局に赴任したが、明治 20 年 8 月 25 日余市を脱出し、同年 9 月 29 日東京へ戻った。このときの紀行文が『突貫紀行』である。露伴はこの後の明治 22 年 2 月〜8 月、「都の花」誌に処女作『露團々』を発表した。
*6:この部分は「それより露伴と戒名して」「それより我身を露の友として」とする異なる版が存在している。
*7:ここは、自身を露の滴に喩えている。
*8:この当時燐寸(マッチ)を「摺附木」と呼んでいた。
*9:芭蕉の『野ざらし紀行』に、「西(行)上人の草の庵の跡は、奧の院より右の方二町計わけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづかに有て、險しき谷をへだてたる、いと尊し。彼(かの)とく〳〵の淸水は昔にかはらずとみえて、今もとく〳〵と雫落ける。『露とく〳〵心みに浮世すゝがばや』」とある。
*10:大言壮語すること。また、そのさま。
*11:心の平穩はなく、出處進退は自らの宿業の風に吹かれて轉々とする。『虛堂和尙語錄』「慶元府萬松山延福禪寺語錄」から。
*12:身が焼かれるような。
*13:当時の中禅寺は、中禅寺湖北岸の中宮祠付近にあったことに注意。中禅寺は、明治 35 年の土石流被害で湖中に押し出され、大正 2 年に現在地である中禅寺湖東岸に再建された。
*14:後に出てくる「奧白根」の注参照。
*15:湯ノ湖(ゆのこ)は奥日光にある湖。北東にある三岳火山の噴火によってつくられた堰止湖。標高は 1,478m。湖畔に日光湯元温泉がある。
*16:冗談めかして言っているのであろう。
*17:日光白根山は、片品村の北東部、群馬県と栃木県の県境に位置する日光火山群の主峰。標高 2,578m で関東以北では最も高い。周辺に座禅山、前白根山、白根隠山の外輪山を従え、その内側に弥陀ヶ池、五色沼の湖沼がある。菅沼、丸沼、大尻沼はこの山の噴火によるせき止め湖。
*18:金精峠、栃木県日光市と群馬県利根郡片品村との境にある標高 2024m の峠。
*19:日光街道の大沢宿と徳次郎宿。
*20:下野の國の異称。
*21:ヤシオツツジ。栃木県の県花。ヤシオツツジといえばアカヤシオを指す場合が多い。アカヤシオの開花は 4〜5 月で葉が展開する前に、淡いピンク色の直径 5~6 cm ほどの花が下向きに咲く。
*22:日光南西部、足尾山系にある円錐状の成層火山。標高は 1892m。
*23:虚勢。
*24:強壮、強精薬である肉蓯蓉の代替として用いられる寄生植物オニク(別名:キムラタケ《金精茸》)のこと。ハマウツボ科の多年草で、日本ではミヤマハンノキの根に寄生する。
*25:声高に物を言って。わめいて。
*26:深山の緑の間にたちこめている空気。杜甫の『大歷三年春、白帝城放船出瞿塘峽、久居䕫府將適江陵漂泊、有詩、凡四十韻』に「空翠撲肌膚」とある。
*27:人間がもつ五つの欲。五官の対象である色、声、香、味、触の五境に対して執着することで起きる欲望のこと。また、財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名欲・睡眠欲という五つの代表的欲望を指す場合もある。
*28:「第六識」は仏教の唯識論では意識に相当し、「第六天魔王」は仏道修行を妨げる悪魔のこと。この二つを合成した露伴の造語であろう。
*29:菅沼。片品村の東部、日光白根山の北麓、標高 1,731m に位置する。湖岸線は複雑に入り組んでおり、大きく清水沼・弁天沼・北岐沼という名前が付いている。本州に在る湖としては最も透明度が高い。
*30:片品川。その支流が小川。
*31:群馬県利根郡片品村にある丸沼温泉。片品温泉郷を構成している。
*32:「冬のように」という意味であろう。冒頭に 4 月とあり、実際の季節は春である。
*33:約 2.2 km。
*34:冒頭に引用されている江口の宿の遊女妙の返し歌を踏まえている。
*35:家の背後。
*36:むさくるしくはござりますが。
*37:フランネル。
*38:蝶足膳。足の形が蝶の羽のようであることからこの名で呼ばれる。四足の膳の中で最も格式が高いとされる。
*39:八寸 (約 24cm) 四方の膳。
*40:男女二人で仲良く一つの食膳をはさんで食事をすること。
*41:「我等」は単数の「我」を卑下して言うときにも使う。
*42:了然尼の逸話を指す。
*43:「およる」は「寝る」の尊敬語。
*44:孼/孽は「わざわい」の意。この世が悪業に満ちていることを海にたとえたもの。
*45:元凶。
*46:俗世間。塵界。
*47:乱れてごたごたしている。
*48:詩文の才能にすぐれているたとえ。
*49:一瞬の心の動き。
*50:「淪」は、「しずむ」「おちぶれる」「ほろぶ」こと。
*51:自分の利益のための良策と受けとめて。
*52:一般の人の怒りや蔑み。
*53:道行く色っぽい女性の姿、「左」とあるのはよろしくない方向だからであろうか。
*54:美しくしとやかな姿態。
*55:策を廻らせ誘惑し、美徳をまっとうさせる邪魔をして。
*56:威をかりて迫り一生を汚して台無しにする。
*57:「〜の上に」
*58:悪い遊び仲間。
*59:「身を売る」という意味が含まれている。
*60:跡取りの絶えた一家の荒れた墓。
*61:好色。
*62:道楽者。
*63:勘当されて籍を抜かれ。
*64:科挙に合格した者の名を掲示した黄金の札。
*65:「徒」は懲役刑、「大辟」は死刑
*66:学問に抜きんでた人。
*67:「紅妝」は化粧をした美人。
*68:未だ罪を犯していない人。
*69:つまずいて、過ちを犯す。
*70:すでに罪を犯した人
*71:改心すること。
*72:転々流通、 不特定多数者に伝えること。
*73:衆生をお互いに教化して善に導くこと。
*74:皆等しく。
*75:悟りの道。
*76:衆生がさまよう三界六道の迷いの世界。
*77:魂のある所、精神。
*78:『文帝書鈔』巻十一の「聖訓上」に「欲海廻狂寶訓」として原文がある。