高橋源一郎の『官能小説家』を読んだ。
「いや、だからどこまでがほんとうで、どこまでが興味本位の噂話なのか、はっきりとは申し上げられないわけなのです。先生(注:漱石)、実は、わたしは一葉女史や半井桃水といささか縁があるものでして」 「どういう縁なんだね」 「いや、それが」森田草平は口を濁すと、その場を取り繕うようにいった。
おまえ、知っているかえ。ついこの間まで鮭なんぞ天保銭一枚で一疋買えたのに二銭五厘もかかるんだから。
その年も少しずつ終わりに近づいている頃のことだった。雑誌『都の花』にひとりの新人の短篇小説がひっそりと掲載された。作家の名前は樋口一葉、小説のタイトルは『チェリー・インザダーク』だった。新人賞による華々しいデビューではなく、他の分野の有名人の手になるものでもないその作品に注目する者はほとんどいなかった。
※ 三編のみ発行された「武藏野」の第二編と第三編の題字は一葉の筆によるものである(日記にも出てくる)。
一葉作品に出てくる数字で印象的なのは、『たけくらべ』の「つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事此通りのみにて七十五輛と數へしも」であるとか、『大つごもり』の「井戶は車にて綱の長さ十二尋」「風呂は据風呂にて大きからねど、二つの手桶に溢るゝほど汲みて、十三は入れねば成らず」とか、『官能小説家』でも引用されていた『にごりえ』の「兩側に立てたる棟割長屋、突當りの芥溜わきに九尺二間の上り框朽ちて」とかである。『軒もる月』にあるように数字を重ねて使う仕方にも特徴がある。
明治二十九年十一月二十三日に二十四歳で一葉は亡くなったが、生前発表した二十編あまりの小説の中では亡くなった日にあたる「二十三」という数字をつかっていないと思う。
二十台の数字を列挙してみると、二十は、『大つごもり』で「屋根やの太郞に貸付のもどり彼金が二十御座りました」とすぐに思い出す。二十一は、『暗夜』で直次郎の母が「さらでもの初產に血のさわぎ烈しく、うみ落せし子の顏もゑしらで、哀れ二十一の秋の暮一村しぐれ誘はれて逝きぬ」とある。二十二は、『ゆく雲』で「桂次が今をる此許は養家の緣に引かれて伯父伯母といふ間がら也、はじめて此家へ來たりしは十八の春、田舍縞の着物に肩縫あげをかしと笑はれ、八つ口をふさぎて大人の姿にこしらへられしより二十二の今日までに、下宿屋住居を半分と見つもりても出入り三年はたしかに世話をうけ」と使われている。二十四は、『曉月夜』で「有し昔しの敏ならで、可惜廿四の勉强ざかりを此體たらく殘念とも思はねばこそ」とあるし、『五月雨』の杉原三郎の年齢も、「杉原さまはお廿四とやお歲よりは老けて見え給ふなり」となっている。二十五は、『暗夜』で「汝は幾歲とや十九か二十か、我れに比らべてよほどの弟とおぼゆるに、我れはまあ幾歲ほどに見ゆるぞや、されば一ツ二ツの姉君か、何として何として、すがれと言ふ三十はやがてほどなき廿五といふ、それは誠に何たる御若さといへば、襃めるのかやそしるのかや、とて御顏あかみぬ。」とお蘭の年齢がわかるところがある。二十六は、お町の年齢が「年を言はゞ二十六、遲れ咲の花も梢にしぼむ頃なれど、扮裝のよきと天然の美くしきと二つ合せて五つほどは若う見られぬる德の性」と設定されている。二十七と二十八は、『經つくえ』で「醫科大學の評判男に松島忠雄と呼ばれて其頃二十七か八か」とあり、『にごりえ』ではお高を「二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く」と語っている、二十九は、『うもれ木』に「黒絽の羽織に白地の裕衣、態とならぬ金ぐさり角帶の端かすかに見せて、溫和の風姿か優美の相か、言はれぬ處に愛敬もある廿八九の若紳士、老女の方顧みさま詞つき叮嚀に、私し通りすがりの身、來歷は何か知らねど」と使われているし、『にごりえ』 の源七の「女房はお初といいて二十八か九にもなるべし」とある。しかし二十三という数字は出てこない。『にごりえ』のお力の年齢は二十三なんだろうと勝手に想定している。