ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

Chênh Vênh

前の記事の "Chênh Vênh" の歌詞の意味に今度は挑戦してみたが、難しくて歯がたたなかった 。しかしながら初めて覚えたベトナムの歌なので記念に記事にしておこう。"Chênh Vênh" の訳は、「情緒不安定」だと最低のような気がするので「あてどない気持ち」(または「さすらう気持ち」)と訳したがやっぱり、しっくりこない。


Chênh Vênh - Lê Cát Trọng Lý ( Vietsub - Lyrics)

中間の部分だけはなんとなくわかる。難しいのは最初と最後の部分である。

よく分からない部分:神話の世界の男女の神に喩えているのかもしれない

Thương em, anh trèo non cao,
mua mưa, thâu mây, tan mệnh bạc.
わたしを愛してくれて、あなたは高い山に登り、雨を買い、雲を集め、銀を溶かして運命を変える。
※ 「銀の運命」は故事から「不幸な運命」を指すらしい。

Thương anh, em lội sông sâu,
trôi hương, trôi hoa, tan phận ngọc
あなたを愛して、わたしは深い川を渡り、色と香を漂わせ、玉を溶かして運命を変える。
※ 「玉の運命」は「銀の運命」からの創造で、「幸福な運命」を指すのだろう。

Còn chần chừ chi , hỡi anh?
何をそんなに躊躇してるの?

Hôn em, ôm em, cho nát chênh vênh.
キスして抱いて、このあてどない気持ちをどうにかしてよ。

Ừ, tình là điên, khát, say.
愛は狂おしく、渇き、溺れるものでしょう。

Hôn em, ôm em, sao nát chênh vênh?
キスして抱いて、このあてどない気持ちをどうにかしてよ。

以下は繰り返し:

Thương em anh trèo non cao
Mua mưa thâu mây tan mệnh bạc
Thương anh em lội sông sâu
Trôi hương, trôi hoa tan phận ngọc

Còn chần chừ chi hỡi anh
Hôn em ôm em cho nát chênh vênh
Ừ tình là điên khát say
Hôn em ôm em sao nát chênh vênh

ここもよく分からない:

Thương em, thương tình đa mang.
わたしを愛して、いつもあなたを思ってくれる愛を愛している。

Yêu trăng ba mươi, quên mình.
30日月 (満月のこと?) の愛に我を忘れてしまう。
→ 修正: 「30 日目の月を愛して、我を忘れている」という意味か?月の満ち欠けのサイクルは 29.5 日なので 「30 日目の月」は存在しない。つまり、「現実にないものを愛して、我を忘れている」ということ?

Thương tôi, thương phận long đong.
わたしを愛して、人生の波乱を愛している。

Yêu tan mong manh, tan nhật nguyệt.
愛がはかなく終われば、太陽も月もはかなく消えてしまうのに。

Thương tâm ...
傷心……

ベトナム語の発音 (3)

ベトナム語の発音の仕組みの基本が理解できたところで、歌唱ではいったい声調はどう処理されるんだろうかと興味が湧いて、Lê Cát Trọng Lý という人の Chênh Vênh というゆっくりした曲を聴いてみる。やっぱり、音符には音節単位に歌詞がついていて、そこに「節まわし」としての声調を加えているのだな。Chênh Vênh (チェイン ヴェイン) というのは「気持ちが不安定な」という意味だと思う。「キスして抱きしめて、なぜこの気持ちを吹き飛ばしてくれないの」とか言っている (のだと思う)。t と th の発音の違いがよくわかる。


• Lyrics • Chênh Vênh • Lê Cát Trọng Lý

Thương em anh trèo non cao
Mua mưa thâu mây tan mệnh bạc
Thương anh em lội sông sâu
Trôi hương, trôi hoa tan phận ngọc

Còn chần chừ chi ? hỡi anh
Hôn em, ôm em cho nát chênh vênh
Ừ, tình là điên khát say
Hôn em ôm em sao nát chênh vênh

Thương em anh trèo non cao
Mua mưa thâu mây tan mệnh bạc
Thương anh em lội sông sâu
Trôi hương, trôi hoa tan phận ngọc

Còn chần chừ chi hỡi anh
Hôn em ôm em cho nát chênh vênh
Ừ tình là điên khát say
Hôn em ôm em sao nát chênh vênh

Thương em thương tình đa mang
Yêu trăng ba mươi quên mình
Thương tôi thương phận long đong
Yêu tan mong manh tan nhật nguyệt
Thương tâm ...

同じ Lê Cát Trọng Lý の別の曲も聞く。


[LYRIC VIDEO] Thương - Lê Cát Trọng Lý

いろいろ

アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(1958) の次のシーンは見れば見るほど不思議で、蓮實重彥が「ルプレザンタシオン」(1992 年春 第三号) の「周到さからもれてくるもの ヒッチコック『めまい』の一シーンの分析」でとりあげているシーンでもある。

その不思議さは、結局このシーンの中で、ブロンドのシニョンの髪型のキム・ノヴァックの横顔を大写しでキャメラが捉え、彼女が振り返るところの動作をわざわざ二つのショットに分割し、その分割したショットとショットの間にジェームズ・スチュワートが振り返るショット(この動作も二つのショットに分割されている) を挿入するという形式はいったい何のためだろうということに収斂する。

蓮實さんは、本来ヴェラ・マイルズが主演する予定だったこの作品において、ノヴァックの演技を最小限の振り返る動作だけにして、なおかつ場面を印象づけるためにカットを割ったのではといった趣旨のことを述べておられる。自分としては、ここを二つに割ったのは、後の流れからキム・ノヴァックの横顔の左と右を別々のものとして提示したかったからではないかと思っている。「後の流れ」というのは、すでに記事で書いたことがあるのでそれを参照して欲しい。マデリンとジュディという一人二役をキム・ノヴァックで実現するためにこういう形式にしたんだと思う。


                        • -

最近、天安門事件のころ中国でよくきかれていた、中国初のロック歌手、崔健の曲がなぜか個人的にリバイバルしていてずっと聴いていた。ついでながら、中国当局が天安門事件の記録を検閲し歴史隠蔽するのと喫煙シーンがあるからといって、たとえばジョン ・フォードの映画のテレビ放送を自粛するのといったい何が違うのだろうと考えたりもした。それもやっぱり歴史隠蔽であり、両方ともやめるべきである。


                        • -

後は、絶版になって読んでいなかった シルヴァーノ・アリエティの『創造力 原初からの統合』の翻訳が近くの図書館にあったので借りていたのを拾い読みした。エミー・ネーターをエミー・ノエザなんて訳していて酷い。小川和夫の『ニュー・クリティシズム 本質と限界』という本も読んだ。「ニュー・クリティシズム」という呼び名はジョン ・クロウ・ランサムが 1941 年に出版した評論集の題名に由来しているとある。

しかし、この二冊よりも前の記事の真屋和子さんの論文の方がずっと面白く、やっぱりプルーストだなあといつの間にか『失われた時を求めて』の拾い読みを始めている自分に気がついて怖い。過去に読んだときは読み終えるまでに 10 年近くが過ぎた。


60 年代後半の西海岸音楽

60 年代後半の西海岸の音楽シーンの一つの側面をごく浅く紹介。60 年代後半と限定したのは、もちろん、合衆国独立宣言から 200 年たった1976 年の「ホテル・カリフォルニア」でイーグルス (1971 年結成) が、

We haven't had that spirit here since 1969.

と、“spirit” という単語に含意を持たせて、若者対抗文化 (カウンター・カルチュア) が変質したことを歌ったのと同じ感覚であり、たんにビートルズの解散が 1970 年ということだけで区切っている訳ではない。 「ホテル・カリフォルニア」が名曲だとするならば、それは失われた 60 年代という歴史に対する、しかるべき「供養」のようなものが明確に伝わってくるからである。ここでいっている「供養」とは、破壊することも創造することも禁じられた新しい世代が、古い世代の、すでに擁護することも許されない犠牲者たちの無念さに対して、どうしようもなく感じてしまう情念に憑かれつつ、なにかを始めようとすることに他ならない。
※ 区別する必要を感じない「平成」「令和」などとは違い、ほとんど和製英語である「ウェストコースト・ロック」などと呼んで「1960 年代後半から 1970 年代」 を一括りに扱うこと自体、歴史意識が欠如しているとしか思えない。たとえば、70 年代の合衆国西海岸で「ハッカー」が生まれパーソナル・コンピュータが誕生したことを理解するにしても、そういった歴史意識は必要である。//

1967:
ワズント・ボーン・トゥ・フォロー (ザ・バーズ):

イージー・ライダーのバラード (ザ・バーズ):

ザ・ビート・ゴーズ・オン (ソニー・ボノ & シェール):

フォー・ホワット・イッツ・ワース (バッファロー・スプリングフィールド):

1968:
ヒッコリー・ウィンド (ザ・バーズ):

※ ロデオの恋人

1969:
ワイルドで行こう (ステッペンウルフ):

シェイディ・グローブ (クイック・シルヴァー・メッセンジャー・サービス):

アイ・ウォーク・オン・ギルデッド・スプリンターズ (シェール):

※ 3614 Jackson Highway

ダーク・スター (グレイトフル・デッド):

ライヴァー・ザン・ユール・エヴァー・ビー (ローリング・ストーンズ) から:
Love in Vain

※ カリフォルニアでのライヴ


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ロリーナ

いろいろと見ても、最近はそのすべての作品について書く気がない。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019) も見たけれどあまり書きたいと思わない。そもそも、タランティーノの映画とは昔からごく曖昧な付き合い方で、最初にタランティーノの名前を知ったのでさえ、何の予備知識もなしに盛岡の映画館にぶらりと入って見た「フロム・ダスク・ティル・ドーン」(1996) からに過ぎないのでかなり後になってのことである。そのときは、予定調和的なビッグ・ストーリーの作品 (脚本) でないところが救いだとは思った。自分は、タランティーノと同世代といえると思うが、60 年代のサブ・カルチュア的なものについて、彼のような関心はとても持てず、今度の作品についても、どうせノレないだろうなあと思いつつ、例によってずるずると見に行ったのだが、なんか向こうも向こうでずるずると演出しているような作品で、やっぱり曖昧なままの関係を維持しただけだった。作品については、60 年代サブカルチュアを描いたジャンルとは一切無縁に見るという方針で努力したので、書かないけどそれなりに面白い細部はいくつかあった。

自分が育った同時代である 60 年代から80年代は、さすがにその時代に存在していたので、まったく無知というわけではないが、それに対する関心の希薄さというのは、自分のブログの記事を見てもほとんど書いていないことに驚くばかりである。そのためかどうかはわからないが、Google Analytics で、ここ 1 ヶ月ほどの間に記事にアクセスしていただいた年代層を確認してみても、自分と同年代は最低で、25 歳~35 歳と 65 歳以上の世代が圧倒的に多いというちょっと不思議なプロファイルである。ちなみに女性の閲覧者は 30 % 程度でこれは、某国立大学の女子学生比率よりは多いので、まあしょうがないんじゃないかと訳のわからない納得の仕方をしている。子供の頃、とてもよかったと思ったもので、いまならどうなんだろうと機会があれば確認したいと思っている数少ないもののひとつは、尾崎一雄の『末っ子物語』ぐらいで、これは、60年代ぎりぎりの 1960 年の小説である。

ジョン・フォードの作品も見直して書いていないものが増えてきた。『騎兵隊』(The Horse Soldiers, 1959) は、スタントマンが事故で死亡してしまいフォードが途中でやる気をなくしてしまったせいか、珍しく「帰還」の主題が見つけにくい作品となっている。この作品で、ジョン・ウェインがコンスタンス・タワーズの頭を覆っていたスカーフをとって、自分の首に巻いて別れるラストの場面では、『捜索者』で何度も流れるあの感動的な Lorena のメロディが流れていることに気がついた。この曲はやはり南北戦争のときに歌われたものである。これをブルーグラス音楽の第二世代ともいうべき、ジョン・ハートフォード (John Hartford) の演奏で聞いてみる (ついでに有名な “Gentle on My Mind” もあげておく)。



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ペグ・ラセントラ

ポール・スチュワートというと、ジョン・ハウズマンとオーソン・ウェルズが設立した「マーキュリー劇団」に初期から関与していた人物で、『市民ケーン』(1941) やロバート・オルドリッチ監督の『キッスで殺せ!』(1955) などに出演している。

そのポール・スチュワートと結婚していたのが、ペグ・ラセントラ (Peg LaCentra, 1910-1996) である。彼女は 1930 年代後半には、アーティ・ショウ楽団の歌手だったことがある。最初のアーティ・ショウ楽団は 1936 年に結成され、1937 年には解散している。彼女とアーティ・ショウのレコーディングはこの時期に限られている。

1936:
There's Something in the Air:

There's Frost on the Moon:

Darling, Not Without You:

ガーシュウイン兄弟のスタンダード曲を題名に持っているラオール・ウォルシュ監督の “The Man I Love” (1947) には、アイダ・ルピノと『アメリカ交響楽』(Rhapsody in Blue, 1945) でガーシュウィンを演じたロバート・アルダが主演しているが、下のクリップでアイダ・ルピノの声を吹き替えているのが、ペグ・ラセントラである。室内のシーンであるが、このクリップを見ていると、男性の顔は硬調に、女性の顔は軟調に撮影するということが当時のハリウッドでいかに忠実に守られているかということに改めて感動してしまう。

※ 他のアーティストが歌う “The Man I Love” は過去記事で纏めている。

ジーン・ネグレスコ監督の『ユーモレスク』(Humoresque, 1946) は ジョーン・クロフォードとジョン・ガーフィールド主演の映画だが、下のクリップでは彼女の姿がピアノのところに登場し、ガーシュウィンの “Embraceable You” をジョーン・クロフォードと掛け合いしている。

※ 他のアーティストが歌う “Embraceable You” はこちらから。


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ジーン・ピットニー

ジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを射った男』(The Man Who Shot Liberty Valance, 1962) を見直したので、この時期、ポール・アンカやニール・セダカほどではないにせよ人気があったジーン・ピットニー (Gene Pitney, 1941-2006) の曲を聞いていた。

1962:
リバティ・バランスを射った男 (The Man Who Shot Liberty Valance):

※ バート・バカラック& ハル・デヴィッドによるこの曲は全米チャート 4 位となったが、作品の主題歌としてはもちろん使用されてはいない。//

よく言われることだが 1961 年の『ルイジアナ・ママ』は当時ロカビリーが流行していた日本のみでヒットした曲で、飯田久彦がこの曲をヒットさせたことが大きい。15 歳ぐらいの弘田三枝子もカバーしたし、他にも多くのカバーがある。

1961:
ルイジアナ・ママ (Louisiana Mama):

飯田久彦:

弘田三枝子:


1961:
Every Breath I Take:

非常の町 (Town Without Pity):

1962:
愛の痛手 (Only Love Can Break a Heart):

※ バカラック & デヴィッド

恋のジュークボックス (If I Didn't Have a Dime):

※ クリップを見ると、日本では「恋のジュークボックス」が A 面であるが、米国では逆で「愛の痛手」が A 面であった。僕の耳には日本側の選択がよいように思える。もっとも、日本側の選択は 1962 年に国産ジュークボックスの普及が始まったことによるのかもしれない。//

恋の 1/2 (Half Heaven - Half Heartache) :

1963:
Mecca:

Twenty Four Hours From Tulsa:

※ バカラック & デヴィッド

1964:
That Girl Belongs To Yesterday:

※ 上の曲はミック・ジャガーとキース・リチャーズのコンビによる最初のトップ・テン・ソングといわれている。//

I'm Gonna Be Strong:

※ オリジナルは 1963 年の Frankie Laine によるものだが、ヒットしなかった。Cyndi Lauper が 1980 年と 1994 年にこの曲をレコーディングした。


※ フィル・スペクターがプロデュースした最初のナンバーワン・ヒットであるクリスタルズの “He's a Revel” はジーン・ピットニーが曲を提供したものである。

1962:
He's a Revel (The Blossoms - The Crystals):

太陽は光り輝く

1859 年というから南北戦争前であるが、ダニエル・エメットによって作曲された “Dixie” は、ジョン・フォードの作品でいったい何回使われているのだろうか?

『リオ・グランデの砦』(1950) のフィナーレでは、ジョン・ウェインの傍でこの曲にあわせてモーリン・オハラが日傘をクルクル回して幸せそうにリズムをとっていたし、『若き日のリンカーン』(1939) では、リンカーンを演じた馬上のヘンリー・フォンダが口琴を奏でる次の場面もあった。

※ 追記: 『虎鮫島脱獄』(1936) でも何度も使われている。

『太陽は光り輝く』(The Sun Shines Bright, 1953) は、フォードのウィル・ロジャース三部作の最初の作品である『プリースト判事』(1934) のあくまで緩かなリメイクである。その『プリースト判事』でも最後の法廷の場面で “Dixie” は物語に決定的な役割を果たしている。そして、この 『太陽は光り輝く』ではなんと二度も "Dixie" が使われている。特に、最初の法廷場面で派手に演奏されるシーンは何度見ても最高に楽しい演出である。そこでは、あのラッセル・シンプソンまでが笑っている!“Dixie” の前に演奏されているのは北軍の “Marching Through Georgia” で、日本では「東京節」とか「パイのパイのパイ」とかいわれる曲の元歌である。

前作でウィル・ロジャースが演じていたプリースト判事役は、チャールズ・ウィニンジャーが演じている。あのポール・ロブスンとヘレン・モーガンが出演し、ジェームズ・ホエールが監督したユニバーサル版の『ショーボート』(1936) でアンディ船長を演じていた人である。ウィニンジャーはオリジナルのミュージカル『ショーボート』初演時もアンディ船長役だった。ウィニンジャーが演じる本作のプリースト判事はアルコール好きで南軍のラッパ手だったという設定で、判事の再選のために選挙活動を行なっており巧みに自分の名刺をあちこちで配っている。

『太陽は光り輝く』(The Sun Shines Bright) という作品のタイトルは、スティーブン・フォスターの “My Old Kentucky Home” (ケンタッキーの我が家) の歌詞の最初のところから採られている。ポール・ロブスンの名前が出てきたので、彼が歌ったこの有名な曲 (ケンタッキーの州歌である!) の録音をあげておく。

前作の『プリースト判事』に出演して印象に強く残り、忘れ難いステピン・フェチットとフランシス・フォードという二人の脇役がこの作品で再び出演している。フェチットはプリースト判事の黒人の召使い役である。ジョン・フォードの兄であるフランシス・フォードは、この作品が自身最後の映画出演であり、少女を暴行した悪漢のバック (グラント・ウィザーズ) がルーシー・リー (アーリーン・ウェラン) を連れて馬車で逃げようとするところをライフルで倒す大活躍をする。フランシス・フォードとコンビを組んでコメディ・リリーフをしているスリム・ピケンズは、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964) のコング大佐を演じた人である。

アシュビー役で出演しているジョン・ラッセルについては、『リオ・ブラボー』(1959) の悪役ネーサンのイメージが強烈なので、てっきりこの作品でも悪役かと思ったら全然違っていて、副主人公のような役柄である。この作品は南北戦争が終わって おそらく40 年程経ったケンタッキーの川沿いの港町が舞台であるが、町の富豪の息子であるアシュビーが故郷であるその町に蒸気船で久し振りに戻って来て、ラッセル・シンプソンが演じている医師の娘 (実は養女) で小学校の教師になったルーシー・リーを見染めるところから作品が始まっている。

手元にある DVD のパッケージには、上映時間 100 分とあるが、ハーバート・J・イェーツが率いるリパブリック社により配給されたもともとの米国公開時のフィルムは 90 分にカットされていた。本作は、『静かなる男』(1952) の大ヒットの後に低予算で作られ、フォードが『幌馬車』(1950) と同様、気に入っていた作品である。

ただし、『幌馬車』に較べてかなりストーリーが複雑であるし、売春に関しては当時の規制コードで完全にぼかされているので、現在、この作品を見る人は少しわかりにくいかもしれない。それにも拘らず、作品最後の部分にある、売春婦であったルーシー・リーの母親の葬儀の行進の場面はやはり胸をうつ。ルーシー・リーは南軍の将軍フェアフィールド (ジェームズ・カークウッド) の孫娘であるが、将軍は売春婦であるリーの母親 (ドロシー・ジョーダン) を許そうとはせず、産まれたリーも養女としてラッセル・シンプソンに預けていたのである。母親は病気で最期は故郷で葬られたいと願い、船で町に戻ってきて売春宿の女将であるマリー・クランプ (エヴァ・マーチ) に自分の葬儀を頼み亡くなる。女将はたびたび訴えられて法廷に出頭しているが、いつも親切に椅子を勧めてくれるプリースト判事に葬儀の協力を頼み、判事は選挙が不利になることを承知で協力を約束する。その葬儀の場面は 『幌馬車』の記事 ですでに述べたように、緩やかな運動が最大の力動を有する場面である。フォードはここではバックの音楽すら最小限に留め (“Deep River” が歌われる)、選挙のパレードとも対照させながら演出をしている。


太陽は光り輝く [DVD]

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  • チャールズ・ウィニンジャー
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Harbor Lights

この曲は、独立プロデューサー、ウォルター・ウェンジャーが『駅馬車』(1939) に引き続いて製作したジョン・フォード監督の『果てなき船路』 (The Long Voyage Home, 1940) で少なくとも三度はバックに流れる。まず、最初の字幕のところで流れ、次はイアン・ハンター (写真左の役者) が逃亡して連れ戻された後に船が出港するところ、三度目は映画の最後で、アーサー・シールズ (写真右の人) が捨てた新聞が船の舷側に貼り付き、水の流れ越しに、トマス・ミッチェルが乗った船が撃沈されたことを伝える記事が見えるところから聞こえはじめる。フォードの暗い映画にドロレス・デル・リオが出演した『逃亡者』(1947) があって、そのキャメラはメキシコのガブリエル・フィゲロアであることはすでに以前の記事で書いたが、フィゲロアは米国にいって、この映画の撮影を担当しているグレッグ・トーランドに学んでいるのである。

1937:
Frances Langford:

Rudy Vallée:

Vera Lynn:

1950:

Guy Lombardo Orchestra:

Bing Crosby:

Ray Anthony Orchestra:

1954:
Elvis Presley:

1958:
Pat Boone:

1959:
Rosemary Clooney:

1960:
The Platters:


果てなき船路 [DVD]

果てなき船路 [DVD]

  • ジョン・ウェイン
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旅のおわり世界のはじまり (2019)

総天然色シネマスコープにアップされる前田敦子 (若尾文子の映画が好きという) が山の頂きで突然歌い出す「愛の賛歌 (Hymne à l'amour)」にこれほどまで泣けるとは!『めまい』(1958) のように酔いしれ、『カリフォルニア・ドールズ』(1981) のように泣ける作品である。学生時代に黒沢清の自主映画をはじめて見たときのような自由の風を感じた。ただ、ほとんど 40 年前のその時はこんなにうっとりし、こんなに泣かなかった。二重内陸国ウズベキスタンでロケーションし、夏の夜のロカルノ、ピアッツア・グランデ広場の巨大野外スクリーンにクロージング上映されることも決まったという。港町が海のネットワークだとすれば、シルクロードの街は陸のネットワークである。歴史の時間と世界の空間が交錯する場所で、日本を軽々と越境したスタッフや出演者が、潜在的ななにかを徐々に解放していく持続を見事に画面に定着し、歌の力を生み出すことで、新たな日本映画を創造した。映画館の大きなスクリーンに抱擁されるのに、これ以上ふさわしい作品があるだろうか。

Édith Piaf:

Celine Dion:

Celine Dion - Hymne à L'Amour (Live at American Music Awards AMAs 2015) HD

越路吹雪:

越路吹雪 愛の讃歌 1960 / Hymne a L'amour

岸洋子:

岸洋子 愛の讃歌 1962 / Hymne a L'amour

Vera Lynn:

Vera Lynn ~ If You Love Me


めまい (字幕版)

めまい (字幕版)

  • ジェームズ・スチュワート
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香も高きケンタッキー


YouTube にジョン・フォードの『香も高きケンタッキー』(1925) の断片が存在している (いた) ことに驚く。


1936 年 (11 年子) の曲を何曲か。

東京ラプソディ:

椰子の実:

おしゃれ娘:

アイルランドの娘:

花言葉の歌:

下田夜曲 (服部良一編曲)

二人は若い 都々逸:

※ 元歌は 1935 年

//

前畑実況放送:

思い出の曲

若者が、実際に生まれてもいない 1960 年代をなぜ懐かしむのかを不思議に思う人の方が僕には余程不思議である。自分だって生まれてもいない時代の映画や音楽が好きである。逆にこの後期資本主義の時代に最新の流行を次から次へと追いかけて消費していくスタイルが未だに成立し続けると信じていることの方が不思議である。経済成長のために消費の欲望をかき立てられ、流行に追いかけ回されることからいったん醒めてしまえば、成長の代償として何を失ったか気付くだけのことである。

自分が呆けたとしたら、どんな音楽を聴かせてもらったら脳が一時的にせよ活性化するのだろうと考えていたら、一曲思い当たった。

これって、初めてストリップ劇場に行ったとき、踊り子さんがこの曲にあわせて踊っていて衝撃を受けた。

          • -

1931:
丘を越へて (藤山一郎):

丘を越えて (東京フロリダ・ダンス・ホール 巴里ムーラン・ルージュ楽員 ):

疵千両

三年あまり前の小津安二郎監督の誕生日でも命日でもある 12 月 12 日の「サワコの朝」に香川京子さんが出演されていたのをたまたまテレビで見て、『近松物語』(1954) や『東京物語』(1953) の大女優が語る日本語の美しさに聞き惚れたことと、岸洋子さんの歌をリクエストされていたことを思い出した。

長谷川伸の戯曲 『疵高倉』の映画化であり、大映の田中徳三が新人監督であった 1960 年に撮った 『疵 (きず)千両』を見た。『近松物語』と同じように長谷川一夫と香川京子が共演する作品の一本である。キャメラは、宮川一夫のもとで学んだ本多省三。もう、こんな時代劇がこれからの日本で作られることはないだろう。香川京子が赤ん坊を抱いて会津の子守り歌を唄いながら縁台を下り、画面のこちら側へゆっくり歩いてくるとキャメラもそれに合わせてゆっくりと移動してゆく。すると、いつのまにか弓恵子が同じ会津の子守唄を歌いながら縫い物をしている場面へと切り替わる。彼女が座っている部屋の奥にみえる縁側には長谷川一夫が腰掛け、その子守唄にじっと耳を傾けている。その叙情の素晴らしさ!傑作である。


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  • 発売日: 2017/01/27
  • メディア: DVD

パーソナル・ソング

数年前のサンダンス映画祭で話題となったドキュメンタリー映画『パーソナル・ソング』(Alive Inside, 2014)

でも紹介されていたが、認知症の症状の緩和に音楽が用いられている。それがどこまで効果があるのか寡聞にして知らないが、人にとって特定の音楽 (パーソナル・ソング) がその人の記憶を刺激して、過去の特定のイメージと結びつくことで、それを記憶の底から呼び覚ますことは、充分ありそうなことだと感じる。過去の歌を聞いて、自分に近しかった人がその歌をよく口ずさんでいたことを懐かしく思い出し、その親しかった人のことをあれこれ呼び起こすというのは、多くの人が経験することであろう。また、歌詞は覚えていなくても、メロディの 1 節ぐらいは覚えていることはザラであり、ということは、言葉よりもメロディは遥かに記憶に長く残りやすいのである。過去に聞いた音楽のメロディが記憶から取り出されるとき、それに関連した記憶も刺激され、一緒にそのときの感情や雰囲気や映像まで取り出されて、脳の働きが活性化するのだと思う。

セラピーを受ける相手の年代の音楽背景を充分理解した音楽療法士の方が、相手にとって記憶を喚起しやすい曲を選択し、さらに想起の手助けのため、あれこれ音楽に関連することについて説明されたり、質問されたりする内容の記録を読んでいる内に、学生時代の蓮實さんの映画ゼミを思い出した。蓮實さんは音楽療法士がされているような質問を学生へしていた。もちろん、学生はまだ若いので前頭葉は流石に老化していないはずだが、逆に記憶へのインプットが不足しているので、年 100 本以上サイレントを含む映画を見ることを学生に課していたし、記憶の喚起が抽象的で紋切り型のイメージに自動的に結びつくことに常に注意していたと思う。そういう意味では、誰でも知っていることを忘れたかのように振る舞うことを覚えるのも重要なのである。

さて、1937 年にビング・クロスビーが初めて歌った『ブルー・ハワイ』を聞く。

1937:
Bing Crosby:

1954:
Bing Crosby:

1957:
Patti Page:

1958:
Frank Sinatra:

Billy Vaughn Orchestra:

1961:
Elvis Presley

1967:
西郷輝彦:

※ 1936 年にディック・ミネは『ブルーハワイ』というタイトルの曲を歌っている。

東京キッド

これはさすがに昔見ているが、斎藤寅次郎監督の『東京キッド』(1950) を見る。この作品はいま見ても大変面白く、当時大ヒットしたのがよくわかるし、13 才の美空ひばりが、すでに卓越した歌手であることもわかる作品だ。二回歌われる仁木他喜雄が編曲した、あまりにも有名な「東京キッド」。

※ 3番もある。

//
※ 仁木他喜雄が編曲したひばりの曲は五曲ほど残されている。以下は 1955 年のもの。両曲とも作曲は山田耕筰によるもの。



//

ひばりの最初のヒット曲 「悲しき口笛」(1949) はこの作品でも何度も歌われる。師匠である川田晴久がギターで出だしを弾き出すと、まずひばりの歌声だけが聞こえ、最後にひばりが画面に登場するという演出になっており、そこでは曲にあわせて、今度は榎本健一が踊る場面もある。この映画のエノケンは見もので、副業として菓子屋を始め、胃散のおまけ付きアイス・キャンデーを子供達に売っていて、歌が流れだすと必ず踊りだす占い師の役を演じている。あのヒゲや帽子はマルクス兄弟の影響かもしれない。

川田晴久と輪タク、ボートに乗っている場面でそれぞれ歌われる 「ひばりが歌えば」。

「浮世船 (航) 路」

「湯の町エレジー」と「トンコ節」は絶妙である。

他には、花菱アチャコ、堺駿二、坂本武が出演しているのが嬉しいし、当時ですら人力車 (南アジアで現在見る自転車付きのリキシャで「輪タク」と呼ばれている) が走っていることに驚く。ゴム跳びをして遊ぶ女の子を最近、まったく見なくなったことにも気付かされた。なお、美術は小津作品も手掛けた濱田辰雄である。