ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

憧れのハワイ航路

斎藤寅次郎監督の『憧れのハワイ航路』(1950) を見る。

岡晴夫と美空ひばりの歌が満喫できるなあ、この映画。それと、戦前の小津映画でおなじみの (たとえば、1932 年の『大人の見る繪本 生まれては見たけれど』) 吉川満子が出演しているのを見たときには嬉しかった。

ひばりは、この映画でも花を売っていて『ひばりの花売り娘』を二度も歌っている。最初は誰も花を買ってくれないけれど、ひばりが歌うとあっという間に売り切れになるという演出が微笑ましい。

知っている曲だと、前の記事にもあげた『人は誰でも』以外に、小畑実の『薔薇を召しませ』(1949) を歌っていて、おまけにその傍らで、花菱アチャコが踊っていて楽しい。

田端義夫の『玄海ブルース』(1949) まで歌っている。

美空ひばりは 1963 年に東映との専属契約を終わらせているが、その間 170 本ぐらいの映画に出演していることになる。ひばりが出演していた時期は、戦後の日本映画の黄金期にほぼ重なっており、映画の年間入場者数がのべ 10 億人を超えていたのだから、映画に出るということはプロモーションやイメージづくりを超えた意味があるのはもちろんである。しかも子役でデビューして大人になっても高い人気を維持していたのだから、本当に神がかり的だと思う。

ところで、お年寄りの介護で音楽療法というのがあるけれども、岡晴夫の「東京の花売り娘」はお年寄りからリクエストの多い曲だそうで、なんだ自分と同じじゃないとつい思ってしまうのだが、実際に音楽療法士の方が一人のお年寄りの方のナラティブをこう紹介してくれていた。

昔の唄を聴いていると懐かしいんだな。自分がそのころ「こういうことやってたな、ああいうことやってたな」というのをちょっと思い出すね。この年になってね。「憧れのハワイ航路」のときなんか、あのときはおれも東京にいたからね。ちっちゃな劇場、映画館なんだけど、そこへ来て歌ってたんですよ。そういうことを思い出したりね。それから「東京の花売り娘」でも、花売り娘って言わないんだ。実演で聴いていると「花売りムーメン」なんだよ。これで聴くと「花売り娘」っていうけど、そういうのをこうやって (聴いて) 思い出したね。

岡晴夫以外の歌手のカバーで聞かれたのだろうか。それにしても、岡晴夫が「花売りムーメン」と崩して歌っていることまで本当によく覚えておられるなあと感動してしまった。

最後は、スペインの女性歌手で、ジャック・フェデーの映画などにも出演している Raquel Meller の『すみれの花売り娘 (La Violetera)』である。チャップリンが彼女に想を得て、『街の灯』(1931) を作ったのは有名である。すでにトーキー時代であるにもかかわらず、パントマイムであるが音楽はもともと映画に入っており、この曲が何度も流れる。




没後30年

今年は美空ひばりの没後 30 年だったなあ。

1937 年生まれの美空ひばりの舞台デビューは 、9 歳になった 1946 年 9 月、横浜市磯子の映画館「アテネ劇場」においてとされており、そのころの芸名は「美空和枝」であった 。彼女はそこでディック・ミネの「旅姿三人男」(1938) を歌ったという。「ひばり」になるのは 1947 年になってのことである。

同じ 1946 年 12 月に NHK の「のど自慢素人音楽会」の予選に裾の長い真っ赤なドレスで出場したが、当時の「子供の歌」という既成概念を完全に覆しており、合格の鐘も不合格の鐘も鳴らず、たんに歌うのを途中で止めさせられたというのは有名な話だ。小柄で実際の年齢よりも幼く見えるが、声変わりをほとんど経験せず最初からあの低い声だった。「子供の歌」というのは、ひばりよりもやや年長の川田正子 (当時 13 歳) の「とんがり帽子」(1947) のようなイメージだったのだろう。

1948 年 5 月には、「あきれたぼういず」をすでに解散し、病気療養から復帰した 川田晴久 (当時は義雄であった) と知り合う。彼がひばりを松竹の斎藤寅次郎監督に紹介したのだという。ひばりは、レコード・デビューする前に映画デビューして歌った。つまり初期の彼女の歌声は、レコードよりも映画作品にはるかに多く残されている。映画デビュー作品は、1949 年 3 月の『のど自慢狂時代』(斎藤寅次郎監督) だが、現存するフィルムは不完全版であり、肝心のひばりが登場する部分はフィルムが欠落してしまっている。

フィルムが現存する中でもっとも古いといわれるのが、1949 年 6 月 (11〜12 歳) の『新東京音頭 びっくり五人男』(斎藤寅次郎監督) で、現在 DVD として入手可能なものは、新東宝が後年に短縮編集して『ラッキー百万円娘』として再公開したもので、それもやはり完全なものではない。この作品で、ひばりは「花売り娘」の役で交通事故に遭う。歌としては、最近見つかったものも含めて、松平晃の「小鳥売の歌」(1939)、

笠置シヅ子の「東京ブギウギ」「ジャングル・ブギ」(替え歌)、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」「港シャンソン」、古川ロッパとの二重唱 (題名不詳) などが存在している。

彼女のオリジナル曲によるレコード・デビューは、1949 年 8 月の『踊る竜宮城』(佐々木康監督) で歌われた「河童ブギウギ」である。

斎藤寅次郎監督の映画は、ほとんど見ていないので 『憧れのハワイ航路』(1950) を見てみることにした。岡晴夫と美空ひばりの主演映画である。レコード化されるまでに時間があいているが、「ひばりの花売り娘」もこの作品で歌われている 。レコードのラベルに『父戀し』の主題歌とあるが、これは間違いである。

ところで「花を召しませ」いう歌詞は、1939 年の「廣東花賣娘」につかわれたのがはじめてなのだろうか?

港に赤い灯がともる

海水魚って、どうやって水分補給するんだろうと不図、疑問に思ったが、やっぱり海水をゴクゴク飲んで塩分を体外に排出しているんだ。淡水魚は浸透圧の関係で、逆にエラなどから水が体内に吸収されていくので、積極的に水を飲まない。逆に体内の余分な水を外に出す仕組みが重要になる。

岡晴夫の曲。

1939:
上海の花賣り娘:

パラオ戀しや:

港シャンソン:

1946:
東京の花売娘:

1947:
港に赤い灯がともる:

啼くな小鳩よ:

1948:
憧れのハワイ航路:

1950:
人は誰でも:

マドロスの唄:

とりとめなく (2)

本当にとりとめなく聞く。

日本特派員だったバートン・クレーンの歌を二曲。

1931: (バートン・クレーン)
酒が飲みたい:

ニッポン娘さん:

※ 東京の娘さんのところは「東京の娘さん、いかがです、銀座ガールつれない、いつでも冷淡」と言っている。名古屋の娘さんのところは「食べることならない、金の鯱鉾ネ」である。大阪は「僕大変好きます、さよかアホらし」、最後は「ニッポン娘さん」を歌っている。//

三沢あけみ。新人賞を貰った曲。

1963:
島のブルース (三沢あけみ):

とりとめなく

これは小国英雄が脚本だけではなく、日活から東宝へ移籍し監督もした、『ロッパ歌の都へ行く』(1939) の断片だと思う。

場所は日劇で、司会しているのが「悦ちゃん」なのかなあ (自信なし)。淡谷のり子が『雨のブルース』、上原敏が『親戀道中』、松島詩子が『ふるさとの母』、服部富子が『満州娘』、ディック・ミネが『上海ブルース』、渡邊はま子が『支那の夜』、徳山璉 (たまき) が 『太平洋行進曲』を歌唱している姿のある、非常に貴重な映像である。ディック・ミネの演奏は震える。この頃はまだ「三根耕一」ではなく、はっきりと「ディック・ミネ」と呼ばれている (カタカナの芸名の改名を命ぜられるのは 1940 年)。徳山璉のところで楽団 (PCL管弦楽団、現在の東響の前身) の指揮をとっている人は、服部良一であろう。観客の拍手しているところなんかの編集は不気味なまで不自然だし、最後の軍国映像も不快だし、やっぱり脚本の方がこの人は向いているというような映像だが、資料としての価値は高いと思う。

それから、バタヤンの名曲をなんとなく聞いて涙が出そうになる。

十九の春:

奄美エレジー:

現在の、しかも日本という時間と空間の枠の中に閉じこもることでひたすら退廃し、荒唐無稽で生々しい具体的細部をも圧殺することで抽象化しきった、 J-POP とやらの歌詞の凡庸さには辟易するしかないが、その一方、古い (といっても、高々100 年に過ぎない) 歌謡の歌詞は、名曲でなくてもまるで日本語の新しい可能性を開いてくれるようである。そういった意味で、ゴダールが「私たちに未来を語るのは“アーカイブ”である」というのは決定的に正しい。

「娘突進」っていったいどういうこと?とその言葉を聞くものは、ただひたすら、狼狽えるしかない。

娘突進!:

「とことんやれのホイサッサ」

茶屋小町:

「猪牙」という言葉を始めて覚えた。

隅田ばやし:

ワイントラウブ シンコペーターズ

憲法の意義を完全に無効にする全権委任法の成立によって独裁体制が合法化され、ヴァイマル共和国が無残にも崩壊し、20 世紀の悪夢となった第三帝国が生まれる三年ばかり前のドイツで、監督ジョセフ・フォン・スタンバーグと新人女優マレーネ・デートリッヒが『嘆きの天使』(1930) の製作をきっかけとして初めて遭遇したことは、映画史が神話の域で語りついでいる。その作品で、実直な教師 (エミール・ヤニングス) を破滅させる踊り子ローラを演じたデートリッヒが脚線美を露わにしつつ退嬰的に唄う “Ich bin von Kopf Bis fuss auf Liebe (Falling in Love Again)” もまた忘れようがない。この作品はドイツの最初期のトーキーでもあった。

この録音のバックの演奏をしているのが、ヴァイマル共和国のベルリンで活動していたジャズ・バンド Weintraub's Syncopators である。この楽団の団員の多くはユダヤ人で構成されていたため、ナチスの独裁が始まると専らドイツ国外で演奏活動を行うようになる。1936 年には日本でも公演を各地で行なっており、その演奏が評判をよんだ。古川ロッパの同年の日記からは、ロッパが計二回この楽団の演奏会に出かけたことがわかる。二度目はそうでもなかったようだが、一度目のときはかなり興奮した様子で、

日劇へ評判のワイントラウブジャズバンドをきゝに行き、痛くこれに感激した。よろしい、これはよろしい。(中略) ワイントラウブジャズバンドを見て、これだと思った。これを日本風に消化したものこそ、これから受けるものである、それ! これを作らう。

と記している。日本滞在中に吹き込んだと思われる音源があったので、それをあげておく。


東京オリムピック

やがて敗戦という結果に至る時局により、実際に開催されることはなかったが、「大きなプロパガンダ効果が期待できる」としてアドルフ・ヒトラーが開催した 1936 年のベルリン・オリンピックに続く 1940 年の開催地は、二・二六と阿部定事件が起きた 1936 年に国際オリンピック委員会 (IOC) によって東京とすることが決定された。

開催が決まった 1936 年に古川ロッパが歌った下の曲は、いまそれが歌われてもおかしくないような内容だが、それが実際に歌われないのは、単に現在の文化の貧しさにもとづくものではないかと、つい思ってしまう。

ここからは、上原敏の曲の続き。

流轉:

霧の波止場:

夜霧の出船:

俺は船乗り:

街の波止場:

誰かが何処かで笑ってる:

月見踊り:

戀の繪日傘:

情欲の悪魔

ドリス・デイ追悼で『情欲の悪魔』(1955) を見る。正直、ルース・エティングはそれほど好きな歌手ではないけれど Rodgers & Hart が作った、10 セントのチケットで男性客のダンスの相手を一晩中する踊り子を描いた切ない “Ten Cents a Dance” は好きで、この映画でエティングを演じているドリス・デイがこの曲を歌う場面は、胸をうつ。エティングの夫でもありマネージャーでもあったギャングの異常さをジェームズ・キャグニーが見事に演じている。監督は『ギルダ』(1946) のチャールズ・ヴィダー であり、イーストマン・カラー作品である。バックの演奏はパーシー・フェイス楽団だと思う。


京マチ子さんの追悼はやっぱり田中徳三監督の『濡れ髪牡丹』(1961) を見ようかなあ。

しかし、Twitter っていうのは本当に不愉快である。親しい人同士ではなく、不特定多数の人に発信するのに「まだ生きていたのか」は異常に思える。しかも京マチ子さんの場合はまだしも、ドリス・デイの場合はメディアも含めて「ケ・セラ・セラ」ばかりを口を揃えていっときだけ狂ったように大合唱するという醜悪な通俗性!いくらなんでもドリス・デイはもっと多様な存在であるわけで、その多様性から目を逸らして誰でも知っていることだけをわざわざ発言して存在を大がかりな単調さで染め上げるのは、退屈さを通りこしてファシズムに繋がりかねない忘却装置に支配された邪悪な思考の運動であると言わざるをえない。さっさとアプリを削除して単調さの増幅装置から少しでも遠ざかることに決定。新聞はもう積極的には読んでいないので問題はない (とくに社会面の酷さは昔からである)。ドリス・デイと京マチ子さんの場合を較べると、京マチ子さんのケースは、映画祭などが開かれていたり、故人をご存知の方がおられるのでまだましなのだろうが、それから言えることは、過去の記憶が希薄になると、途端に抽象化して漠としたイメージで考え始めるということである。


情欲の悪魔 [DVD]

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ドリス・デイ追悼のために

アルフレッド・ヒッチコック監督の英国時代の作品 『暗殺者の家』(The Man Who Knew Too Much, 1934) の自身のリメイクである『知りすぎていた男』(The Man Who Knew Too Much, 1956)

の前年に作られた、チャールズ・ヴィダー 監督で、ジェームズ・キャグニーも出演したルース・エティングの伝記映画『情欲の悪魔』(Love Me or Leave Me, 1955) は、日本では 2017 年 (!) にやっとDVD 化されたに過ぎない。この映画を見てもいないのにドリス・デイをまともに追悼することが、はたして可能なのであろうか?



そして 3 ヶ月ほど前にお亡くなりになったスタンリー・ドーネン監督とともにドリス・デイを追悼するに相応しい『パジャマ・ゲーム』(The Pajama Game, 1957) は未だこの国では DVD 化されてすらいないのだ。


※ ゴダールはこの映画を「最初の左翼的オペレッタ」!と評した。批評家時代のゴダールは明らかにドリス・デイが好きだと思われ、「世界中のすべてのサブリナをもってしても、ただ一人のドリス・デイには決してかなわない」などと書いているし、『知りすぎていた男』のときには、「ヒッチコックのヒロインたちのなかに、これほど見せかけからほど遠い涙を流した者はほかにはいない」などと非常に肩入れしている。なお、ゴダールの映画 『メイド・イン・USA』(1966) には小坂恭子が「ドリス・ミゾグチ」という役名で出演している。


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※ マイケル・カーティス監督の映画『夢で逢いましょう』(I'll See You in My Dreams, 1951) のクリップ。この映画は、作詞家 ガス・カーン (Gus Kahn) の伝記物で、“Makin' Whoopee” は 1928 年にエディ・カンターが唄った。同じブロードウェイ・ミュージカル “Whoopee!” (1928) で Ruth Etting によって歌われた “Love Me or Leave Me” もガス・カーンの作詞。 //


※ 敗戦直後の多くの日本人が魅了された『センチメンタル・ジャーニー』とともに、第二次世界大戦終了直後にヒットした (ドリス・デイが歌ったのは 60 年代)。

オリジナルのレス・ブラウン楽団の『センチメンタル・ジャーニー』:







暗殺者の家 [DVD]

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  • ペーター・ローレ
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知りすぎていた男 (字幕版)

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石松三十石船道中

大阪と伏見を淀川で結んだ「三十石船」は、広沢虎造の『石松三十石船道中』であまりにも有名であるが、マキノ正博監督の傑作 『續清水港』(1940) のクリップがある。DVD は残念ながら販売されていないがフィルム・センター他では上映される機会がある。広沢虎造以外に森の石松は片岡千恵蔵が演じており、石松の傍らにいる女性は轟夕起子である。ついでに数多くの検閲を受けてしまったが、マキノの反戦映画『ハナ子さん』(1943) の主題歌もあげておこう。


アーカイブ

ゴダールの映画 『イメージの本』(2018) には海辺が出てくる。ゴダールの言うアーカイブとは、データベースのことではないと思う。それは海辺に打ち上げられた漂流物のようなものである。それはまず人によって発見されねばならないが、それだけではなく、その断片の一部分がいつ何処からやってきたかを類推し、複数の断片が今ここという場で語るメッセージを自分なりに読み取る作業である。「見る」とは本来そういうことなのだ。

1935:
船頭可愛や (音丸):

1936:
下田夜曲 (音丸、オリジナルが 1936 年):

カンボジアの潮来笠

カンボジアの国民的歌手 シン・シーサモットが録音した『潮来笠』があった。


※ この曲 、「バタンバンの花」は初めて聴く気がまったくしないけれど、どうしても思い出せない。

上原敏の股旅物

上原敏の股旅物を一部だが聴く。『鴛鴦道中』なんて、マキノ雅弘の映画の主題歌じゃないか。あまりにも歌が上手いので、突然、マキノの『弥太郎笠』が見たくなって、萬屋錦之助の方 (1960) にするか、鶴田浩二 (相手役の二十歳ぐらいの岸惠子が可愛い) の方 (1952) にするか思案中である。それにしても、いくら時代とはいえ、この人に『爆弾くらいは手で受けよ』を歌わせたなんて酷い。

1937:
妻恋道中:

広重五十三次:

渡世がるた:

1938:
鴛鴦道中:

いろは仁義:

1939:
親戀道中:

追分道中:

涙の親子旅:


弥太郎笠 前後篇 [DVD]

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娘船頭さん

前回の記事の美空ひばりの歌の中に、『娘船頭さん』があって、それは正確には「潮来もの」であるが「マドロスもの」源流であると思って一緒にあげておいた。

1955:
娘船頭さん (美空ひばり):

歌もよいが、このクリップの映像は非常に素晴らしいモノクロ画面だなあと思った。この映画 『娘船頭さん』(1955) は見たことがなく調べたら、萩原徳三監督の第一回長編作品で、撮影は小津安二郎監督の名キャメラマンである厚田雄春とある! しかも 『東京物語』(1953) と『早春』(1956) の間の 1955 年という日本映画の絶頂期にあたる時期である。素晴らしくて当然であり、こちらの不明を恥じて改めて見たのだが、途中でインサートされる叙情溢れる逆光のショットは、まるで『東京物語』の連絡船の船着場の撮影を想起させる。萩原徳三監督は戦前から松竹の助監督をしていた人だと思う。脚本は小津作品も手がけている伏見晃である。この作品、厚田さんの撮影で、昭和 30 年頃の水郷の映像が見られるだけでも価値がありそうだし、DVD が出ているようなので、見てみよう (映画館で最近上映していたらしく、スクリーンで見られなくて残念)。

最後に「潮来もの」の流行歌は数多いが、ここでは二曲を追加であげておく。念のため、上田敏から芸名をとったという上原敏はニューギニア方面で戦死、早逝してしまったが (35 歳没)、戦前は東海林太郎と肩を並べていた歌手である。

1937:
娘船頭さん (上原敏):

1960:
潮来花嫁さん (花村菊江):

※ 潮来笠 (方宥心):


※ 同じ監督でも『ロッキー』(1976) よりは遥かに良いと思った『ベスト・キッド』(1984) で、ミヤギが歌う曲 『裏町人生』(1937) は、上原敏のヒット曲の一つである。


娘船頭さん [DVD]

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昭和の港町

淡谷のり子の『別れのブルース』(1937) を思い出すまでもなく、昭和の唄を港町の存在抜きで語ることは、平成を原発事故抜きで語ることと同じように単なる抽象に過ぎないような気がする。

※ なお戦前のマドロス歌謡を代表するのは次の三曲といわれることがある (もちろんこれ以外にも多数存在する)。

1938:
波止場気質:

1939:
島の船唄:

港シャンソン:

//

美空ひばりが昭和を代表する歌手といわれるのは、まるでなにかに憑かれたかのように港町を歌い続けたからに他ならない。全部あげるのはむりなので、50 年代の曲だけを取り上げてみる。

1949:
憧れのハワイ航路:

1950:
浮世船路:

1952:
バイバイハワイ:

1953:
バラ色の船:

1954:
ひばりのマドロスさん:

さよなら波止場:

花のオランダ船:

むすめ島唄:

1955:
あの日の船はもう来ない:

娘船頭さん:

波の子守唄:

1956:
君はマドロス海つばめ:

波止場だよ、お父つあん:

港は別れてゆくところ:

かもめ白波:

ひばりの船唄:

1957:
港町十三番地:

青い海原:

浜っ子マドロス:

波止場小僧:

港町さようなら:

みなと踊り:

1958:
ご機嫌ようマドロスさん:

三味線マドロス:

1959:
若い海 若い船:

波止場物語:

ある波止場の物語:

口笛の聞こえる波止場:

波止場へいこうよ: