ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

幌馬車

ジョン・フォード監督『幌馬車』(Wagon Master, 1950)。この RKO 公開作品は、『黄色いリボン』(1949) が大ヒットしたいわばボーナスとして、低予算ながらフォードが好きなように撮影することができた作品である。フォード自身も、自分でストーリーを書いたこの上映時間 86 分の作品をとりわけ気に入っており、彼が映画に対して抱いていた理想へ近づけた作品のひとつとされている。『幌馬車』が公開された年に、フォードは『ウィリーが凱旋するとき』(1950)、『リオ・グランデの砦』(1950) を含む 3 本の映画を公開している。

製作はフォードが、彼の盟友である RKO のメリアン・C・クーパーと1939 年に共同設立した独立プロダクションであるアーゴシー・ピクチャーズによって行われている。『果てなき船路』(1940) が製作された後、世界大戦により活動は一時的に中断されていたが、『逃亡者』(1947) もって製作が再開される。『逃亡者』に続いて『アパッチ砦』(1948)、『三人の名付け親』(1948)、『黄色いリボン』(1949)、『幌馬車』(1950)、『リオ・グランデの砦』(1950)、『静かなる男』(1952)、『太陽は光り輝く』(1953) といったフォードのフィルモグラフィの中でも重要である作品群がアーゴシーで製作されている。蛇足ながら、フォードの「騎兵隊三部作」とは、『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』のことである。

同じ時期に作られた『リオ・グランデの砦』だって、余分なものを取り去った簡潔な作品だと思う。しかし、フォードは『幌馬車』で『リオ・グランデの砦』がもっていた、あの泣けてどうしようもない叙情性さえも排除してしまった。そこでは、ジョン・ウェインのような大スターでさえ使っておらず、男優陣は、ベン・ジョンソン、ハリー・ケーリー・ジュニア、ワード・ボンド、フランシス・フォード、ラッセル・シンプソン、アラン・モウブレイ (モグリの医師役)、ハンク・ウォーデン (強盗の兄弟の一人)、女優は『オール・ザ・キングスメン』(1949) のジョーン・ドルー、調子外れの角笛を吹くジェーン・ダウエル、ルース・クリフォード (サイレント期、ブルーバード映画のヒロインであった)、つい半年ほど前に亡くなられたキャサリン・オマリー (ハリー・ケリー・ジュニアが好意を抱く女性役) といったところで、味わいの深い通好みの役者達だが、当時の一般的基準では決して超豪華キャストとはいえない。撮影は多くのフォード作品に関わっているバート・グレノンである。

ストーリーも、モルモン教徒たちが自らの理想郷を目指して西部の砂漠を幌馬車で横断するということを主軸にし、そこにガイド役のベン・ジョンソンとハリー・ケーリー・ジュニアのコンビ、モグリ医師の一団、チャールズ・ケンパーを首領とする銀行強盗団、ナヴァホ・インディアンを絡ませた比較的単純なものである。まるで映画には、人間と馬 (と犬) による運動が存在し、後は音楽 (The sons of the Pioneers によるコーラス) がバックに流れていれば、それだけで充分とフォードは言っているようだ。

映画の運動といってもそれは派手なアクションだけを指すのではない。この作品の基底を成しているのは、移動する馬たちとその馬たちが牽く幌馬車の一団の緩やかな動きである。それはまず、冒頭の幌馬車隊が渡河する場面にあらわれる。川を渡る馬と幌馬車の動きは陸のそれよりも更に緩慢なものとなる。しかし、その緩慢な動きはスローモーション撮影のような弛緩した運動であることをけっして意味しない。その緩慢さは、川の水の流れに立ち向かいながら進むという力強さに満ちあふれた、内に最大限の力動が秘められている緩慢さなのである。同じようなことが、傾斜を登る馬の動きについてもいえる。フォードが馬を撮る天才といわれるのは、この美しい生き物の力動を定着するために映画は発明され発展したのだと思わせるほど素晴らしく画面に定着できるからで、疾走する馬を撮るのが上手いことだけでそう呼ばれるのではない。

静的で単純化された類型的な「イメージ」へと見るものを決して誘わないフォードのこの作品の「美しさ」とは、絵画や写真のような静的構図がもつフォトジェニックな「美しさ」とはまったく異なっている。映画は「イメージ」を見るものだと主張することは、映画そのものに対する最大の侮辱であろう。いま消えようとしているアクションつなぎが多用されているこの作品のショットはどれも一見単純に何気なく撮られているように見えるが、それこそが見ることの最大の陥穽であり、そこでは実は複雑なカット割りが施されている。たとえば、クレジット前に存在する最初の強盗団の襲撃のシーンの部分だけでも分析してみれば、そのアクションつなぎを主体とする画面構成の複雑さに舌を巻いてしまうほどだ。しかし、その表現の複雑さは純粋な運動へと昇華され、「イメージ」というややもすれば図式的なものに還元されることを拒んでいる。フォード作品を語るのが難しいのは、「イメージ」よりも「運動」を語る方が難しいからである。

結局、フォードの映画を見るとは、同語反復に過ぎない「運動の映画」を見ることである。今日、フォードの映画を見るのは、そこに「古き良き時代」などという醜悪なイメージを見るためではもちろんない。映画に音がない、短かかったがかけ替えのない時代を経験した巨匠たちだけが垣間見せてくれる「イメージにたやすく還元されることを拒む豊かな画面とその経済的連鎖」を見るためである。そして、その発見は誰にでも開かれている。

ベン・ジョンソンがインディアンと遭遇して逃げているところの騎乗ぶり。一瞬日陰に入って逆光になるところ。ナイフで木を削りながら語り合うこと。帽子の中にコインを入れること。グラスの中にコインを放りいれること。石を地面に投げつけること。酒の瓶を手で払い飛ばすこと。気絶して、馬車から落下すること。入浴していた水を捨てて、騎乗しているベン・ジョンソンにかけてしまうこと。ポケットに片手をつっこみ、もう一方の手で頬杖をつくこと。靴を履き替えること。幌馬車が傾くこと。銃を放ること.……

Wagon West:

Song of the Wagon Master: