ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

いろいろ

アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(1958) の次のシーンは見れば見るほど不思議で、蓮實重彥が「ルプレザンタシオン」(1992 年春 第三号) の「周到さからもれてくるもの ヒッチコック『めまい』の一シーンの分析」でとりあげているシーンでもある。

その不思議さは、結局このシーンの中で、ブロンドのシニョンの髪型のキム・ノヴァックの横顔を大写しでキャメラが捉え、彼女が振り返るところの動作をわざわざ二つのショットに分割し、その分割したショットとショットの間にジェームズ・スチュワートが振り返るショット(この動作も二つのショットに分割されている) を挿入するという形式はいったい何のためだろうということに収斂する。

蓮實さんは、本来ヴェラ・マイルズが主演する予定だったこの作品において、ノヴァックの演技を最小限の振り返る動作だけにして、なおかつ場面を印象づけるためにカットを割ったのではといった趣旨のことを述べておられる。自分としては、ここを二つに割ったのは、後の流れからキム・ノヴァックの横顔の左と右を別々のものとして提示したかったからではないかと思っている。「後の流れ」というのは、すでに記事で書いたことがあるのでそれを参照して欲しい。マデリンとジュディという一人二役をキム・ノヴァックで実現するためにこういう形式にしたんだと思う。


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最近、天安門事件のころ中国でよくきかれていた、中国初のロック歌手、崔健の曲がなぜか個人的にリバイバルしていてずっと聴いていた。ついでながら、中国当局が天安門事件の記録を検閲し歴史隠蔽するのと喫煙シーンがあるからといって、たとえばジョン ・フォードの映画のテレビ放送を自粛するのといったい何が違うのだろうと考えたりもした。それもやっぱり歴史隠蔽であり、両方ともやめるべきである。


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後は、絶版になって読んでいなかった シルヴァーノ・アリエティの『創造力 原初からの統合』の翻訳が近くの図書館にあったので借りていたのを拾い読みした。エミー・ネーターをエミー・ノエザなんて訳していて酷い。小川和夫の『ニュー・クリティシズム 本質と限界』という本も読んだ。「ニュー・クリティシズム」という呼び名はジョン ・クロウ・ランサムが 1941 年に出版した評論集の題名に由来しているとある。

しかし、この二冊よりも前の記事の真屋和子さんの論文の方がずっと面白く、やっぱりプルーストだなあといつの間にか『失われた時を求めて』の拾い読みを始めている自分に気がついて怖い。過去に読んだときは読み終えるまでに 10 年近くが過ぎた。