ドリス・デイ追悼で『情欲の悪魔』(1955) を見る。正直、ルース・エティングはそれほど好きな歌手ではないけれど Rodgers & Hart が作った、10 セントのチケットで男性客のダンスの相手を一晩中する踊り子を描いた切ない “Ten Cents a Dance” は好きで、この映画でエティングを演じているドリス・デイがこの曲を歌う場面は、胸をうつ。エティングの夫でもありマネージャーでもあったギャングの異常さをジェームズ・キャグニーが見事に演じている。監督は『ギルダ』(1946) のチャールズ・ヴィダー であり、イーストマン・カラー作品である。バックの演奏はパーシー・フェイス楽団だと思う。
京マチ子さんの追悼はやっぱり田中徳三監督の『濡れ髪牡丹』(1961) を見ようかなあ。
しかし、Twitter っていうのは本当に不愉快である。親しい人同士ではなく、不特定多数の人に発信するのに「まだ生きていたのか」は異常に思える。しかも京マチ子さんの場合はまだしも、ドリス・デイの場合はメディアも含めて「ケ・セラ・セラ」ばかりを口を揃えていっときだけ狂ったように大合唱するという醜悪な通俗性!いくらなんでもドリス・デイはもっと多様な存在であるわけで、その多様性から目を逸らして誰でも知っていることだけをわざわざ発言して存在を大がかりな単調さで染め上げるのは、退屈さを通りこしてファシズムに繋がりかねない忘却装置に支配された邪悪な思考の運動であると言わざるをえない。さっさとアプリを削除して単調さの増幅装置から少しでも遠ざかることに決定。新聞はもう積極的には読んでいないので問題はない (とくに社会面の酷さは昔からである)。ドリス・デイと京マチ子さんの場合を較べると、京マチ子さんのケースは、映画祭などが開かれていたり、故人をご存知の方がおられるのでまだましなのだろうが、それから言えることは、過去の記憶が希薄になると、途端に抽象化して漠としたイメージで考え始めるということである。