ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

三條町子

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『恋の蘭燈』(1951) を見て滂沱の涙にくれる。この映画はクリスマス映画だったんだ。暁テル子が出演しているけれども、彼女はこの 1951 年に自分の代表曲をレコーディングしている。

『東京シューシャインボーイ』はロバート・アルトマン監督の『M*A*S*H』(1970) に使われたし、大友克洋の劇場版映画『AKIRA』(1988) にも使われた。

白光が映画で歌っている曲は、すでに前の記事で紹介したが映画の中では中国語でも歌っていた。

恋の蘭燈 - ノリの悪い日記

森繁久彌が演じている気のよい与太者、佐竹のニックネームは「銀座の雀」で、森繁はこの映画でこの曲を歌っている。『銀座の雀』は仁木他喜雄の作曲で、『銀座二十四帖』(川島雄三監督、1955) の主題歌にもなった (元々は藤山一郎が唄った『酔っぱらいの町』という曲であった)。

後は、映画の中で『東京ブバッピー』のメロディが流れていた。

それで、なんとなく三條町子の曲を思い出した。

Fats Domino と Elvis Presly

Fats Domino, Early Rock ’n’ Roller With a Boogie-Woogie Piano, Is Dead at 89 - The New York Times

合掌。

高校を卒業したエルヴィスは、メンフィスのサン・レコーズのスタジオを訪れ、4 ドル払ってレコードを吹き込む。そこでは 4 ドル払えば誰でも個人レコードを作れたのである。いったいどうやって発声しているのかと思うその声の魅力に店員の女性もやはり抗えなかったらしく、エルヴィスの録音をそのままテープに残しておいた。それがスタジオの主人であったサム・フィリップスの耳にもとまり、エルヴィスを探してオーデションを受けさせることになる。1954 年 7 月 5 日にその音楽史に残るオーデションは行われた。しばらく試行錯誤して少し休憩をとろうとしたときに、黒人歌手のアーサー・クルーダップが 7 年前に作って歌った “That's All Right” をエルヴィスが歌った。スタジオはそのとき大騒ぎになったという。レコーディングが終わったとき、ベーシストのビル・ブラックは、

Damn. Get that on the radio and they’ll run us out of town.

と語ったというのは神話になっている。「こんなヤバイやつがラジオで流れたら、俺たち町から追い出されるぜ」ぐらいの意味であろう。当時、黒人と白人の間の差別が厳然として存在する南部の都市メンフィスで、白人が黒人の歌いかたをすること。しかも、黒人とはまた違ったやり方で。ジャズは黒人が白人の音楽を模倣しようとして生まれたが、今度は逆の模倣が働いた。その模倣は、もちろんエルヴィスが初めてというわけではない。米国では黒人の音楽と白人の音楽の間を越境するダイナミズムが歴史的に常に働いているのであり、エルヴィスはその歴史的なパフォーマンスをもっとも素晴らしく演じてみせた代表的な一人である。

よく引用されるインタビューでエルヴィスは、こう語っている。

The colored folks been singing it and playing it just like I’m doing now, man, for more years than I know. They played it like that in their shanties and in their juke joints and nobody paid it no mind ’til I goosed it up. I got it from them. Down in Tupelo, Mississippi, I used to hear old Arthur Crudup bang his box the way I do now, and I said if I ever got to the place where I could feel all old Arthur felt, I’d be a music man like nobody ever saw.

※ Tupelo, Mississippi は、エルヴィスの生誕の地。

「アーサー・クルーダップが感じたことを自分も感じられる境地に達したなら、そのときこそ、誰も見たことがないようなミュージシャンに自分はなれるぞと思った」という発言こそ、模倣が創造となる秘密を解き明かしているような気がする。ニューヨーク・タイムズの追悼記事には、エルヴィスが

Nobody can sing that music like colored people. Let’s face it: I can’t sing it like Fats Domino can. I know that.

と語ったとある。人は模倣しようとしてそれに失敗したとき、はじめて創造するのである。シネマテークで過去の映画を浴びるように見たヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、エルヴィスとまったく同じ趣旨の発言をしている。

谷間の灯ともし頃

1933 年のアメリカの曲  “When It's Lamp Lighting Time in the Valley” は、日本人が好きだった曲。女学校の唱歌としても歌われたらしい。1933 年にレコーディングされた一枚であるウェイン・キング楽団の演奏を YouTube にアップされておられるのも日本の方のようだ。

中野忠晴と中野リズム・シスターズが 1938 年に『夕陽山に沈めば』というタイトルで録音しているのを 最近 Hiro Studio さんがアップしてくれている (いつもありがとうございます)。

ディック・ミネは 1937 年に録音している。

もともとは、1934 年に東海林太郎がヒットさせたんだと思う。

南京豆売り

『南京豆売り』(El manicero) は 1920 年代後半にできた曲で、キューバ音楽初のグローバル・ヒットとなって世界中に広まった。日本でも戦前から多くの歌手によってカバーされている。川畑文子 (1933),  ディック・ミネ (1935), エノケン (1936) の録音を挙げておこう。

川畑文子は、1934 年にも、同じルンバのリズムの『シボネー』を『思い出のハヴァナ』という題名で録音している。

ディック・ミネは『南京豆売り』のときと同じように、彼女を追いかけるように『シボニー』として 1936 年に録音している。

『南京豆売り』は世界中で流行した証拠として1931 年にミス・タンゲットが歌ったものを紹介しておく。

戦後ではスタン・ケントンの演奏が著名である。

ザ・ピーナッツは、この曲をよく歌ったのはわかるだろう。

諏訪根自子

1920 年生まれと言えば、原節子、李香蘭、周璇だけでなくヴァイオリニストの諏訪根自子さんもそうだ。彼女の少女時代の演奏の SP 盤が YouTube で何曲か紹介されている。

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サセレシア

最近知ったのは、小津安二郎の『早春』(1956) で初めて使われ『東京暮色』(1957) で全面的に使用され、『彼岸花』(1958) でも使われた斎藤高順の『サセレシア』は、ミスタンゲットの『サ・セ・パリ』と『バレンシア』をミックスした事で生まれたってこと。両曲ともミスタンゲットが 1926 年にムーラン・ルージュで歌ったものが最初である。

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サッチモ

1928 年というと、日本では『あほ空 (青空)』が初めてのジャズのメジャー・レコーディングとして発売された頃。1928 年に、ホット・ファイヴはアール・ハインズ (ピアノ) らを擁したコンビネーションとなり、ルイの生涯絶頂ともいえるプレイが生まれる。

1925年11月
My Heart:

1926年2月
Heebie Jeebies:

Cornet Chop Suey:

1927年5月
Wildman Blues:

Potato Head Blues:

1927年12月
Struttin’ With Some Barbecue:

Hotter Than That:

1928年6月
A Monday Date:

West End Blues:

Fireworks:

Sugar Foot Strut:

Skip the Gutter:

Don’t Jive Me:

Two Deuces:

Squeeze Me:

1928年7月
Knee Drops:

1928年12月
No One But You:

No Papa No:

Save It Pretty Mamma for Me:

Beau Koo Jack:

Basin Street Blues:

Muggles:

Weather Bird:

Heah Me Talkin’ to Ya:

St. James Infirmary:

Tight Like This:

1930年4月
Dear Old Southland:

非言語的なメディアの価値

かねがね不思議なのは、日本はソフト産業が駄目だと思っている人が結構いるってことである。しかし、それは「わかりやすい」嘘の一つであろう。

たとえば、日本の映画産業と音楽産業を例にとってみる。

日本の映画市場というのは総興業収入で 2,300 億円ぐらいの規模で金額ベースで見ると北米、中国に次ぐ世界第三位である。邦画の興業収入市場占有率(シェア)は、2016 年で 63 パーセント、2015 年で 55 パーセントである。2002 年では 28 パーセントまで落ち込んだことを考えると、現在の日本映画は「驚異的」といっていいほど頑張っているのである。たとえば、EU 諸国でもっとも自国占有率が高いのは、国家が自国の映画産業を支援しているフランスであるが、それですら 33 パーセントであり、ドイツは 26 パーセントである。アメリカ合衆国以外の先進国で、これほどハリウッド映画に対して、自国の映画占有率が高い国は他には存在しない。

音楽産業だって、日本のライブ、配信、ソフトの売上合計は、2015 年で 6,200 億円であり、アメリカに次ぐ世界第ニ位の規模である。対 GDP 比では世界第一位である。そして、配信やソフトの売上減少が続く中で、ライブの売上が急速に増えていることが音楽産業の成長を支えているということは、常識として知っておくべきだろう。

すでに述べたように、映画にしろ音楽にしろ「非言語的」なコンテンツである。言葉という記号処理ではなく、感性に直接働きかけるような非言語的なものの表現の価値というものをどれだけ真剣に考えることができるかということが、日本のソフト産業においては非常に重要なんだと思う。もっとも最近の意味のない文字が踊り「非言語的」価値などどんどん切り捨てていっているとしか思えないテレビの画面を見ていると、それすらも楽観視できないと思ってしまうんだが。

帝国の陰謀 / ローラ殺人事件 / ウディ・ハーマン楽団

二十歳にもなっていない大学の新入生になったばかりの者のもとへ、それを待ち続けていたわけでもないのに、これこそを待っていたんだと思わせるような『夏目漱石論』(1978)『映画の神話学』『映像の詩学』『シネマの記憶装置』『「私小説」を読む』『表層批評宣言』(1979) といった書物がたった一年あまりの間にたて続けに出現してしまう。自分にいわゆる年表的な歴史意識があるとすれば、それは「蓮實重彥」という固有名詞がもたらした「事件」があった年として記憶しているこのとき (1979 年) が最後であるような気もする。

そんな感慨に囚われたのは、最近、奥付けに 「1991 年 9 月 13 日第一刷印刷」とある『帝国の陰謀』を読み直した後、奥付けの直前の頁にある「著者略歴」のところを眺めていたからである。

その書物では「起源」を欠いた「反復」としてあたりに(複製技術によって大量に)流通する「シミュラークル」が、「形式的」な虚構にすぎなかった「起源」を量的に現実化してしまうという事態や、書かれつつある瞬間には読み手は不在で、読まれつつある瞬間には書き手は不在であるというコミュニケーションにおける「遠隔化」「遅延化」(デリダによって「差延」と呼ばれている)といった現前性の不在によるコンテクストの「曖昧化」「漂流性」が記号が体現すべきものにしばしば「無責任」ともいうべきズレを生み出すということが、すでに 19 世紀末のフランス第二帝政期において起きていたことを「ド・モルニー」という人物を召喚することで語っている。

しかし、1979 年というあの時期は、少なくとも僕にとって「蓮實重彥」という署名は「起源」としか思えなかったし、大学のゼミに行けば「現前」もしていたのだった。

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 ここからは、全然別の話題で、映画『ローラ殺人事件』 (Laura, 1944) は、マリリン・モンローの『帰らざる河』(River of No Return, 1954) を監督したオットー・プレミンジャーが、ハリウッドで初めて演出した作品である。もっとも、もともとはルーベン・マムーリアンが監督していたらしい。オットー・プレミンジャーは、オーストリア=ハンガリー帝国のヴィシュニッツに生まれ 17 歳でマックス・ラインハルト劇団に参加している。最初は俳優志望であったというが、後に舞台監督を務めるようになり、ウィリアム・ディターレとも一緒に舞台の仕事をしたことがある。また、ビリー・ワイルダーも同じオーストリア=ハンガリー帝国出身であり、二人は同郷ということになる。プレミンジャーはデビューするまで、ブーロドウェイなどで働いていた。

出演者としては、ジーン・ティアニー、ダナ・アンドリュース、クリフトン・ウェッブ、ヴィンセント・プライス、ジュディス・アンダーソンといったところである。ヴィンセント・プライスがホラー映画で主役を張るようになるのは、まだ先の話でこのころはまだ脇役である。ジュディス・アンダーソンはヒッチコックの『レベッカ』(Rebecca, 1940) でのダンヴァース夫人の役が有名であろう。クリフトン・ウェッブは、ブロードウェイでは名優として知られていたが、本格的に映画に出演したのは、この作品が初めてである。彼はこのとき、もう 55 歳であった。ダナ・アンドリュースは、説明の必要もないだろうが、ウィリアム・ウェルマンの『牛泥棒』(The Ox-Bow Incident, 1943)、ジョン・フォードの『タバコ・ロード』(Tobacco Road, 1941) 、ウィリアム・ワイラーの『我等の生涯の最良の年』(The Best Years of Our Lives, 1946)、ジャン・ルノワールの『スワンプ・ウォーター』(Swamp Water, 1940)、ハワード・ホークスの『教授と美女』(Ball of Fire, 1941) などでおなじみの役者である。そして、ジーン・ティアニー!この当時、もっとも美しいといわれていた女優である。翌年のエルンスト・ルビッチのカラー映画『天国は待ってくれる』(Heaven Can Wait, 1943) の彼女の美しさは忘れがたい。彼女のデビュー作はヘンリー・キング監督の『地獄への道』(Jesse James, 1939) の続編でフリッツ・ラングが監督した『地獄への逆襲』(The Return of Frank James, 1940) である。

映画に出てくるローラの肖像画は絵ではなく、実際にジーン・ティアニーを白黒写真で撮影して、それを引き伸ばし、その写真を着色して仕上げたものである。室内のセット撮影が多くを占める作品で、ディテールの雰囲気がよく出ている。陰影のある撮影もすばらしく、ノワールの雰囲気もまたよくでている。謎解きを主体とするミステリー映画に傑作は少ないが、この映画はそのジャンルの数少ない傑作だと思う。

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この作品の映画音楽は非常に有名であり、いまやスタンダード・ナンバーとなっているので、聞いたことがある人は多いだろう。作曲はデイヴィッド・ラクシンによるものであるが、彼はロサンゼルスでシェーンベルグに師事して音楽を学んだ経験をもつ。映画では、歌詞がついて歌われていないが、1945 年に現在ある歌詞がジョニー・マーサ-によってつけられた。それをファースト・ハード (The First Herd) の時期のウディ・ハーマン楽団がコロンビアで録音している。

もちろん、スタンダード中のスタンダードとも言えるこの曲は無数のアーティストが演奏しているが、ここではバードの演奏だけを追加で紹介するに留める。

最後に、ファースト・ハードと呼ばれる時期のウディ・ハーマン楽団の名演奏をいくつか紹介しておこう。

Goosey Gander:

Apple Honey:

Caldonia:

Northwest Passage:

Wild Root:

Ah, Your Father’s Moustache:

Blowin’ Up a Storm:

Red Top:

Flying Home:

It Must Be Jelly:

Bijou:

 

帝国の陰謀 (ちくま学芸文庫)

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ローラ殺人事件 <特別編> [DVD]

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コニー・ボスウェルとビング・クロスビー

いつ聴いてもこの二人のヴォーカルはいいなあと思う。

全然、脈絡もへったくれもないんだけど今のチャイナ・ドレスのデザインって 1930 年代の上海で生まれたんだなとふと思う。やっぱりスリットが入って脚を強調するところなんかが、いかにもこの時代らしい (記事 もっと正直になろう - ノリの悪い日記 参照)。中国系の女優の知名度が国際的に高くなったのは、チャイナ・ドレスを着ているだけで 30 年代の記憶と自然に繋がってしまい神話的になってしまうところがあるんではなかろうかとも思ったが、まあ嘘でしょう。

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君微笑めば

ディック・ミネが 1938 年にレコーディングした『君微笑めば』を聴いた。やっぱり、日本でクルーナーの代表はこの人だろう。

この曲、最近(といっても 10 年以上前)カバーしていた日本のグループがあったから知っている人が多いと思う。前の記事でバック・クレイトンの名前を思い出したんだが、1938 年のビリー・ホリデイの有名な録音はバック・クレイトンがトランペットである。ピアノはもちろんテディ・ウィルソン。オール・アメリカン・リズム・セクションの面々と Prez も参加している。

この曲もいろいろなカバーがあって、紹介するとキリがない。以下は、デュークの 1930 年のもの。

プレーヤーは以下の通り。

Arthur Whetsol, Freddy Jenkins, Cootie Williams (trumpet)
Joe "Tricky Sam"Nanton, Juan Tizol (trombone)
Johnny Hodges (alto sax)
Barney Bigard (clarinet,tenor sax)
Harry Carney (baritonsax, tenor sax)
Duke Ellington (piano)
Fred Guy (banjo)
Wellman Braud (bass)
Sonny Greer (drums)
Irving Mills (vocal)

シーガー・エリスの声なんてそう聞く機会がないし、1929 年のサッチモの演奏は忘れ難いのでここに挙げておこう。

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三木鶏郎

中国では、1957年の反右派闘争以降、ポピュラー音楽そのものがまったく禁じられていくから分かりやすいが、日本の1960年代以降の断層は、一見地続きに見えるだけに厄介である。そういったことが起きたことを知るためには、今とはまったく質の違うメディアが存在していたことにそもそも気がつかなければ始まらない。以下は、三木鶏郎を取り上げてみた。

民放最初のCMソング。

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服部富子

彼女がテイチクの歌手としてデビューしたのは1938年なので、戦争鼓舞するような歌が多いのはやむを得ない。しかし、服部良一の実の妹であり、宝塚歌劇団出身でもあった彼女は数多くのチャイナ・メロディを歌ったことを忘れてはならない。YouTube には一部ある。

※ レコードの片面は『若いチャイナさん』だった。

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日活100周年邦画クラシックス GREATシリーズ 鴛鴦歌合戦 HDリマスター版 [DVD]

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世界七大女性歌手

テレサ・テンの紹介を読むと、みる記事、みる記事のほとんどが「1986年に米タイム誌によって世界七大女性歌手の一人に選ばれた」とあるんだけど、誰かその記事の原典を確認した人いますか?テレサ・テン以外の歌手は誰なんでしょう。個人的には「七大女性歌手」という発想そのものが、「上海七大歌姫」のノリで中国的な気がして本当に思えないんだけど。あ、ノリが悪くてすみません。

あと、どうでもいいことなんだけど Wikipedia の「三人娘」の項をみると「初代三人娘」とは、黒柳徹子、横山道代、水谷良重(または里見京子)のことを指すらしい。しかし、戦前の日本には、すでに「興亜三人娘」という昭和十五年十二月レコード発売の曲がある。奥山彩子、李香蘭、白光が歌っている。内容的には、日本=奥山彩子=菊, 満州=李香蘭=蘭, 中華民國=白光=梅に見たてたプロパガンダ的なものなのであまり紹介はしたくないけど、下に挙げておく。この例でも無意識的に「戦後」のことしか考えようとしていないことが分かる。

恋の蘭燈

西條八十作詞、服部良一作曲 『恋の蘭燈』。同名の新東宝映画『恋の蘭燈』(1951) の主題歌である。映画に主演している上海七大歌后の一人「白光」が歌っている。

※ シネマヴェーラ渋谷で10月24日と27日に上映予定! 名前の由来が闇に投じられる映画の映写機からの光をイメージしているという彼女が、ファム・ファタールとして出演している映画は 30 本程度存在しているが、一本もスクリーンで見たことがない自分は非常に楽しみである。撮影は小原譲治。奇しくも『阿片戦争』(1943) の撮影は小原である。

曲調や歌詞は『風は海から』を何となく連想させる。

B面はこれだった。

良く知られた白光の曲 (一部):

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