「ク語法」が気に入っていて萬葉集の中でその語法が使われている短歌だけを適当にあげてみる気になった。
み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我がひとり寢む (74)
み吉野の山颪が寒いのにひょっとして今夜もわたしはひとりで寝るのだろうか。
宇治間山朝風さむし旅にして衣かすべき妹もあらなくに (75)
宇治間山の朝風が寒い。旅先で衣を貸してくれそうな女もいないのに。
わが大君ものな思ほし皇神の繼ぎて賜へる我がなけなくに (77)
わが大君よ御心配あそばすな。皇祖神から後継ぎを賜わっているわたくしがないことではございませぬから。
わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 (103)
自分の里には大雪が降っている。大原の古びた里に降るのは後のことだろう。
み吉野の玉松が枝は愛しきかも君が御言を持ちて通はく (113)
み吉野の松の枝はなんと愛らしい。あなたのお言葉を持って通ってくることであるよ。
ささなみの大山守は誰がためか山に標結ふ君もあらなくに (154)
ささなみの大山守は誰のため山に標縄を張るのか。大君もおわしまさぬのに。
山吹の立ちよそひたる山淸水汲みに行かめど道の知らなく (158)
山吹が咲きよそおっている山の清水を汲みに行きたいが、道を知らないことであるよ。
神風の伊勢の國にもあらましをいかにか來けむ君もあらなくに (163)
(神風の) 伊勢の国にいればよかったのになんで来てしまったのだろう。君もおいでにならないのに。
見まく欲り我がする君もあらなくにいかにか來けむ馬疲らしに (164)
私がお逢いしたいと思う君もおいでにならないのになんで来てしまったのだろう。馬を疲れさせるためなのか。
磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに (166)
岩のあたりに生えている馬醉木を手折りたいが、お見せすべき君がおいでになると (だれも) 言うことはないのだ。
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも (168)
(ひさかたの) 天を見るように仰ぎ見た皇子の宮が荒れてゆくのは惜しいことよ。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隱らく惜しも (169)
(あかねさす) 日にもお譬え申し上げる帝は輝やいていらっしゃるものの、(ぬばたまの) 夜空を渡る月とも申すべき皇子がお隠れあそばしたことは惜しいことであるよ。
人漕がずあらくもしるし潛きする鴛鴦とたかべと船の上に棲む (258)
人が漕がなくなっていることは明らかだ、水に潜るおしどりとこがもとが船の上に棲みついている。
見わたせば明石の浦に燭す火のほにぞ出でぬる妹に戀ふらく (326)
はるかに見える明石の浦にともされた漁火のようにはっきり外へ顕れてしまったことだ、妻を恋うる気持ちが。
注: ホは人目をひきやすいものとして、すすきや稲の穂、燃える火の頂点、波の頂点、人の表情などをいう語。
飫宇の海の河原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに (371)
出雲の飫宇の海に注ぐ川の河原の千鳥よ、お前が鳴くとわたしの故郷の佐保川が思い出されることだ。
草枕旅の宿りに誰が夫か國忘れたる家待たまくに (426)
(草枕) 旅の仮寝に (行きだおれて横たわっているのは) 、いったい誰の夫であろうか自分の故郷も忘れて。家の者は帰りを待っているだろうに。
長き夜をひとりや寢むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに (463)
長い夜をひとりで寝るかとあなたがおっしゃるので亡くなられた方が思い出されます。
わが背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にもわが無けなくに (506)
あなたそんなにご心配なさいますな。いざとなればたとえ火の中、水の中だろうとわたくしがいないことはありません。
千鳥鳴く佐保の川瀨のさざれ波やむ時もなし我が戀ふらくは (526)
千鳥が鳴く佐保の川瀬のさざ波のように絶える時もありませんわたしの恋は。
生きてあらば見まくも知らずなにしかも死なむよ妹と夢に見えつる (581)
生きていたなら逢うことがあるかもしれないのにどうしてまあ「もう死んでしまうよ、妹」などと夢にお見えになったのでしょうか。
劍太刀名の惜しけくも我はなし君に逢はずて年の經ぬれば (616)
(剣太刀) 浮名を立てられることなど私は惜しくもありません。あなたにお目にかからずに年がたちましたので。
うはへなきものかも人はかくばかり遠き家道を歸さく思へば (631)
うわべの情さえないものであるなあ、あなたは。これほど遠い家路を空しく帰すことを思うと。
朝に日に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに (668)
朝ごとに日ごとに色づく山にかかる白雲が過ぎ去っていくように思いを消してしまえる君ではないことだ。
月讀の光に來ませあしひきの山きへなりて遠からなくに (670)
このお月様の光でおいでなさい。(あしひきの) 山が隔てて遠いということもございませんから。
注: 山きのキは不明。
月讀の光は淸く照らせれど惑へる心思ひあへなくに (671)
お月様の光は清らかに注がれていますが、千々に乱れている心は (お尋ねしようか、どうしようか) 思い定めかねております。
戀草を力車に七車積みて戀ふらく我が心から (694)
わたしの恋は刈れども刈れども生いや茂れる草のようで、荷車七台に積むほどあるけど、 (それは誰のせいでもなく) 自分の心がそうさせるのだ。
※「ク語法」は、(主に) 上代において名詞句を作るひとつの方法であり、活用語の連体形に「あく (aku)」という接尾辞をつけて構成するものという説が一般的である。その際「母音連続回避」のため母音変形がおきる。その母音変形には、連続した 2 つの母音の前側を脱落させ後の母音の方を残す場合と、前と後の母音がお互いに融合 (?) して別の単母音となる場合がある。なお、「ク語法」により作られる名詞句は 、ほとんどの場合、(現代における) 用言に形式名詞「コト」を付けた「作用性名詞句」として解される。
後側母音を残す場合:
ifu + aku → ifuaku → ifaku
suru + aku → suruaku → suraku
nu + aku → nuaku → naku
mu + aku → muaku → maku
母音融合する場合:
yasuki + aku → yasukiaku → yasukeku
尚、 回想の助動詞「き」だけは例外で、
si + aku → siaku → seku
とはならず、"siku" となる。