前の記事で白土三平の『忍者武芸帳』のことを書いた後、偶然にも上野昻志さんが 2020 年に書いた『「読解力」を巡る一考察』なる文章をネットで見つけて、それを読んでいたら『忍者武芸帳』 のことが出てきた。上野さんの文章は中公新書の『教養主義の没落』 (竹内洋) をひきながら, 学生における読書の歴史的変遷を辿ってみようというもので、なかなか面白かった。一部だけあげておく。 なお、上野さんは別のところで「単行本漫画一冊がせいぜい三万円で、しかも二冊描いて売れなければ即座にクビという劣悪な条件の下で、「命がけ」で食うために描くという行為は、諸々の意識の問題に向うよりも、まずは直接的に肉体の苦痛にぶつかったはず」であると書いている。 下に書いている「思想とでもいうべきもの」は「唯物史観」とか「階級闘争」とかとは無関係で、本人の言葉を借りれば「桎梏としての肉体」が露呈されたものと読みかえることができるだろう。
1959年に高校を卒業したわたしは、翌60年に大学に進むが、浪人時代は、午前中は予備校、午後は新宿のジャズ喫茶で、レコードから流れる大音響のモダンジャズに浸っていた。その点では、エルビスから始まったわたしのなかのアメリカ音楽遍歴は、ジャンルを変えながら続いていたといえよう。だから、大学に入ると同時に安保闘争の波に呑み込まれたのだが、デモを組んだ「学友」の誰もがモダンジャズを聴いていないことに失望して、解散になると一散にジャズ喫茶に駆け戻ったのである。
大学の同級生に教えられて読んだ本といえば、白土三平の『忍者武芸帖』(1959~1962年・全17巻)がダントツの一位である。これは、三洋社という貸本屋向けの出版社から刊行されていた単行本形式のマンガなので、普通の書店にはない。その代わりというわけでもないが、ラーメン屋のカウンターの隅や、理髪店の待合椅子の脇に積まれていた。まず、そこでラーメンを啜りながら読み、欠けている巻は貸本屋に行って借りるというようにして読んだのだが、圧倒された。
わたしも、子ども (の) 頃は少年雑誌に掲載されたマンガを読んでいるし、手塚治虫には夢中になったことはあるが、それもしばらく途絶えていたのだ。だから、白土の名も存在も知らなかった。それが、この『忍者武芸帖』では、主要人物の造形といい、リアルで強いタッチの絵柄といい、コマからコマ、ページからページへと展開するストーリーの運び、そして、それらを通して訴えかけてくる思想とでもいうべきものに引き込まれたのである。そこから、白土三平の『忍者武芸帖』以後の新作を読みたいと、友人とも語り合ったのだが、これが、光文社から出ている『少年』の付録? としてある『サスケ』のほかはなく、1965年になって、前年に創刊された漫画雑誌『ガロ』に出会うまで、空しく待つしかなかったのである。そして、『ガロ』との出会いが、大袈裟にいえば、以後のわたしの人生を決めるのだが、それは、さしあたって関係ない。
要するに、わたしの場合、マンガにジャズに、それ以前から続く映画にと、サブカルチャーに半身浸かりながらの学生生活だったわけだが、程度の差こそあれ、わが周辺の学生は、似たようなものだった。そして、それは、学部を修了する1964年頃には、より一般的な姿になっていくのである。大学生がマンガを読む、と世間が揶揄的に問題化したのは、1966年頃だと思うが、その担い手は、わたしなどより5,6歳下の、のちに団塊世代と呼ばれる人たちである。ただ、彼らとて、教養のためなどという意識はなくても、マルクスやヘーゲルの著作を読んでいた。それらとマンガとを、自由に往還するところに、60年代後半の学生たちはいたのである。おそらく、そこでは、1955年の京都大学キャンパスにおけるように、「教養書をどれだけ読んでいますか」というような問いは成り立ちようもなかったのではないか。
(中略)
そして、読書に関わって、当時の中学生や高校生、さらには大学生にも、気分として強くアピールしたのは、寺山修司の、「書を捨てよ、町へ出よう」というマニフェストであろう。『書を捨てよ 町へ出よう』という書名の評論集が芳賀書店から刊行されたのは1967年だが、翌年には天井桟敷の第7回公演として上演され、1971年には、寺山自身の監督で映画化もされている。それだけ、この言葉には想いがあったのだろう。中城ふみ子の『乳房喪失』に触発されて、歌人として出発した寺山修司は、1950年代末から評論、詩、演劇、映画、さらには競馬評論と、マルチな才能を発揮していたが、60年代半ばには、青少年のカリスマ的な存在になっていた。そのため、このマニフェストも、若者たちには、インパクトをもって受け止められたと思う。だが、これが秀逸だと思うのは、「町へ出よう」というのが、すでに述べたような芸術運動とも暗黙のうちに連動していたからだ。美術でいえば、美術館からその外の町へ出たのであり、演劇でも、状況劇場は、既存のホールから町に出たのだから。寺山自身が実際に町に出たのは、だいぶあとの1975年の市街劇「ノック」においてだが(彼はそのため住民から不審者として警察に通報される)、それ以前でも、天井桟敷内の舞台と客席との境界を取っ払おうと、様々な試みをしていたのである。さらにいえば、彼ら表現者とは別に、学生たちは、ベトナム反戦を旗印に町へ出た。
しかし、寺山自身は、教養主義的な知のあり方を嫌悪していたにしても、書に育てられたのであって、その意味では、書を捨ててはいない。ただ、既存の書物のなかだけに、知識や、論理や、それこそ教養を求めるのではなく、町という表象を通して現実の世界と出会え、そこには新しい知があるぞと訴えたのである。その点では、『家出のすすめ』(1963年)が、文字通り若者に対して家出をすすめるというより、最終的に精神的な自立のすすめであるのと同様である。実際、彼の言葉を丸のまま鵜呑みにするほどナィーブな子どもは別にして、大半は、書は書として読んでいたはずである。ただ、すでに、知のあり方が大きく変動したなかでは、教養のために貯金をするように「詰め込む」式の往時の教養主義的読書は、この段階で、ほとんど地を払ったのではないか。
(中略)
寺山修司が、あのようなマニフェストを掲げられたのは、学生はもとより、大方の人にとって、本を読むことが当たり前だった時代だったからだ。