ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

現代国語

現代国語の問題——年度は不明だが「共通一次 (大学共通第一次学力試験)」で出題されたらしい——に芥川龍之介の『秋』が抜粋されていた。取り上げられているのは以下の部分で、問題文の最初に次のような説明がある。

「次の文章は、芥川龍之介の小説『秋』の一節で、大阪に住んでいる主人公の信子が、東京に住んでいる妹夫婦 (照子と俊吉) の新居を初めて訪れた時のことを描いている。姉妹のいとこに当たる俊吉は作家で、信子もかつては作家を志望しており、俊吉と結婚するものと周囲から見られていた。(以下略)」

尚、もともとの出題文は新字新仮名表記であった。

其處へ女中も歸つて來た。俊吉はその女中の手から、何枚かの端書(はがき)を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。照子は女中も留守だつた事が、意外らしい氣色を見せた。「ぢや御姉樣がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」「ええ、俊さんだけ。」──信子はかう答へる事が、平氣を強ひるやうな心もちがした。すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那樣に感謝しろ。その茶も僕が入れたんだ。」と云つた。照子は姉と眼を見合せて、惡戲(いたづら)さうにくすりと笑つた。が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。 

間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晚飯の食卓を圍むことになつた。照子の說明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鷄が產んだものであつた。俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪(りやくだつ)で持つてゐるんだね。小はこの玉子から──」なぞと社會主義じみた理窟を並べたりした。その癖此處にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。照子はそれが可笑(をか)しいと云つて、子供のやうな笑ひ聲を立てた。信子はかう云ふ食卓の空氣にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。 

話は食後の果物を荒した後も盡きなかつた。微醉を帶びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁(きべん)を弄した。その談論風發が、もう一度信子を若返らせた。彼女は熱のある眼つきをして、「私も小說を書き出さうかしら。」と云つた。すると從兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を(はふ)りつけた。それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に(とりこ)にするものは、男だけだ。」と云ふ言葉であつた。信子と照子とは同盟して、グウルモンの權威を認めなかつた。「ぢや女でなけりや、音樂家になれなくつて? アポロは男ぢやありませんか。」──照子は眞面目にこんな事まで云つた。

その暇に夜が更けた。信子はとうとう泊る事になつた。 

寢る前に俊吉は、緣側の雨戶を一枚開けて、寢間着の儘狹い庭へ下りた。それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覽。好い月だから。」と聲をかけた。信子は獨り彼の後から、沓脫(くつぬ)ぎの庭下駄へ足を下した。足袋を脫いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。 

月は庭の隅にある、瘦せがれた(ひのき)(こずゑ)にあつた。從兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。「大へん草が生えてゐるのね。」──信子は荒れた庭を氣味惡さうに、()づ怯づ彼のゐる方へ步み寄つた。が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」と(つぶや)いただけであつた。 

暫く沈默が續いた後、俊吉は靜に眼を返して、「鷄小屋(とりごや)へ行つて見ようか。」と云つた。信子は默つて(うなづ)いた。鷄小屋は丁度檜とは反對の庭の隅にあつた。二人は肩を並べながら、ゆつくり其處まで步いて行つた。しかし蓆圍(むしろがこ)ひの內には、唯鷄の匂のする、(おぼろ)げな光と影ばかりがあつた。俊吉はその小屋を覗いて見て、(ほとんど)獨り言かと思ふやうに、「寢てゐる。」と彼女に(ささや)いた。「玉子を人に取られた鷄が。」──信子は草の中に(たたず)んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。…… 

二人が庭から返つて來ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。靑い橫ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。

翌朝俊吉は一張羅の背廣を着て、食後匇々(そうそう)玄關へ行つた。何でも亡友の一周忌の墓參をするのだとか云ふ事であつた。「好いかい。待つてゐるんだぜ。午頃(ひるごろ)までにやきつと歸つて來るから。」──彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。が、彼女は華奢(きやしや)な手に彼の中折(なかをれ)を持つた儘、默つて微笑したばかりであつた。

照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。隣の奧さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外國の歌劇團の話、──その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。が、信子の心は沈んでゐた。彼女はふと氣がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其處にあつた。それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。妹は心配さうに彼女の顏を覗きこんで、「どうして?」と尋ねてくれたりした。しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。 

柱時計が十時を打つた時、信子は(ものう)さうな眼を擧げて、「俊さんは中々歸りさうもないわね。」と云つた。照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ──。」とだけしか答へなかつた。信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな氣がした。さう思ふと(いよいよ)彼女の氣もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。

「照さんは幸福ね。」──信子は(あご)を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。が、自然と其處へ忍びこんだ、眞面目な羨望(せんばう)の調子だけは、どうする事も出來なかつた。照子はしかし無邪氣らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覺えていらつしやい。」と(にら)む眞似をした。それからすぐに又「御姉樣だつて幸福の癖に。」と、甘えるやうにつけ加へた。その言葉がぴしりと信子を打つた。 

彼女は心もち(まぶた)を上げて、「さう思つて?」と問ひ返した。問ひ返して、すぐに後悔した。照子は一瞬間妙な顏をして、姉と眼を見合せた。その顏にも(また)蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。信子は強ひて微笑した。──「さう思はれるだけでも幸福ね。」 

二人の間には沈默が來た。彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鐵甁がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。

「でも御兄樣は御優しくはなくつて?」──やがて照子は小さな聲で、恐る恐るかう尋ねた。その聲の中には明かに、氣の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫(れんびん)反撥(はんぱつ)した。彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。新聞には大阪と同じやうに、米價問題が揭げてあつた。 

その內に靜な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。信子は新聞から眼を離して、袂を顏に當てた妹を長火鉢の向うに見出した。「泣かなくつたつて好いのよ。」──照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。信子は殘酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。それから女中の耳を(はばか)るやうに、照子の方へ顏をやりながら、「惡るかつたら、私があやまるわ。私は照さんさへ幸福なら、何より難有(ありがた)いと思つてゐるの。ほんたうよ。俊さんが照さんを愛してゐてくれれば──」と、低い聲で云ひ續けた。云ひ續ける內に、彼女の聲も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。すると突然照子は袖を落して、淚に濡れてゐる顏を擧げた。彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照(ほて)らせてゐた。「ぢや御姉樣は──御姉樣は何故昨夜も──」照子は皆まで云はない內に、又顏を袖に埋めて、發作的に烈しく泣き始めた。…… 

二三時間の後、信子は電車の終點に急ぐべく、幌俥(ほろぐるま)の上に搖られてゐた。彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。其處には場末らしい家々と色づいた雜木の梢とが、(おもむろ)にしかも絕え間なく、後へ後へと流れて行つた。もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。 

彼女の心は靜かであつた。が、その靜かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。照子の發作が終つた後、和解は新しい淚と共に、容易(たやす)く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。しかし事實は事實として、今でも信子の心を離れなかつた。彼女は從兄の歸りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地惡く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。── 

信子はふと眼を擧げた。その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を步いて來る、杖を抱へた從兄の姿が見えた。彼女の心は動搖した。俥を止めようか。それともこの儘行き違はうか。彼女は動悸(どうき)を抑へながら、暫くは唯幌の下に、(むな)しい逡巡を重ねてゐた。が、俊吉と彼女との距離は、見る見る內に近くなつて來た。彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往來にゆつくりと靴を運んでゐた。

「俊さん。」──さう云ふ聲が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。實際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。が、彼女は又ためらつた。その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。薄濁つた空、(まば)らな屋並、高い木々の黃ばんだ梢、──後には不相變(あひかはらず)人通りの少い場末の町があるばかりであつた。

「秋──」 

信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。

設問として面白かったのは、『「玉子を人に取られた鷄が。」と信子が考えずにはいられなかったのはなぜか。』というところだけなのであるが、明らかに違う他の選択肢を除いてしまうと、次の二つのどちらかを最終選択させるようになっている。

「心では俊吉を慕っていたのに、妹に俊吉を譲ったことが今は後悔され、俊吉を妹に取られたように思われたので。」

「妹に俊吉を譲って結婚させたのに、今は自分が俊吉を横取りしたようで、うしろめたく思われたので。」

後の文章を読めば、姉である信子が思った理由は前者の方であろうが、面白かったのはそのことでない。面白かったのは、信子の思いであることを超えて、妹は妹で、姉が俊吉を横取り (俊吉の発言に従えば「掠奪」である) しようとしていると姉を嫉妬していて、「玉子を人に取られた鷄が。」という箇所は作品的には姉と妹それぞれに、別の意味でかかっていることである。その齟齬はすでに晚飯時の「照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ聲を立てた。信子はかう云ふ食卓の空氣にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。」という部分において予告されているといってよいかもしれない。

問題の範囲ではないが、照子によって桃色の書簡箋に書かれた手紙が自分のことを語っている箇所を信子は何度も読み返し、その物語を信じこむことによって自らをいわば捏造しているとしか思えないのだが、その重要な手紙に鶏が初めて出てくる。

「私の大事な御姉樣。私が今日鷄を抱いて來て、大阪へいらつしやる御姉樣に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覺えていらしつて? 私は飼つてゐる鷄にも、私と一しよに御姉樣へ御詫びを申して貰ひたかつたの。」

「御姉樣。もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。けれどもどうか何時までも、御姉樣の照子を見捨てずに頂戴、照子は每朝鷄に餌をやりながら、御姉樣の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」