ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

柔らかい土をふんで (2)

冒頭の文を読んでから、現在のところ謎であるというしかない「なだらかな、かぼそい声は波の上に消えて行ったのかもしれない。」という短い文を挟んで、次の文を読むと「灰緑色に塗りかえたばかり」であったはずのフェンスのペンキはすでに剥げおちてしまっており、深沢七郎の『東北の神武たち』(1957) にある「タライのような月が、しゅう〳〵と音を立てながら昇り出した。」が水の主題にふさわしく「水蜜桃のような月が、シューシュー音をたててのぼりはじめ」と変奏されて引用され、ヴィスコンティによるものかブレッソンによるものかも定かには分からない『白夜』のような場面が突然出てきて何のことかと思っていると、「水の女」に「電気乾燥機を買えばいい」などと言うものだから「彼女」は泣き出してしまう。その「彼女」はどうやら別の男との間に子供をもうけていた過去があるらしいが、ある日曜日「私」のもとからも去ってしまう。

こうして小説は「水の色」の章に入るのだが、その文章はますます読者を挑発するものになって、一つの系列の物語らしきものを読み取るためには、途中二ページぐらいの別の系列の物語部分を省略して読まないとつながらない。下の例がそうで、括弧内はこちらで補ったもので原文にはなく、「…… 」は省略して読んだ部分を表している。

(私の) 叔母は、それならその後でワンピースの生地を選びに何軒かお店を見てまわることにしよう、と声をかけてから溜息をつき……死んでいた (私の叔母の) おばさん(=おえいさん。その名前は『東北の神武たち』に出てくる) を見つけたのはあたし (= 私の叔母) がたったの七歳の時だったという話を (私の) 祖母を相手にするものだから (私の) 母親は顔をしかめ、部屋を出て行くように私に合図をする。……(私を) 一緒に連れて行ってやってもいいんだけど、おとなしくしていればね。でも、男の子には退屈なんじゃないの。女の子は生地やボタンやレースとかリボンとか眺めてると、楽しそうにずっとあきずにあれこれ眺めてるけど。それより映画に連れてってやって、(以下略)

そうすると「私」はやはり男であるが、それにしては「生地やボタンやレースとかリボン」といったものに執着して嬉々として語っているようにも見え、そのことに退屈している風には見えない。

話者は単線的に語っていないことはいまや明白なので律儀に順番に読むこともなさそうで順不同に少しずつ読み進める。

「ブルー・ガーディニア」の章で「私」はフリッツ・ラングの『無頼の谷』(1952) とニコラス・レイの『大砂塵』(1954) と多分考えられる映画について、

年を取った女 (注: マレーネ・ディートリヒ) が黒っぽいふわふわした裾の長いドレスを持ちあげるようにして膝を組み、いかにも華奢なスマートな作りの派手なカウボーイ・ブーツをはいた足を見せ、男たちであふれた酒場でギターを弾きながら、低くふるえるかすれ声で歌をうたう映画と、年をとった女 (注: ジョーン・クロフォード) が白いドレスを着て人気のない酒場でピアノを弾く映画の、どちらでも、多分、二人の男たち (年齢はよくわからないけれど、どの男も腰に拳銃を吊って、拍車のついたブーツをはいたガンマン) が女を争うので途中でごちゃ混ぜになってしまい、(以下略)

と語っているので、「ごちゃ混ぜ」にするのがこの作品の話者の役割なんだと改めて納得できる。「水の色」の章にはジョン・フォードの『タバコ・ロード』(1941) が引用されているようにも見えるが、『タバコ・ロード』で老人が町のホテルに初めて泊まる場面には老人の妻はいないので、その引用には他の映画が「混ざって」いるとしか思えない。 蓮實重彥の『オペラ・オペラシオネル』(1994) が山括弧で文中にそのまま引用されている「外套と短剣」の章 *1は特に映画の引用が混ざっているように思った。全部の引用はとても分からないが「階段の踊場から白いゴムボール」が落ちてきたり「赤いリンゴ」を齧ったりするのは明らかに章題になっている『外套と短剣』(1946) からだし、「マクベス夫人」に扮している女優「マリア・トゥーラ」はルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』(1942) でキャロル・ロンバードが演じた役名である。「本屋」のところはラングの『死刑執行人もまた死す』(1943) にあったように思う (確認していない)。「6号室」「9 号室」や「七人の小人」(直接は「赤いリンゴ」からの連想である) はホークスの『教授と美女』(1941) であろう。映画作品の混在は、メリヤス類販売会社の実直な出納係 (日曜画家であり公金横領犯でもある) と金髪娘の物語系列での『牝犬』(1931) とそのリメークである『スカーレット・ストリート』(1945) についても言える。

「本当は多分、映画はフロベールが発明したのである」と金井美恵子は言っているのだから、当然『ボヴァリー夫人』(1856) との関連も気にしておく必要があるだろう——オリヴェイラの『アブラハム渓谷』(1993) も含めて。シャルルがエンマの髪の毛に惹かれるところが「光の色」の章でより徹底した描写になっていることはすでに書いたが、作中のヨットの名称が「つばめ」なのは、当然『ボヴァリー夫人』に出てくる乗合馬車「つばめ」からだし、「ロング・グレイ・ライン」の章には、金髪の娘が読む小説として下の部分がそっくり引用されている。(「つばめ」はアーサー・ランサムも想起させるが、この小説との関係は希薄である。むしろ『アブラハム渓谷』で乗合馬車がモーター・ボートに置き換えられていることの方が関係が深いと思った。)

「出発も迫ったある日、彼女が抽出しを片づけていると、なにかが指を刺した。それは、自分の結婚式のブーケについていた針金であった。オレンジのつぼみが埃をかぶり黄色く褪せていた。銀糸でかがられた繻子のリボンは、縁の方が毛羽だっていた。彼女はそれを火に投じた。乾いた藁よりも早く燃え上がった。それから、灰の上を紅い草叢のようになり、ゆっくりと小さくなっていった。彼女はそれを凝っと見つめていた。厚紙で造られたオレンジの小さな実ははぜ、真鍮の針金はくねり、飾り紐は溶けていった。紙の花びらは縮んで、暖炉の奥の鉄板をつたって黒い胡蝶のように舞っていたが、とうとう煙突から飛び去っていった。」

『柔らかい土をふんで』という表題自体、エンマがロドルフに逢いに出かける描写を想起してしまう。

「それから耕作中の畑地を横切っていったが、そこで足をめりこませ、よろめき、華奢な編上靴をとられた。」

*1: 次の「ロング・グレイ・ライン」の章にある「ぶよぶよしてもいなければ湿ってもいないこのひからびた指さき」も『オペラ・オペラシオネル』からの引用である。