ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

ちょっとマゾヒスティック

千葉雅也の『現代思想入門』がよく売れているらしい。それで思い出したのだが、浅田彰の『構造と力』が出版されたのが 1983 年のことだということである。この本に自分はほとんど影響を受けなかった。自分にとっての 1983 年は蓮實重彥の『監督小津安二郎』が出版された年ということである。そして 1983 年にはフィルムセンターで「ジョン・フォード特集」も開催されたのだから感慨深い。2022 年はどうやら『ジョン・フォード論』が出版された年として記憶することになりそうだ。

その一年前の 1982 年で映画以外のことで記憶しているのは、高野文子の『絶対安全剃刀』が出たことであるが、一番覚えているのは、僅か 1 年間で活動を中断してしまったゲルニカの LP 1 枚と数ヶ月後に出た EP 1 枚をよく聴いていたということである。『改造への躍動』は今でもときどき聞く。あの無国籍で、懐古趣味というより現在と過去を共存させたといった方がよい感じが好きなのだ。今月号の文藝春秋に千葉雅也と浅田彰の対談があってその対談の最後の方で千葉雅也が、

今のすべてがフラット化された状況では、「美味しくないから食べなくていい」と直接的な快楽だけを求め、自分を安心させてくれる繭の中にずっと閉じこもってしまう。本来は否定性を肯定へと転換すること、それはマゾヒズムと言ってもいいかもしれませんが、それが必要なはずです。

と言っているが、そこと最後の浅田彰の発言、

「LGBTQ+」の「Q(クィア)」は「ストレンジ」の同義語だから「変態」と訳すべきで、日本語ではそれはメタモルフォシス(変身)をも意味する。小児的な欲望に固着するのでも、規範的な成熟過程に従うのでもなく、どんどん逸脱し変態していく。その美学や倫理が僕なりに見た千葉さんの主張の核心部分だろうし、それには大いに共感します。

を読んで戸川純の発言を思い出した (下のクリップの 2:30 ぐらいのところ)。

千葉雅也の『現代思想入門』にはドゥルーズの『差異と反復』がひじょうに抽象的で複雑な本で、準備なしに体当たりしてもほとんどわからないと思うとあるが、1968 年にフランス語で書かれた書物の翻訳が 1992 年に極東の島国でようやく出版され、購入した一冊目はボロボロに分解して二つに裂けてしまい、二冊目を新たに購入してまた読み続ける経験をした身としては、分からなくても惹かれる本は確実に存在することだけは断言できる。