ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

雑記

腰を少し痛めてしまったからという訳でもないが、新聞・TVと同様、必要に迫られない限りなるべく遠ざけるように心がけているネット上の文書をあれこれちょっと読んだ。普段遠ざけている理由は見たり読んだりすると単純に不快になることが多いからだし、これらのものを遠ざければ自分の好きなことをする時間をかなり作ることができるからである。すでに過去の記事で書いたが、特に Twitter については、ドリス・デイが亡くなった際、誰でも知っている「ケ・セラ・セラ」という曲の題名ばかりを口を揃えていっときだけ狂ったように連呼し、親しくもない不特定多数の人に発信するのに「まだ生きていたのか」という類のコメントを沢山見かけたため、さすがに我慢ができず 2019 年 5 月 15 日 (沖縄復帰記念日である) にアプリを削除した。 (その後、調べなければいけないことがあってアプリを再インストールしたが、普段は使っていない。)

それでも今回見ていると時々面白い記事があった。

菊池成孔さんの『コロナ感染記』は、単なるイメージではない迫力ある病状の描写があり、かといって不条理な行動が思わず笑いを誘う文章の余裕も感じられ最後まで読み通した。いつもはゴースト・ライターだが今回は菊池さん自身で書かれたと断っておられるところもよい。Twitter と反対のことをするのは、面白い文章であるための必要条件である。

コロナ感染記:ビュロ菊だより:ビュロー菊地チャンネル(菊地成孔) - ニコニコチャンネル:音楽

金井美恵子さんのコラム『重箱の隅から』の2021 年 12 月分を読んでいると、「暮しの手帖」第 2 世紀 11 号 (昭和46年) に掲載された『こんな番組は困ります』のことに触れていた。金井さんは簡単にしか触れておられないが、たとえば当時同誌の編集部におられた二井康雄さんの『ぼくの花森安治』(2016) にはこうある。

ぼくたちが受信料を払う公共放送は、本当に知りたいことを放送しない。まるで政府の御用放送である。3号で、花森さんは「番組提供者の責任について」を書く。同時に、読者から、テレビの「困った番組」をハガキで募集する。「これは困る、いかになんでもひどい、そういうテレビ番組があったら投票して下さい」と誌面で呼びかけた。第 2 世紀 11 号で、最終結果を集計、「こんな番組は困ります」という記事が出た。投票総数は 4244、教養・報道部門の第 1 位は「NHK ニュース」で 1784 票。2 位の TBS 系の「時事放談」は 630 票で、大きく引き離している。たぶん、いま同じことをしても、同じか、これ以上の結果になるかもしれない。

金井さんが、

「暮しの手帖」の読者が選ぶテレビのワースト番組のベスト・ワンは、NHK の 7 時のニュースで、その理由は政治的偏向番組だから、ということは高齢の市民(「暮しの手帖」を愛読するタイプ)にはよく知られていたことであった。

と書いておられるのはその通りだと思う。なお、「暮しの手帖」第 2 世紀 11 号は今だってその気になれば簡単に購入できる。金井美恵子さんの嫌味は芸があって素敵で、類似事象への目配り (目の前の事象のみならず、時間的空間的に隔たっている事象との饗応や共鳴についても視線が向けられていること) がきちんとしている。

蓮實重彥さんも嫌味の巨頭の一人であるが、金井さんの『重箱の隅から』と同じ「webちくま」に隔月連載している文章 『些事にこだわり』の最新コラムも一気に読ませる文章である。買い物帰りの蓮實さんに公園までの道を訪ねるのに「少々お尋ねしますが」と大人っぽく自然な調子で切り出した「年の頃は七、八歳」の少年の存在が途方もなく蓮實さんを感動させ、「いったいどんな親に育てられたのだろうか。ことによったら孤児かも知れぬ。」と考えさせ、そこから疎開先での幼なかった自分の思い出までが浮かび上がってくる。つい「少々お尋ねしますが」と「まだ生きていたのか」を対比させてしまった。

面白かった文章は結局、菊池さん、金井さん、蓮實さんのものだけであるというのは、あまり健康的なことではないなあ。