ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

『ジョン・フォード論』を語る。

わたくしはジョン・フォードを、アメリカ合衆国市民という条件からも、アイルランド系移民の子という条件からも解放したかった。フォードが論じられるさいにしばしば持ち出されるアイルランド性のようなものは、何らかの仕方で捨象できるはずだ。そのようにして無国籍のジョン・フォードを立ち上げられるとすれば、それを支えられるのはわたくしひとりのはずだ。

蓮實重彥の批評を「画面に映るものだけを考察対象とみなし、その細部へ徹底的に目を凝らす」ものだとする申し合わせのようなものに対して抱き、過去に記事にしたこともある違和感——完全に間違っているわけではないがその批評の独自性をなんら明らかにしていない——について優れたインタビュアーが質問してくれて、蓮實さんがそれに明確に応えているのを読むだけでも価値があると思う。

『ジョン・フォード論』の序章にはかつてないほどの平易な言葉で蓮實批評の立場が語られている。『「ボヴァリー夫人」論』の序章の註 (1) もまた参考になるだろう。簡単にまとめておくと、

・一次的な作品に対する限りない畏怖
・批評は、作品の意味を解読したり注釈を加える段階に留まる限り、二次的であることをまぬがれない。
・批評の創造性とは、作品の周辺にまどろんでいたもろもろの「細部」を覚醒させ、増殖させ、お互いにネットワーク (「磁場」という表現がしばしばされた) として共鳴させることである。(そのとき、ようやく既成の見方・偏見から解放される。)

とでもなろうか。インタビューの中で「触手のようなものを持つ意義深い細部にことのほか惹かれる」とあるように、細部にはネットワークを構築できるタイプと、そうでないタイプがある。したがって「触手のようなものを持つ細部」つまり「潜在的にネットワーク構築ができる細部」こそが「主題」と呼ぶに相応しいものだ。

このように、空間的時間的に隔たった複数の「主題」同士が共存する関係ネットワークをまず構成することが創造的な批評の第一歩である (「創造性」が何かは分からないが、これは「創造」がおきる場の条件としてしばしば言われることである)。だから、蓮實ゼミで年間百本の映画を最低でも見ることが条件とされたのは当然のことで、その前提のもとで学生は「主題」の発見と関係ネットワークの構築の仕方を学ぶことを期待されたのだと思う (もちろん当時はそんなことは全然分からなかった)。


こうして蓮實の批評は、類似や反復にもとづく関係ネットワークの非線形性である増幅作用を通じて、希薄で多様で変質しやすい「意味 (主題の発現機能とは何かということ。そのもっとも広義な機能は物語=説話論的持続を新たな局面へ変容させることだろう)」をようやく開示するのだが、その増幅装置であるネットワークを「わかりやすい紋切りイメージ」で構成したら、どんな酷いことになるかという視点で書かれたのが、蓮實のもう一つの仕事である「物語批判」であるという気がしている (ただし「紋切り型辞典」のような倒錯した例もあった)。もっともこの分野については、今になれば多くの人が実際に日々嫌気をさされていることで、著作を読むとますます気が滅入るばかりかもしれない。嫌気がさすところなんか、確かにどこかで「紋切り型辞典」は作動しているのかもしれない。

ロラン・バルトの「プンクトゥム」と蓮實重彥の「主題」はもちろん違っているが、その違いを超えて理由もなく執着せずにはいられない愛してやまない「細部」に両者がまず惹かれる点は重要だろう。