ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

盲目物語 (8)


寄せ手は廿二日のあさ一番どりの啼くころよりおひおひ取りつめてまゐりましたが、御城下の町々、かいだうすぢの在々所々を燒きたてましたので、おびただしいけぶりが空にまんまんといたしまして日のひかりもくらく相成、おしろから四方をながめますと、いちゑんに霧のうみのやうで何も見えなんだと申します。上方ぜいはこのくらやみをさいはひに、こゑをしのばせものおとをころして、おもひおもひに竹たば、たたみ、板戶などを持ちまして、そうつとちかづいてまゐつたらしく、そのうちにそとがすこしあかるくなりましたら、さながら蟻のはひよるがごとくお堀のきはへひたと取りついてをりました。城內からはしきりに鐵炮を打ちましてそのへんのてきをみなごろしにいたしましたが、あらてのぐんぜいが入れ代り入れ代りおしよせてまゐりますのをひつしにふせぎましたこととて、なかなかけんごに持ちこたへまして、この樣子では左右(さう)なくやぶられさうもござりませなんだ。そんなぐあひでその日はどちらも手負ひ死人を出しまして引きとりましたところ、あくる廿三日のあかつき、寄せ手の陣がきふ()に攻めつづみのおとをひかへてひつそりいたしましたので、何かとおもつてをりますと、お堀のむかふに五六騎の武者があらはれまして、「御子息しばた權六どの、ならびにさくまげんばどのを昨夜いけどりにいたしました、おいたはしい儀でござる」とだいおんに呼ばはりましたので、おしろではそれをきくとひとしくみなさまがちからをおとされ、そののちはただ申しわけに御門をかためてをりますばかりで、てつぱうなどもはかばかしくは打ちませなんだ。わたくし、じつは、そのうちにひでよし公よりなんとかお使ひがありはせぬか、おくがたのことをいまもおもつていらつしやるなら、きつと、きつと、どなたかお人がみえさうなものだがと、ないないそれにのぞみをつないでをりましたことでござりますが、あんのごとくそのときになつておあつかひがござりました。お使者にたたれましたのはなんと申されるおかたでしたか、お名まへまではわすれましたけれども、お武家ではなくてさる上人がおこしなされたとおぼえてをります。それでそのおかたの御口上には、ちくぜんのかみこと、昨年以來よぎないしあはせで柴田どのとかつせんにおよび、さいはひ武運にめぐまれてここまでおしよせてまゐりましたが、むかしをおもへば總見院さまにおつかへ申した朋輩のあひだがらゆゑ、御一命までを申しうけようとは存じませぬ。しゆりのすけどのにおかせられても、しようはいは弓矢とる身の常、なにごともまはりあはせとおぼしめされてけふまでのいしゆを水にながされ、このしろをあけわたして高野山のふもとへたちのいてくださらぬか。さうすれば三萬石のりやうぶんをさしあげて一生御扶持申しませうと仰つしやるのでござりました。なれどもこれはひでよし公の御ほんしんでござりましたかどうか。ちくぜんどのはお市御料(ごれう)をいけどりにしたくてそろそろおくの手を出しをつたと、味方はもとより敵の陣中でさへそんなひやうばんが立つたくらゐでござりまして、此のおあつかひをまじめにきくものはござりませなんだ。ましてとのさまは、おれにかうさんしろなどとはぶれいなことを申すやつだと、上人にむかつてれつくわ(烈火)のごとくいきどほられまして、勝つも負けるも時の運であるのは申すまでもないこと、それをおのれらにをしへられようか、世が世ならば猿面くわんじやめをあべこべに追ひつめて腹をきらせてくれようものを、さくまげんばがおれの云ひつけを守らなんだために賤ケ嶽においておくれをとり、猿奴にてがらをえさせたのは無念である、ただこのうへは天守に火をかけて自害をするから、最後の樣子をのちの世の手本に見ておくがよい、もつとも城には十餘年來たくはえておいた玉藥(たまぐすり)がある、これが燃えたらおびただしい死人を出すだらうから、寄せ手はもつと陣をとほくへ引いてゐろ、おれはむやくのせつしやうをしたくないからさう云ふのだ、かへつたらひでよしにきつとそのむねをつたへておけとおつしやつて、さつさと座を立つてしまはれましたので、お使者もとりつくしまがなくて逃げだされたのでござりました。わたくしそれをききましたときは、たつた一つのたのみのつなも切れましたこととて、うらめしいやらなさけないやらでござりましたけれども、かうなつてはむざんやおくがたのおいのちもないにきまつた、この上は三途の川のおともをしてすゑながくおそばにおいていただくとしよう、どうか來世はめあきにうまれておうつくしいおすがたををがめるやうになりたいものだ、自分にとつてはそれこそ眞如の月のかげだと、さういふふうにくわんねん(觀念)のほぞをかためましたら、それが何よりのぜんちしき(善智識)になりまして、死ぬ方がかへつてたのしいくらゐにおもはれて來たのでござりました。

とのさまも、かくなりはてたのはなんともくちをしいしだいだけれども、いまさらとかう云ふにもおよばぬ、しよせんこよひはこころよくさけをくみかはして、あすの夜あけにはしののめの雲ともろともにきえて行かうとおつしやつてそれ〴〵御用意をあそばされ、天守をはじめ要所要所へ枯れ草を山のごとくにつみかさねていざといへば火をつけるやうに手はずをととのへられまして、さてあるだけの名酒の樽をのこらず持つてまゐれとの御諚でござりました。そんなしたくをいたしますうちにはや暮れがたになりましたが、てきの陣屋も城中のかくごのほどを見てとりましたか、おひおひかこみをゆるめまして、はるかうしろの方へひきましたので、あれ、あのやうに寄せ手のかがり火が遠くなつたぞ、さすがにひでよしはおれのこころを知つてゐるなと、世にもすずしげにおつしやいましたのが、いつものおこゑのやうではなくて、たふとくきこえましたことでござります。御しゆえんがはじまりましたのは宵の酉のこくごろでござりましたらうか。とのさまがたは申すまでもなく、櫓々(やぐらやぐら)へも樽をおくばりなされまして、おさかなには出來るかぎりのぜいをつくせとお料理方へお仰せつけられ、けつこうな珍味のかずかずをそへられましたので、あちらでもこちらでもおもひおもひのさかもりになりましたが、わけてもじやうちゆうのひろまにおいては、上段の間のしきがはのうへにとのさまが御座なされまして、おくがたがそれにおならびあそばされ、そのつぎにひめぎみたち、一段ひくいおざしきに文荷さいどの、若狹守どの、彌右衞門尉どのなどおれきれきのしゆうがおひかへなされ、まづとのさまよりおくがたへおさかづきでござりました。奧向きのものもみなみなまゐれとの有りがたいおことばがござりましたので、こしもと衆やわたくしどもまでも御しやうばんにあづかりましておそばちかくにかしこまつてをりましたが、どなたもどなたもこよひが最後でござりますから、とのさまをはじめお侍衆はいろとりどりの鎧ひたたれ、太刀、物具(もののぐ)に派手をきそつてゐぎをただされ、お女中がたもけふをかぎりにわれおとらじと晴れの衣裳をおつけになりまして、中にもおくがたは、(べに)、おしろい、かみのあぶらなどひとしほこいめにおたしなみあそばし、しろたへのおんはだへにしらあや(白綾)のおん小袖をめされ、厚板(あついた)のきんみがきのおん帶に、きんぎん五しきの浮き模樣のあるからおりの裲襠(うちかけ)をおひきなされていらしつたと申します。とのさまはおさかづきを一順おまはしになりますと、「だまつてさけばかりのんでをつては氣がめいるぞ、明日(あす)は浮世にひまをあける身があまりじめじめしてゐると寄せ手の奴ばらにわらはれる。これから夜どほし風流のあそびをして敵のぢんやをおどろかしてやりたいものだ」と仰せられましたところに、はやくも遠くのやぐらの方で、ぽん、ぽん、ぽんとつづみのおとがひびきまして、

生きてよも
明日まで人のつらからじ
このゆふぐれを訪へかしな
君を千里において
今も酒を飮み
われと心をなぐさむる

と、たれやら舞をまふらしく、ほがらかなうたひがきこえてまゐりましたので、それ、あのものたちに先を越されたぞ、こちらでもあれに負けるなと仰つしやつて、「人間五十年、下天(げてん)のうちをくらぶれば」と御じぶんがまつさきに敦盛をおうたひなされました。このうたはむかし總見院さまがたいそうおこのみあそばされ、ことに桶狹間かつせんのをりにはおんみづからこれをおうたひなされ今川どのをお討ちとりになりましたよしにて、織田家にとつてはめでたいものでござりましたけれども、「にんげん五じふねん、げてんのうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度(いちど)生を得て滅せぬもののあるべきか」と、らうらうたるおこゑでいまとのさまがおうたひなさるのをききますと、そぞろに先君御在世のころのおんことがしのばれ、さだめなき世のうつりかはりになみだがもよほされまして、なみゐる勇士のかたがたもよろひのそでをしぼられたことでござりました。

それより文荷齋どの、一露齋どのが一番づつおうたひなされ、また若太夫どののまひなどがござりましたが、そのほかにもなか〳〵おたしなみのふかいおかたがいらつしやいまして、おさかづきのかずのかさなるにつれ、みな〳〵この世のまひをさめうたひをさめにたつしやな藝を御披露におよばれ、遊興のかぎりをつくされますので、御酒宴の席は夜がふけるほどにぎやかに相成、いつ果てることかわかりませなんだ。そのうちに一人、「梨花(りくわ)一枝(いつし)雨を帶びたるよそほひの、雨を帶びたるよそほひの」と、一座のかた〴〵がおもはず鳴りをしづめますやうな美音をはりあげてうたはれましたのは、朝露軒と申される法師武者でござりました。このおかたはなにごとにも器用でおいでなされ、琵琶、三味線などもみごとにおひきなされますところから、わたくしもかねてぢつこんにねがつてをりましたので、ふしまはしのたしかなことはとくよりぞんじてをりましたなれども、いまの楊貴妃のうたの文句に耳をかたむけてをりますと、「雨を帶びたるよそほひの、太液(たいえき)の芙蓉のくれなゐ、未央(びあう)の柳のみどりも、これにはいかでまさるべき、げにや六宮の粉黛(ふんたい)の、顏色(がんしよく)のなきもことわりや、顏色のなきもことわりや」と、さうおうたひなされるではござりませんか。もとより朝露軒どのはそんなおつもりではござりますまいけれども、きいてをりますわたくしの身には、おくがたの御きりやうをうたつてをられるやうにしか受け取れませぬので、ああ、それほどにおうつくしい花のかんばせも、こよひをかぎりに散つておしまひなさるのかと、この()になつていまだに未練がきざしてくるのでござりました。すると朝露軒どのは、「あれ、あれにをる座頭はしやみせんを彈きまするぞ、おくがたのおゆるしをいただいて、あれにいちばんうたはせてごらんなされ」と申されましたので、「彌市、ゑんりよすることはないぞ」とすぐとのさまのおこゑがかりがござりました。さればわたくしとてもいまは何をか御辭退いたしませう、これこそ自分ののぞむところと、さつそく三味線を手にとりまして、「君ゆゑなみだはいつもこぼるる」とれいの小歌をうたひました。「いや、いつもながら巧者なものだな、ではそれがしも彈いてみよう」と申されて、つぎには朝露軒どのがそのしやみせんをおとりなされ、

滋賀の浦とて
しほはないが
顏の
ゑくぼは
十五夜の月

と、うたはれますので、わたくしそれをききながら、さてもおもしろい文句だわいと存じまして、みみをすましてをりますと、ところどころにながい合ひの手がはひります。朝露軒どのはそこのところをいとのねいろもうるはしくおひきなされましたが、ふと氣がつきましたのは、その三味せんのうちに二度もくりかへしてふしぎな手がまじつてゐるのでござりました。

さやうでござります、これはわたくしども、座頭の三味線ひきのものはみなよくぞんじてをりますことでござりますが、すべてしやみせんには一つの絲に十六のつぼがござりまして、三つの絲にいたしますなら都合四十八ござります。されば初心のかたがたがけいこをなされますときはその四十八のつぼに「いろは」の四十八文字をあててしるしをつけ、こころおぼえに書きとめておかれますので、このみちへおはひりなされた方はどなたも御存知でござりますけれども、とりわけめくら法師どもは、文字が見えませぬかはりには、このしるしをそらでおぼえてをりまして、「い」と申せば「い」のおと、「ろ」と申せば「ろ」のおとをすぐにおもひ浮かべますので、座頭同士がめあきの前で內證ばなしをいたしますときには、しやみせんをひきながらその(おん)をもつて互ひのおもひをかよはせるものでござります。ところでいまの不思議な合ひの手をきいてをりますと、

はしばどのより
ほおびがあるぞ
おくがたを
おすくいもおすてだてはないか

と、さういふふうにきこえるのでござります。これはこころのまよひではないか、何しにいまごろそんなことを申されるかたがあるものか、よしやそら耳でないにしてからが、たまたま(おん)()()はせがしぜんとさうなつてゐるまでだと、いくたびもおもひかへしてをりますうちに、又もや朝露軒どのは、

いかにせん
わがかよひ路の
關守は
關もゆるさず
なか〳〵に

と、うたはれるのでござりましたが、これは三味線もまへとはすつかりちがつてをりながら、やはりあの手だけがあひまあひまへ挾んであるのでござります。ああ、さては朝露軒どのは敵方のまはしものか、でなくばちかごろ急に內通なされたのか、いづれにしてもひでよし公のおほせをふくんでおくがたをてきにわたさうとしてをられるのだな、おもはぬときにおもはぬたすけがあらはれたものだが、ひでよし公がまだおあきらめにならなんだとは、なんたるつよい戀だつたのかと、にはかにむねをとどろかしてをりますと、「さあ、彌市、いま一曲その方に所望だ」と申されて、ふたたびしやみせんをわたくしの前へ置かれました。それにしてもこのようなめくら法師をさほどたよりになされるのはなにゆゑか。おくがたのためとあらば火のなか水のなかをも辭せぬこころのおくを、はづかしくも朝露軒どのにいつか見やぶられてをりましたことか。もつともわたくし、眼は見えずともお女中がたの中にをりまするたつたひとりのをとこでござります。それにかず〳〵のお座敷といふお座敷、わたり廊下のすみ〴〵までも、眼あきよりよく勝手をそらんじてをりまして、まさかの時はねずみ()より自由にはしれます。おもへばおもへばてうろけん(朝露軒)どのはよくも見込んでくだされしよな、あるにかひなきいのちをながらへてゐたといふのもかういふお役にたてたいからだ、このうへはおくがたをおすくひ申す手だてをつくして、かなはぬときはおなじけぶりときえるばかりだと、とつさにしあんをさだめまして、前後のわきまへもなく三味せんを取り上げ、

見せばや
君に
知らせばや
こころの中と
袖の色を

とうたひながら、わななくゆびさきに絲をおさへて、

けぶりをあいづにてびきいたします
てんしゆのしたえ
にんずをつれておこしなされませ

と、こちらも合ひの手にことよせまして、「いろは」の音をもつておこたへ申したのでござります。もちろんいちざのかたがたはただわたくしのうたといととにききほれてばかりおいでなされ、ふたりのあひだにこんなことばがかはされたとは知るよしもござりませなんだが、そのときわたくしはおくがたをおすくひ申すについて、一つのけいりやくをおもひついたのでござりました。と申しますのは、こよひとのさま御夫婦は天守の五重へおのぼりなされてこころしづかに御自害あそばし、それより用意の枯れ草へ火をつける手はずになつてをりました。されば御自害をあそばすまへに、ころあひをうかがつて火をつけまして、そのさわぎにまぎれて朝露軒どのの一味をひきいれましたなら、にんずをもつておふたかたのあひだをへだてることも出來るであらうと、かやうにかんがへました次第でござります。

さてもさてもわたくしは、めしひのうへにせいらい至つておくびやうでござりまして、かりにもひとさまをあざむくことはよういたしませなんだが、てきがたの間者にかたん(加擔)をいたしておしろに火をかけ、あまつさへおくがたをぬすみ出さうとくはだてましたとは、われながらおそろしいこころでござりましたけれども、これもひとへにおいのちをおたすけ申したいいちねんゆゑでござりますから、つまるところは忠義になるのだとれうけんをきめてをりました。さうかういたしますうちに、みなさまおなごりはつきませぬけれども、はつなつの夜のあけやすく、はや遠寺のかねがひびいてまゐりお庭の方にほととぎすのなくねがきこえましたので、おくがたは料紙をとりよせられまして、

さらぬだにうちぬる程も夏の夜の
わかれをさそふほととぎすかな

と、一首の和歌をあそばされ、つゞいてとのさまも、

夏の夜の夢路はかなきあとの名を
くもゐにあげよやまほととぎす

とあそばされまして、文荷さいどのがそれを一同へ御披露におよばれ、「それがしも一首つかまつります」と申されて、

ちぎりあれやすずしき道に伴ひて
のちの世までも仕へつかへむ

とよまれましたのは、ときに取つて風流のきはみと存ぜられました。それよりいづれも詰め所へおひきとりなされ切腹のおしたくでござりまして、お女中がたやわたくしはおふたかたにおつきそひ申し上げ、いよいよ天守へまゐりましたことでござります。もつともわれわれは四重までお供を仰せつかり、五重へは姫ぎみたちと文荷齋どのばかりをおつれになりましたが、わたくしはいまがだいじのときとぞんじ、五重へかよふはしごの中途までそつとあがつてまゐりまして、いきをこらしてをりましたこととて、うへの御樣子はもれなくうかがつてゐたのでござります。とのさまは先づ、
「文荷、そのへんをすっかりあけてくれ。」
と仰つしやつて、四方のまどをのこらずあけさせられまして、
「ああ、この風はここちよいことだな。」
と、あさかぜの吹きとほすおざしきに端坐あそばされ、
「うちわのものでいまいちど別れの酒を酌まうではないか。」
と、文荷さいどのにおしやくをおたのみなされまして、おくがたやひめぎみたちとあらためておさかづきがござりました。さてそれがすみましたところで、
「お市どの」
と、お呼びなされ、
「けふまでのだんだんのこころづくしはたいへんうれしくおもひます。かういふことになるのだつたら、去年のあきにそなたと祝言をするのではなかつたが、いまそれをいひ出してもせんないことだ。ついてはそれがし、いづこまでも夫婦いつしよにとおもひきはめてゐたけれども、しかしつく〴〵かんがへてみるのに、そなたはそうけんゐんさまの妹御であらせられるし、そのうへここにゐるひめたちは故備前守のわすれがたみのことでもあるから、やはりこれは助ける方が道だとおもふ。武士たるものが死んで行くのにをんなこどもを連れるにはおよばぬことだ。ここでそなたをころしたら、かついへはいつたんの意地にかられて義理にんじやうをわすれたと、世間のものは云ふかも知れぬ。な、この道理をききわけてそなたはしろを出てくれぬか。あまり不意のやうだけれども、これはよくよくふんべつをしたうへのことだ。」
と、おもひがけないおことばでござりまして、そう仰つしやるおむねの中はさだめしはらわた()もちぎれるほどでござりましたらうけれども、おこゑにすこしのくもりさへなく、よどまず云ひきられましたのは、さすが剛氣のおん大將でござります。わたくしもそれをききましては、ああ、もつたいないことだ、なさけを知るのがまことの武士とはよく云つたものだ、これほどのおかたとも存ぜずにないないおうらみ申してゐたのは、じぶんこそ下司(げす)のこんじやうだつたと、ありがたなみだにかきくれまして、おぼえずおこゑのする方を兩手をあはせてをがみましたが、そのときおくがたは、
「けふといふけふになつて、あまりなことをおつしやいます。」
と、云ひもをはらず泣きふしておしまひなされ、
「總見院どの御存生のころでさへ、いつたん他家へとつぎました身を織田家のものだとおもつたことはござりませぬ。ましてたよるべき兄弟もないこんにちになりまして、おまへさまに捨てられましたら、どこへゆくところがござりませう。死ぬべきをりに死なないと死ぬにもまさるはづかしめをうけますことは、わたくしもしみ〴〵おぼえがござります。さればさくねんこしいれをいたしましたときから、こんどばかりはどういふことがござりませうとも、二度とおわかれ申すまいとかくごをいたしてをりました。はかない御緣でござりましたけれども、夫婦として死なしていただけますなら、百年つれそふのも一生、半としつれそふのも一生でござりますものを、出て行けとはうらめしいおことばでござります。どうかこればかりはおゆるしを。」
と、さうおつしやるのが、おんかほにお袖をあてていらつしやるらしう、とぎれとぎれに、たえてはつづいてもれてまゐるのでござります。
「しかし、そなた、この三人のひめたちをふびんとは思はぬのか。これらが死ねばあさゐの血すぢはたえてしまふが、それでは故備前守に義理がたたないではないか。」
と、おしかへして仰つしやいますと、
「淺井のことをさほどにおぼしめしてくださいますか。」
と仰つしやつて、いつそうはげしくお泣きなされ、
「わたくしはお供をさせていただきますが、そのおこころざしにあまえ、せめてこの兒たちをたすけてやつて、父の菩提をとぶらはせ、またわたくしのなきあとをもとぶらはせて下さいまし。」
と仰つしやるのでござりましたが、こんどはお茶茶どのが、
「いえ、いえ、おかあさま、わたくしもお供をさせていただきます。」
と仰つしやいましたので、お初どのも小督どのも、おなじやうに「わたくしも、わたくしも」と右と左からおふくろさまにおすがりなされ、およつたりがいちどにこゑをあげてお泣きなされました。おもへばむかし小谷のときはみなさま御幼少でござりまして、なにごとも夢中でいらつしやいましたなれども、いまは末の小がうどのでさへもはや十をおこえあそばしておいでですから、かうなりましてはなだめやうもすかしやうもござりませなんだ。さればずいぶん御辛抱づよいおくがたもかあいいかたがたのおんなみだにさそはれてただおろおろと泣かれますばかりで、わたくし、じつに、十年このかたこんなに取りみだされましたのはつひぞ存じませなんだことでござります。それにしましてもおひおひ時刻がうつりますこととて、どうをさまりがつくだらうかとおもつてをりますと、文荷さいどのがひざをおすすめなされまして、
「おひいさまがた、御未練でござりますぞ。」
と叱るやうに申されておふくろさまとお子たちのあひだへ割つてはひられ、
「さ、さ、それではおかあさまのおかくごがにぶります。」
と、むりに引きはなさうとなされるのでござりました。

わたくしはこのありさまをうかがふにつけ、まだとのさまはなんとも仰つしやいませぬけれども、もはやいうよしてはをられぬところだとぞんじ、はしごの下につんでありました枯れくさの(たば)をひきぬきましてそれへともしびの灯をうつしました。をりから四重のおへやではこしもとしゆうが死にしやうぞくをあそばされいつせいにねんぶつをとなへていらつしやいまして、どなたもきがついたかたはござりませなんだので、それをさいはひにここかしこの枯れくさの山へ火をつけてまはり、障子、ふすまのきらひなくもえがらを投げちらしまして、われからけぶりにむせびながら、「火事でござります、火事でござります」とさけびごゑをあげました。くさがじふぶんにかわききつてをりましたところへ、五重の窓がすつかりあいてをりましたこととて風が下より筒ぬけに吹きあげまして、ぱちぱちとものの干割(ひわ)れるおとがすさまじく、逃げ場にまよはれるお女中がたのうなりごゑと悲鳴とがびゆうびゆうといふ火炎(くわえん)のいぶきといつしよにきこえ出しましたが、「やや、とのさまのお座所があやふいぞ」「御用心めされい、うらぎりものがをりまする」とけぶりの下よりくちぐちに呼ばはつてあまたのにんずが駈けあがつて來られました。それからさきは、朝露軒どのの一味とそれを防がれるかた〴〵とがほのほの中に入りみだれ、たがひにあらそつてせまいはしごを五重へのぼらうとなさるらしく、そのこんざつにもまれましてあちらへこづかれこちらへこづかれいたしますうちに、熱いかぜがさあつとよえんを吹きかけてはまたさあつと吹きかけてまゐり、しだいにいきが出來ないやうになりましたので、おなじ死ぬならおくがたと一つほのほに燒かれたいと、しやうねつぢごくのくるしみの底にもひつしにおもひきはめまして、はしごへ手をかけたときでござりました。「彌市、このお方を下へおつれ申せ」と、どなたかはぞんじませぬけれども、さう仰つしやつていきなりわたくしの肩の上へ上臈さまをおのせになりました。「おひいさま、おひいさま、おふくろさまはどうあそばしました」と、とつさにわたくしはさう申しましたが、それといふのはそのとき背中へおんぶいたしましたのはお茶茶どのだといふことがすぐにわかつたからでござります。「おひいさま、おひいさま」と、つづけてお呼び申しましても、お茶茶どのはうづまくけぶりに氣をうしなつていらつしやいまして、なんとも御へんじがござりませなんだが、それにしてもいまのお侍は、なぜ御自分がひめぎみをおたすけ申さずに、めくらのわたくしへおあづけなされましたことか。おほかたそのお侍は忠義一途にとのさまのおあとをしたひ、此處を御じぶんの死に場所とさだめてをられたのでござりませうか。さすればわたくしとても、おくがたの御せんどをみとどけずに逃げるといふ法はないと、さうおもひましたことでござりますけれども、でもこのお兒をおたすけ申さなんだら、さぞやおふくろさまがおうらみあそばすことであらう、彌市、おまへはわたしのたいせつなむすめをどこへ捨てて來たのですと、あの世でおとがめをかうむつたら申しわけのみちがない、かうして背中へおのせ申すやうになつたのはよくよくのえんといふものだからと、そんなふうにもかんがへられましたし、それに、わたくし、ほんたうはそんなことよりも、せなかのうへにぐつたりともたれていらつしやるおちやちやどののおんゐしき()へ兩手をまはしてしつかりとお抱き申しあげました刹那、そのおからだのなまめかしいぐあひがお若いころのおくがたにあまりにも似ていらつしやいますので、なんともふしぎななつかしいここちがいたしたのでござります。まごまごしてゐれば燒け死ぬといふくわきふの場合でござりますのに、どうしてそのやうなかんがへをおこしましたやら、まことに人はひよんなときにひよんなれうけんになりますもので、申すもおはづかしい、もつたいないことながら、ああ、さうだつた、自分がおしろへ御奉公にあがつてはじめておれうじを仰せつかつたころには、お手でもおみあしでも、とんと此のとほりに張りきつていらしつたが、なんぼうおうつくしいおくがたでもやはり知らぬまにおとしをめしていらしつたのだと、ふつとさうきがつきましたら、たのしかつたをだにの時分のおもひでが絲をくるやうにあとからあとから浮かんでまゐるのでござりました。いや、そればかりか、お茶茶どののやさしい重みを背中にかんじてをりますと、なんだか自分までが十年まへの若さにもどつたやうにおもはれまして、あさましいことではござりますけれども、このおひいさまにおつかへ申すことが出來たら、おくがたのおそばにゐるのもおなじではないかと、にはかに此の世にみれんがわいて來たのでござります。かうおはなし申しますと、たいへん長いことぐづぐづいたしてをりましたやうでござりますが、そのじつほんのわづかのあひだにこれだけのしあんをめぐらしたのでござりまして、さうと決心がつくよりはやくもうわたくしはけぶりのなかをくぐりぬけ、「おひいさまをおぶつてをりますぞ、道をあけて下さりませ」とだいおんによばはりながら、そこはめしひでござりますからなんのゑんりよゑしやくもなく人々のあたまをはねのけふみこえて、無二むさんにはしごを駈けおりたのでござります。