しかし逃げたのはわたくしばかりではござりませなんだ。おほぜいのものが火の粉をあびてぞろぞろつながつてはしりますので、わたくしもそれといつしよになつて、うしろからえいえい押されながらかけ出しましたが、お堀の橋をこえましたとたんに、ぐわら、ぐわら、ぐわらと、おそろしいひびきがいたしましたのは、うたがひもなくてんしゆの五重がくづれおちるおとでござりました。「あれは天守がおちたんですね」と、だれにきくともなく申しましたら、「さうだ、空に火ばしらが立つてゐる、きつと玉ぐすりに火がついたのだ」と、そばをはしつてゐる人がさう申されるのです。「おくがたやほかのひめぎみたちはどうあそばしたでござりませう」とたづねますと、「ひめぎみたちはみんな御無事だが、おくがたは惜しいことをしてしまつた」と申されるではござりませんか。くはしいわけはあとで知れたのでござりますけれども、その人とならんではしりながらだんだん話をききますと、朝露軒どのはまつさきに五重へ上つて行かれましたところ文荷さいどのがたちまちたくみを見ぬかれまして、「裏ぎり者、何しに來た」といふまもあらせず斬つてすてられ、はしごのてつぺんからけおとされたと申します。それで一味のかたがたも氣せいをくぢかれましたうへにおひおひ味方の御家らいしゆうが馳せつけてこられましたので、なかなかおくがたをうばひ取るなどのだんではなく、かへつてきりふせられましてやけ死んだものがおほいとのことでござりました。そのをり三人のひめぎみたちはなほもおふくろさまにしがみついていらつしやいましたのを、ぶんかさいどのが早く早くとせきたてられまして、「このかたがたをおすくひ申し敵のぢんやへとどけたものは何よりの忠義であるぞ」と、むらがるにんずの中へつきはなすやうになされましたので、ゐあはせたものがおひとかたづつお抱き申しあげて逃げたのださうで、「だからとのさまとおくがたとはあの火の中でじがいなすつたことだらう、おれはそこまではみとどけなかつたが」と、さう申されるのでござります。「ではほかのひめぎみたちはどこにいらつしやるのです」と申しましたら、「おれたちの仲間が背中に負つてひとあしさきにここを通つて行つたはずだ。お前のせおつてゐるおひいさまはいちばん强情で、しまひまでおくがたの袖をつかんではなされなかつたのをむりやりに抱きあげて誰かの背中へのせたやうだつたが、その男はまたお前にわたして自分は火の中へとびこんでしまつた。なかなかかんしんな奴だつたが、あれはおれたちの仲間ではなかつたらしい」と申されるのです。いつたい「おれたちの仲間」といふのはなんのことかとおもひましたら、上方ぜいがおくがたをうけとるために天守のちかくへしのびよつて、てうろけんどののあひづを待つてをりましたのださうで、いま此のところをこんなにぞろぞろ逃げてゆくのは、みんな裏ぎりの一味の者かさうでなければ上方ぜいのひとびとばかりなのでござりました。「しかしちくぜんのかみどのはせつかくいくさにお勝ちになつても、めざすおくがたに死なれてしまつてはなんにもなるまい。朝露軒どのもあんなしくじりをやつたのだから御前のしゆびがよいはずはない。どうせ生きてはゐられなかつたよ」と、そのおかたはさう申されて、「それでもお前がこのおひいさまをおつれ申してゐるうへはいくらかめんぼくが立つわけだから、おれはおまへにくつついてゆくつもりだ」と、そんなことを云ひ云ひ手をひかんばかりになされますので、もうさつきからだいぶんつかれてはをりましたけれども、あへぎあへぎいつしよけんめいにはしつてをりますと、よいあんばいに敵がたの足輕大將がお乘りものをもつておむかへにまゐられまして、とりあへずそれへひめぎみをうつされ、
「座頭、おまへがおつれ申して來たのか。」
と申されますから、
「さやうでござります。」
と申して、いちぶしじゆうをしやうぢきにおはなしいたしましたところ、
「よし、よし、それならお乘りものについてまゐれ。」
と申されますので、かずかずのぢんやのあひだを通りまして御本陣へお供いたしました。
お茶茶どのはもう御氣分もおよろしいやうでござりましたけれども、しばらく御きうそくあそばされお手當てをおうけになつていらつしやいますと、ただちにひでよし公が御たいめんの儀を仰せ出だされ、ほかのひめぎみたちと御いつしよにお座所へおよびいれなされました。それはまあよいといたしまして、わたくしまでがおめしにあづかりましたので、おざしきのそとのいたじきにかしこまつてへいふくいたしますと、
「おお、坊主、おれのこゑをおぼえてゐるか。」
と、いきなりおことばがかかりました。
「おそれながらよく存じてをります。」
とおこたへ申し上げますと、「さうか、まことに久しぶりであつたな」と仰つしやつて、
「その方めしひの身といたしてけふのはたらきは神妙であるぞ。たうざのほうびになんなりとつかはしたいが、のぞみがあるなら申してみろ。」
と、おもひのほかの上首尾でござりますから、わたくしはさながらゆめのここちがいたし、
「おぼしめしのほどはかたじけなうござりますけれども、ながねん御恩にあづかりましたおくがたにおわかれ申し、おめおめにげてまゐりました罰あたり奴がなんで御ほうびをいただけませう。それよりけさの御さいごのことをかんがへますと、むねがいつぱいでござります。ただこのうへのおねがひは、いままでどほりふびんをおかけくださりまして、おひいさまがたに御奉公をつとめさせていただけますなら、有りがたいしあはせにぞんじます。」
と申しましたら、
「尤ものねがひだ、ききとどけてつかはす。」
と、さつそくおゆるしがござりまして、
「小谷どのはおきのどくなことをしてしまつたが、ここにござるひめぎみたちはこれからそれがしが母御にかはつておせわをいたさう。しかしいづれもずんと大きうなられたものだな。むかしそれがしの膝のうへに抱かれていたづらをなされたのは、たしかお茶茶どのだつたとおもふが。」
と、さうおつしやつて御きげんよくおわらひなされるのでござりました。
かういふわけでさいはひわたくしは路頭にもまよはず、ひきつづき御奉公をいたすことになりましたけれども、じつを申せば、わたくしの一生はもう此のとき、天しやうじふいちねん卯月二十四日と申すおくがたの御さいごの日にをはつてしまつたのでござりまして、をだにや淸洲でくらしましたやうなたのしい月日はそののちつひぞめぐつてもまゐりませなんだ。それと申しますのは、てんしゆに火をつけ裏ぎりもののてびきをいたしましたことを姫ぎみたちもおききなされましたとみえて、しだいにおにくしみがかかりまして、なんとなくよそ〳〵しくあそばすやうにおなりなされ、とりわけお茶茶どのなどは、「この座頭ゆゑにをしからぬいのちをたすけられて、おやのかたきの手にわたされた」と、ときにはわたくしへきこえよがしにおつしやいますので、おそばにつかへてをりましても針のむしろにすわるおもひがいたしまして、このくらゐならなぜあのをりに死ななかつたかと、ただもうなさけなく、とりつくしまのない身のうへをかこつやうになつたのでござります。もとよりこれも自分が惡事をしでかした罰でござりまして、たれをうらむべきすぢもないのでござりますが、いつたん死におくれましてはいまさらお跡をしたうたところでおくがたにあはせる顏もござりませぬから、諸人のつまはじきを受けながら生き耻ぢをさらしてをりますうちに、もみれうじも、琴のおあひても、餘人に仰せつけられまして、もうわたくしにはとんと御用がないやうになつてしまひました。ひめぎみたちはその時分安土のおしろに引きとられていらつしやいまして、ひでよし公のおことばがござりましたばかりにいや〳〵ながらわたくしを召しつかつてをられましたので、それを知りましてはむりにお慈悲にすがりますこともこころぐるしく、もはや辛抱もいたしかねまして、或る日、こつそりと、おいとまごひの御あいさつもいたさずに逃げるやうにおしろをぬけて、どこと申すあてもなくさすらひ出たのでござります。
さあ、それがわたくしの三十二のとしでござりました。もつともそのをり都へのぼりまして太閤でんかにおめどほりをねがひ、ことの次第を申し上げましたら、一生くふにこまらぬほどのお扶持はいただけたでござりませうけれども、このままつみのむくいを受けて世にうづもれてしまはうとおもひきはめまして、それよりけふまで宿場々々をわたりあるいて旦那さまがたの足こしをもみ、またはふつつかな藝をもつて旅のつれ〴〵をおなぐさめ申し、三十餘年のうつりかはりをよそにながめてくらしながら、いんぐわなことにはまだ死にきれずにをりますやうなわけでござります。さういへばお茶茶どのは、あのときはあれほど太閤でんかをおうらみあそばされ、「おやのかたき」とまでおつしやつていらつしやいましたのに、まもなくそのかたきにおん身をおまかせなされ、淀のおしろに住まはれるやうになりましたが、わたくしは北の庄のおしろが落ちました日から、いづれさうなるだらうとおもつてゐたことでござりました。あのみぎり、ひでよし公はお市どのをうばひそこねてたいそう御氣色をそんぜられたさうでござりますけれども、わたくしが御前へ出ましたときは案に相違いたしましてすこしもそのやうな御樣子がなかつたばかりか、かへつてありがたいおことばをさへいただきましたのは、お茶茶どのを御らんなされましてきふにおぼしめしがかはつたのでござります。つまりわたくしがほのほの中でかんじましたのとおなじことをおかんがへなされましたので、えいゆうがうけつのこころのうちもけつきよくは凡夫とちがはぬものなのでござりませう。ただわたくしはいつたんのあやまちから一生おそばにをられぬやうな境涯におちましたけれども、太かふでんかはあのお方の父御をほろぼし、母御をころし、御兄弟をさへ串ざしになされたおん身をもつて、いつしかあのお方をわがものにあそばされ、親より子にわたる二代の戀を、をだにのむかしから胸にひそめていらしつたおもひを、とうとうお遂げなされました。いつたいひでよし公はどういふ前世のいんねんでござりましたか、のぶなが公のおん血すぢのかたがたをおしたひなされまして、まだこのほかにも蒲生ひだのかみどののおくがたにのぞみをかけていらしつたと申します。このおかたは總見院さまのおんむすめ御でいらつしやいまして、小谷どのには姪御におなりなされ、やはりお顏だちが似ていらしつたと申しますから、おほかたそれゆゑでござりましたらうか。わたくし、人づてにうかがひましたのには、せんねん飛騨守どのがおかくれなされましたとき、殿下より御後室さまへお使ひがござりまして、おぼしめしをつたへられましたけれども、御後室さまは一向おききいれがなく、かへつておなげきあそばしておぐしをおろされましたので、蒲生どののお家が宇都宮へおくにがへになりましたのは、そんなことから御前のしゆびをわるくなされたせゐだと申します。それはとにかく、あのお茶茶どのがおとしを召すにしたがつてふんべつがおつきなされまして、でんかの御ゐせいになびかれましたのは、まつたく時代じせつとは申しながら、御自分さまのおためにもけつこうなことでござりました。さればわたくしも、淀のおん方と申されるのはあさゐどのの一の姫ぎみだとききましたときは、どんなにうれしうござりましたことか。おふくろさまがあのやうにいつも御苦勞をなされましたかはりに、えいぐわの春がこのお子にめぐつて來たのだ、どうか此のおかただけはおふくろさまのやうな目におあひなさらぬやうと、たとひわが身はあるにかひなき世すぎをいたしてをりましても、こころは始終おそばにはべつてをりますつもりで、そのことばかりおいのり申してをりましたところ、そのうちにわかぎみ御誕生と申すうはさがござりましたので、もうこれでゆくすゑまでも御運は萬々歲であらうと、あんどのむねをなでてゐたのでござりました。それが、旦那さまも御承知のとほり、けいちやう三ねんの秋に太かふでんかがおかくれなされ、ほどなくせきがはらのかつせんがござりましてから、またもや世の中がだんだんかはつてまゐりまして、いちにちいちにちと悲運におなりなされましたのは、なんといふことでござりませう。やつぱりおやのかたきのところへ御えんぐみあそばされましたのが、亡きお袋さまのおぼしめしにそむき、不孝のばちをおうけなされたのでござりませうか。おふくろさまもお子さまも、二代ながらおなじやうにお城をまくらに御生害なされましたのも、おもへばふしぎなめぐりあはせでござります。
ああ、わたくしも、あの大坂の御陣のときまで御奉公をいたしてをりましたら、お役にはたちませぬまでも、をだにのおしろでおふくろさまをおなぐさめ申しましたやうに何やかやと御きげんをとりむすび、こんどこそ冥土へおともをいたしておくがたへお詑びを申すことも出來ましたでござりませうに、あのときばかりはつく〴〵我が身のふしあはせがうらめしく、まいにちまいにちてつぱうのおとをききながらやきもきいたしてをりました。それにつけても片桐いちのかみどのはあのしろぜめに關とう方の味方をなされ、ひでより公と淀のおん方の御座所へむかつて大炮を打ちこまれましたのは、なんといふなされかたか。あのお方は、むかし志津ケ嶽のいくさに七本槍のひとりとうたはれ、その時分からおとりたてにあづかつたのでござりまして、ひでよし公にはなみなみならぬ御恩をうけていらつしやるはずでござります。世間のうはさでは、太かふでんかが御りんじゆうのみぎりにはあのお方をおんまくらべにおよびなされて、秀賴のことをたのんだぞよと、くれぐれも御ゆいごんあそばされたと申すではござりませぬか。われ〳〵のやうなにんげんでもそれほど人にたのまれましたら義をたてとほすことぐらゐはこころえてをりますのに、あのおかたは、たかい聲では申されませぬが、權現さまの御ゐせいにへつらつてとよとみ家のだいおんをおわすれなされ、おもてに忠義をよそほひながらくわんとうがたに內通なされていらしつたのでござります。いえ、いえ、それは、どなたがなんと申されませうとも、さうにちがひござりませぬ。理くつはつけやうでござりますから、いちのかみどのの御苦心をおほめになるかたもござりませうが、かりにも敵がたの大炮の役をひきうけられて、あらうことかあるまいことか、お主のわかぎみと北の方のいらつしやるところへ玉をうちこむやうなおかたが、なんで忠臣でござりませうぞ。うき世をすてためくらあんまにもそのくらゐなことはわかります。それゆゑあのときはいちのかみどのがにくくてにくくて、眼さへみえたら、陣中へしのびこんで一と太刀なりとおうらみ申したいとおもつたほどでござりました。
にくいと申せば、せきがはらのときに大津でうらぎりをなされました京極さいしやうどのの仕打ちなども、はらが立つてなりませなんだ。あのおかたはお初御料人と內祝言をあそばしながら、かみがたぜいの攻めよせるまへに北の庄をお逃げなされて、若狹の武田家へたよつていらつしやいましたところ、そのたけだどのもほろぼされましてからは三界にすむ家もなく、木の根くさの根にもこころをおいてあちこちさまよつていらつしやいましたのが、やう〳〵のことでお詑びがかなつて大名衆のれつにくはへていただけたのは、どなたのおかげだとおぼしめします。もとの武田どののおくがたが松の丸どのと申されていらつしやいましたから、そのおかたのおとりなしもござりましたらうけれども、何よりも淀のおんかたにつながる御えんがあつたればこそではござりませぬか。いちどは小谷どののお袖にすがられ、つぎにはそのお子さまのなさけにたよられ、二度までもあやふいいのちをたすけておもらひなされながら、あのおほ雪のなかを落ちていらしつた當時のことをおわすれなされ、だいじのせとぎはにむほんをなされて大坂ぜいのあしなみをみだされるとは。ああ、ああ、しかし、いまさらそんなことを申したところで仕方がござりませぬ。かぞへたてればくやしいことやうらめしいことはいくらでもござりますけれども、さいしやうどのも、いちのかみどのも、もはやあの世へおいでなされ、權現さまさへ御他界あそばされましたこんにちとなりましては、なにごともすぎにしころの夢でござります。おもへばおもへばおりつぱなかたがたがみなみなおかくれなされましたのに、わたくしはこのさきいつまで老いさらぼうてをりますことでござりませう。げんきてんしやうの昔よりずいぶんながい世間をわたつてまゐりましたので、もう後生をねがふよりほかのことはござりませぬが、ただこのはなしをいつぺんどなたかにきいていただきたかつたのでござります。はい、はい、なんでござります。おくがたのおこゑがいまでも耳にのこつてゐるかと仰つしやいますか。それはもう申すまでもないこと。何かの折におつしやいましたおことばのふしぶし、またはお琴をあそばしながらおうたひなされました唱歌のおこゑなど、はれやかなうちにもえんなるうるほひをお持ちなされて、うぐひすの甲だかい張りのあるねいろと、鳩のほろほろと啼くふくみごゑとを一つにしたやうなたへなるおんせいでいらつしやいましたが、お茶茶どのもそれにそつくりのおこゑをなされ、おそばのものがいつもききちがへたくらゐでござりました。さればわたくしには太閤殿下がどんなに淀のおん方を御ちようあいあそばされましたかよくわかるのでござります。太かふでんかのおえらいことはどなたも御ぞんじでござりますが、さういふふかいおむねのなかを早くよりおさつし申してをりましたのは、はばかりながらわたくしだけでござります。ああ、わたくしも、あれほどのおかたの御心中を知つてゐたかとおもへば、かたじけなくも右大臣ひでより公のおん母君、淀のおんかたをこの背中へおのせ申したことがあるかとおもへば、なんの、なんの、この世にみれんがござりませう。いいえ、旦那さま、もうじふぶんでござります。ついいただきすごしまして、つまらぬ老いのくりごとをなが〳〵とおきかせいたしました。家には女房もをりますけれども、をんな子供にもかうまでくはしくはなしたことはござりませぬ。どうぞ、どうぞ、かういふあはれなめくら法師がをりましたことを書きとめて下さいまして、のちの世の語りぐさにしていただけましたらありがたうござります。さあ、もうおをさめ下さりませ。あまり更けませぬうちにすこしお腰をもませていただきます。
奧書
○右盲目物語一卷後人作爲の如くなれども尤も其の由來なきに非ず三位中將忠吉卿御代淸洲朝日村柿屋喜左衞門祖父物語一名朝日物語に云ふ「太閤ト柴田修理ト取合ハ其比威勢アラソイトモ云又信長公ノ御妹オ市御料人ノイハレトモ申ナリ淀殿ノ御母儀ナリ近江ノ國淺井カ妻ナリケル云々天下一ノ美人ノキコヘアリケレバ太閤御望ヲカケラレシニ柴田岐阜ヘ參リ三七殿ト心ヲ合セオイチ御料ヲムカエ取オノレカ妻トス太閤コノヨシ聞召柴田ヲ越前ヘ歸スマシトテ江州長濱ヘ出陣云々」又いふ「柴田北ノ庄ヘコモラレケレバ太閤僧ヲ使トシイニシヘノ傍輩ナリ一命ヲ助ヘシ云々是ハスカシテオイチ御料ヲトラントノハカリコト成ヘシト其沙汰人口ニマチマチナリ」
○佐久間軍記 佐久間常關物語 勝家祝言の條に云ふ「淺井長政ノ後室ヲ嫁㆓勝家㆒勝家其息女三人トモニ携越前ニ歸ルノ時秀吉走㆓勝家于使㆒曰於㆓歸國道㆒使㆓秀勝信長四男秀吉養子㆒饌膳祝儀ヲ可㆑賀ト勝家慶テ約諾ス然シテ勝家ノ家人等北庄ヲ發淸洲迄ノ行路ニ來迎勝家夜半ニ淸洲ヲ出吿㆓秀勝㆒曰越前ニ急用アルヲ以テ道ヲカネテ夜半ニ此前ヲ通ル間不㆑能㆑應㆑招云々」
○志津ヶ嶽合戰事小須賀九兵衞話には淸洲會議を安土に作る、當時「挨拶及相違て柴田と太閤互に怒をふくむ其時丹羽長秀太閤と一處に寐ころひ有しか長秀そと足にて太閤に心を付太閤被心得其夜大坂へ御かへり云々」佐久間軍記には「秀吉其夜屡小便ニヲクル」とあり然れどもこれらのこと甫庵太閤記等には見えず不審也
○蒲生氏鄕後室の墓は今京都の百萬遍智恩寺境內に在り、寬永十八年五月九日於㆓京都㆒病沒、行年八十一歲、法名相應院殿月桂凉心英譽淸熏大禪定尼、秀吉此の後室の容顏秀麗なるを知り氏鄕の死後迎へて妾となさんとしたれども後室これを聽かず、ために蒲生家は會津百萬石より宇都宮十八萬石に移さる、委しくは氏鄕記近江日野町誌を可㆑見
○三味線は永祿年中琉球より渡來したること通說なれどもこれを小唄に合はせて彈きたるは寬永頃より始まる由高野辰之博士の日本歌謠史に記載あり尤も天文年中既に遊女の手に弄ばれたること室町殿日記に見え好事家は早くより流行歌に用ゐたる趣同じく右歌謠史に委し、此の物語の盲人の如きも好事家の一人たりし歟、予が三絃の師匠菊原檢校は大阪の人にして今は殆ど廢絕したる古き三味線の組歌を心得られたるが其の中に閑吟集に載せたる「木幡山路に行きくれて月を伏見の草枕」の歌長崎のサンタマリヤの歌其の他珍しき歌詞少からず予も嘗てこれを聞きたることあり詞は短きやうなれども同じ句を幾度も繰り返して唄ひ且三味線の合ひの手は詞よりも數倍長し曲に依りては殆ど琵琶をきく如き心地す
○かんどころのしるしに「いろは」を用いることはいつの頃より始まりしか不㆑知今も淨瑠璃の三味線ひきは用㆑之由予が友人にして斯道に明かなる九里道柳子の語る所也、本文插繪は道柳子圖して予に贈らる
於高野山千手院谷しるす