ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

盲目物語 (7)


さうかうするうちに天正じふねんのとしもくれまして正月をむかへましたけれども、ほつこくはまだかんきがはげしく、雪は一向にきえさうもござりませぬし、かついへ公は「小癪な猿めが」と仰つしやるかとおもへば、「にくらしい雪めが」と雪を目のかたきにあそばされ、いらいらなされてをられますので、初春の御祝儀も型ばかりでござりましてそれらしい氣もいたしませなんだ。ひでよし公の方では、この雪のあひだに柴田がたの大名しゆうを御せいばつなさるおぼしめしとみえ、年があらたまりますとふたたびたいぐんをもつて勢州へ御しんぱつなされまして瀧川左近將監どのの御りやうぶんを切りくづされ、しきりにかつせんのさいちゆうと申すしらせがござりました。さればほつこくも今はしづかでござりますけれども、雪がきえしだいかみがたぜいとの取り合ひになるのは必定でござりますので、おしろの中はその御用意にいそがしく、みなさまがそはそはしてをられます。わたくしなどはこんなばあひになんのお役にもたちませぬから、手もちぶさたにしよんぼりといたして爐ばたにすくんでをりましたが、それにつけてもあけくれむねをいためますのは、おくがたのことでござります。ああ、ほんたうに、このありさまではおちおち殿さまとおものがたりをあそばす暇もないであらう、せつかくおちつかれたのにこのやうなことになるのだつたら、きよすにいらしつた方がよかつたかもしれない、どうか味方が勝つてくれればよいが、またしてもこのおしろがしゆら(修羅)のちまたと化して小谷のやうなまはりあはせになるのではないかと、さうおもふのはわたくしばかりでなく、お女中がたもよるとさはるとそのはなしでござりまして、いやいや、それでもまさかうちのとのさまがお負けになることはあるまいから、とりこしくらうはせぬものだなどと、たがひになぐさめあつてをりましたことでござります。

すると、ちやうどこのをりからに、ある日きやうごく高次公がおくがたをたよつて北の庄へにげていらつしやいました。むかし、きよすにおいでなされたころは御元服まへでござりましたが、いつのまにかおりつぱな冠者におなりなされ、世が世ならばもういまじぶんはひとかどのおんたいしやうでござりますけれども、のぶなが公の御おんにそむいてぎやくぞくこれたふ日向守の味方をなされましたばかりに天地もいれぬ大罪人におなりなされ、ひでよし公の御せんぎがきびしく近江のくにをあちらへのがれこちらへのがれしてをられましたところ、このたび江北がさわがしくなるにつれていよいよ身のおきどころがなくなられまして、ぎりの伯母御のおそでにすがらうとおぼしめしたのでござりませう。わづかにひとりふたりの供をつれられて、みのかさにすがたをかくしおほゆきのなかを山ごしに逃げていらつしやいまして、おしろへおつきなされたときは見るかげもなくおやつれなされていらしつたと申すことでござります。それからおくがたの御前へ出られまして、「おそれながらおちうど(落人)の身をかくまつてくださりませ、わたくしのいのちを生かすもころすも伯母うへのおこころひとつでござります」と申されましたが、おくがたはその御やうすをつく〴〵と御らんあそばし、「そなたはまあ、あさましいことをしてくれました」とおつしやつたきり、しばらくなんのおことばもなく、ただおんなみだでござりました。しかしそののちどういふ風にかついへ公へおとりなしをなされましたか、ほかならぬおくがたのお口ぞへでござりますし、あけちのざんたうとは申しながら、ひでよし公に追はれて來たといふところに、とのさまもふびんをおかけなされましたか、ではまあゆるしてつかはさうと仰つしやりまして、おしろにすまはせておかれました。たかつぐ公がおはつどのと內祝言をなされましたのはこのときのことでござりまして、わたくし、それにつきましては、うそかほんたうか、或るお女中からおもしろいはなしをうかがつてをります。と申しますのは、たかつぐ公のおのぞみはやはりお茶茶どのでござりましたけれども、お茶茶どのが「浪人ものはいやです」と仰つしやつておきらひなされましたので、不本意ながらおはつどのをもらはれたのださうでござります。いつたいおちやちや御料人はおちひさいときから氣ぐらゐのたかいところがおありなされ、ことにはやくよりおふくろさまのお手一つで成人なされましたせゐか、なかなかわがままでいらつしやいましたから、そのやうなこともおつしやつたのであらうとおもはれますが、「浪人もの」とあなどられた高次公はさだめし御むねんでござりましたらう。のちにせきがはらのかつせんのみぎり、くわんとうがたへうらぎりなされましたのも、このときのちじよくをおわすれなく、淀のおんかたへうらみをふくんでいらしつたからではござりますまいか。こんなことも邪推でござりませうけれども、もともと北の庄へ逃げていらつしやいましたのが、伯母御にたよられるといふよりも、きよすのころにおみそめなされたお茶茶どのをしたはれて來られたのかとさつせられます。さうでなければ、若狹の太守武田どのには實のいもうと御がかたづいていらつしやいましたのに、なにしにゑちぜんへおいでなされませう。こちらのおくがたは伯母御と申しても義理のおんあひだがら、ことにいまではさいえんのお身のうへと申し、あけちのよるゐとして柴田どのをたよられるすぢはないのみか、ひとつまちがへばさらしくびにもなりかねませぬ。それををかして、あのゆきのふるなかをこちらへ逃げていらつしやいましたのは、筒井づつのむかしこひしく、おちやちやどのゆゑにいのちをまとになされましたか、まあそのへんでござりましたらうが、せつかくそれほどのおのぞみがあだになりましたのは笑止のいたりでござります。さればもともとおはつどのをおもらひなさるおぼしめしはござりませなんだのに、ときのはずみでさうなつたのでござりませうか。もつともこのをりはまだいひなづけのおやくそくばかりでござりまして、御しうぎと申しましてもほんのうちわのおさかづきだけでござりました。

さわがしいなかにもこんなおよろこびのありましたのが正月のすゑか二ぐわつのはじめでござりまして、もうそのころには佐久間げんばどのがかついへ公のせんぽうとして二まんよきをしたがへられ、のこんのゆきをふみしだいて江北へ打つて出られました。ひでよし公は伊勢の御陣よりながはまへはせつけられますと、あくるあさはやく足輕にすがたをかへられ、十人ばかりの古老をめしつれて山の上へおのぼりなされまして、柴田がたのとりでとりでをくはしく御らんになりましたが、あの樣子ではとてもたやすくやぶれさうもないぞ、味方もせいぜいしろをけんごにこしらへて氣永にかかるよりしかたがないと仰つしやつて、そなへをきびしくあそばされ、きふにはおせめなさりませなんだ。それで双方たいぢんのまま三月がすぎ、四ぐわつになりましてからいよいよとのさまもやながせ表へ御發向でござりました。もはやほつこくもさくらのはながちり春のなごりのをしまれる季せつでござりまして、おこしいれののちはじめての御しゆつぢんでござりましたから、うちあはび、かちぐり、こんぶなど、おくがたはことにこころをこめておさかなの御用意をあそばし、御主殿(しゆでん)においてかどでをおいはひなされました。かついへ公はごきげんよく御酒をまゐられ、ただ一戰にてきをほろぼし藤吉郞めのくびを取つて、月のうちにはみやこへのぼつてみせようぞ、かならず吉左右(きつさう)を待つてをられよと仰つしやつて、それより中門へたちいでられ、おくがたもそこまでおみおくりなされましたが、そのときとのさまが門のほとりに弓杖をついておたちなされ、お馬にめさうとなされますと、お馬がいななきましたので、おくがたのおかほいろがかはつたと申すことでござります。なれども、このをり、岐阜においては三七どのがふたたび上方をてきになされて柴田がたに內應あそばし、やまとの筒井じゆんけいどのも日ならずうらぎりをなさる手筈がきまつてをりましたさうでござります。それにひでよし公はちりやくこそすぐれてをられましたけれども、武勇にかけてはかついへ公の方にばつぐんのほまれがござりましたし、わけて織田どのの御家老として大名がたも歸服いたされ、としいへ公はじめ佐久間、原、不破、金森のかたがたなど、たのもしき弓取りたちをしたがへてをられましたこととて、たれがあれまでのはいぐんにならうとおもひませうや。やながせ、しづがたけのかつせんの始終は三さいの小兒(せうに)までも知つてゐることでござりますから、いまさら何を申しませうなれども、かへすがへすもくちをしうござりますのは玄蕃どのの御油斷でござります。あのときかついへ公のことばをきかれさつそくおひきとりなされまして、そなへをかためていらつしやいましたら、そのうちには順慶どのも打つて出られます、美濃の味方もうしろをつきます、さうなつてくればどうなるいくさともわかりませなんだが、御本陣より馬上のおれきれきを七たびまでも使者にたてられ、きつとおいさめなされましたのに、叔父上はまうろく(耄碌)してゐるなどと申されて一向おききいれになりませなんだので、さしもの大軍も﨟次(らつし)もなくくづれてしまひました。それにしても御本陣とあの砦とのあひだはまはりみちをしましても五六里、まつすぐにまゐればわづか一里でござります。かついへ公はたいさう御りつぷくなされたさうでござりますが、それほどならばなぜ御自分でひとはしりあそばされ、げんばどのを引つたてて來られませなんだか、いつものはげしい御氣しやうにも似合はぬことでござります。まうろくと申すほどでなくとも、うつくしいおくがたをおもらひなされてやはりいくらかこころがのびていらつしやいましたか。わたくしまでがあまりの無念さに、ついこんなあくたいを申してみたくなるのでござります。

北の庄では卯月廿日にさくま玄蕃どのがてきのとりでを攻めおとされ、なかがは瀨兵衞尉どのの首を討つたと申すしらせがござりまして、たいそうおよろこびあそばされ、さいさきよしとおぼしめしていらつしやいますと、江北の方ではその夜中(やちゆう)に美濃路よりつづく海道すぢや峰々山々にたいまつのひかりがあらはれて廿日の月しろをくらますほどに空をこがし、しだいに萬燈會(まんどうゑ)のごとくおびただしい數になりまして、ひでよし公が大柹(おほがき)より夜どほしでお馬をかへされたらしく、廿一日の曉天(げうてん)にあたつて餘吾(よご)のみづうみのかなたがにはかにさわがしく相成、玄蕃どのの御陣もあやふいと申してまゐりました。その飛脚のつきましたのが同じ日の(ひつじ)の刻さがりでござりましたが、そのうちにはや落ち武者がぽつぽつ逃げかへつてまゐりまして、味方はそうはいぼくにおよび、とのさまも御運のすゑらしいと申すことでござりました。おしろではあまりのことにおどろきあきれ、よもやとおもつてをりますと、日のくれがたに勝家公むざんのありさまにて御歸城あそばされ、しばた彌右衞門のじようどの、小島わかさのかみどの、中村文荷齋どの、德菴どのなどをおめしになりまして、玄蕃もりまさがわがいひつけをまもらぬばかりに落度(をちど)を取つたぞ、それがし一代のかうみやうもむなしくなつたが、これも前世のいんぐわであらうとおつしやつて、いまはおかくごのほどもすずしく、さすがにとりしづめていらつしやいました。きけば御子息權六どのはどうなされましたか、らんぐんのちまたのこととて生死のほどもお分りにならず、とのさまもすでに柳ケ瀨の陣中においてうちじになされますところを、せめておしろへおかへりになつてしづかに御生害あそばしませ、ここはわたくしがお引きうけいたしますと、毛受勝介どのがたつておすすめ申しあげましたので、それではと仰つしやつて五幣のお馬じるしを勝介どのにおあづけなされ、府中の利家公のおしろで湯づけをめしあがられまして、それよりいそぎ北の庄へ駈け込まれたのでござります。としいへ公もお供いたしませうと申されて御いつしよにたちいでられましたけれども、しひて御辭退なされまして途中からおかへしになりましたが、またしばらくしてよびもどされまして、その方はそれがしとちがひ筑前のかみとかね〴〵ぢつこんにしてをられる、それがしへの誓約はもはやこれまでに果たされてゐるから、以來はちくぜんとわぼくして本領をあんどなされたがよい、このほどぢゆうの骨をりは勝家うれしくおもひますと仰つしやつてこころよくお別れになつたと申します。それが廿一日のゆふこくでござりまして、あくる廿二日には堀久太郞どのをせんぢんとして上方勢がひたひたと北の庄へおしよせてまゐり、ひでよし公もやがてたうちやくなされまして愛宕山のうへより諸軍をさしづあそばされ、おしろをすきまもなく取りまかれたのでござります。

このとき御城內においてはどなたもどなたもこれを最期とおもひきはめたかた〴〵ばかりでござりまして、そんなありさまを見ましてもさわぐけしきもござりませなんだ。かついへ公はそのまへの晚に御けらいしゆうをおめしになりまして、じぶんはこのしろで寄せ手をひきうけいまひとかつせんして腹をきるつもりだから、じぶんといつしよにとどまるものはとどまるがよいが、おやたちが存命のものもあらうし、妻子を置いて來たものもあらう、さういふものはすこしもゑんりよにおよばぬから早々に在所へ引き取つたがよい、罪なき人をひとりでもよけいころすことは本意でないと仰つしやつて、いとまを取りたいものには取らせ、人質などもそれぞれゆるしておやりになりましたので、おしろにのこりましたにんずはたとひわづかでござりましても、みなみないのちよりも名をおもんずるひとびとでござります。わけても彌ゑもんのじようどの、若狹守どのなど、おれきれきの衆は申すもおろかでござりますが、若狹どのの一子新五郞どのは十八歲におなりなされ、やまひの床にふせつてをられましたのに、輿(こし)にかかれておしろへはせつけられまして、「小島若狹守が(だん)新五郞十八歲因病氣柳瀨表出張せざる也、只今籠城いたし、全忠孝」と大手の御門のとびらに書きつけられました。もつとお若いおかたでは佐久間十藏どの、これは十五歲でござりました。利家公の聟でいらつしやいましたので、まだ御幼少のことと申し、府中のおしろにはお舅さまがおいでですから、しのんであちらへおたちのきなされませ、なにも籠城あそばさずとも苦しかるまいとぞんじますと、御けらいがいさめましたけれども、いやいや、おれは小さいときから引きとられて養育を受けてゐるうへに莫大な領地をたまはつてゐる、その恩義のあるのが一つ、もしとしいへ(利家)のえんじやでなければ母への孝養(けうやう)に生きながらへるみちもあるが、舅のえんにすがつて一命をつなぐのは卑怯だとおもふことが一つ、みやうじをけがせば先祖にたいしてまうしわけのないのが一つ、この三つの道理に依つてろうじやうするのだと申されて、討死のかくごをきめられました。また御定番(ぢやうばん)の松浦九兵衞尉どのは法華の信者でござりまして、小庵(せうあん)をむすんで上人をひとり住まはせておかれましたところ、その上人もまつうらどのがろうじやうなさるのをきかれまして、あなたと愚僧とは現世(げんせ)のちぎりがふかうござりましたから、ぜひ來世へもおともをして報恩謝德(はうおんしやとく)いたしませうと申され、まつうらどののとめるのもきかずにおしろへたてこもられました。それから玄久と申すおひと、これは豆腐屋でござりました。もつとも以前はかついへ公のをさな馴染みでござりましたが、あるときかつせんにふかでを負ひましたについて、このからだでは御奉公もなりかねますからおいとまをいただきます、もうわたくしも武士をやめて町人になりますと申されましたので、「さうか、それならお前は豆腐屋になれ」と仰つしやつて、大豆を年に百俵づつ下されました。さればこんどもおともをいたし、來世でおとうふをさしあげるのだと申して、わざわざまちかたよりおしろへはひつたのでござります。そのほか舞の若太夫、山口一露齋、右筆(いうひつ)の上坂大炊助どの、このかた〴〵ものこられました。なかにはみれんなものもをりまして、德菴どのは柴田どのの法師武者の一人(ひとり)といはれ、文荷齋どのとおなじやうに世に知られた方でござりましたのに、としいへ公のひとじちをぬすみ出されておしろをにげのび、府中へたよつて行かれましたけれども、不義理な奴だと仰つしやつてとしいへ公もみけしきをそんぜられ、おちかづけにならなかつたと申します。そののちこのかたはどうなりましたやら。せけんの人がだれもあひてにしませぬので、たいそうおちぶれて都のまちをさまよつてをられた姿を見たものがあるとも申します。さうかとおもへば、村上六左ゑもんのじようどのは、經かたびらを着ておしろにこもつてをられましたところ、とのさまのおん姉末森殿ならびに御息女をおつれ申してたちのくやうにとの御諚がござりまして、餘人に仰せつけくださりませと申されましても、いやいや、これはその方にたのむ、それが却つて忠義であるぞと仰つしやりますので、よんどころなくおふたかたのおともをいたして竹田の里へ逃げられましたが、二十四日のさるの刻に天守にけぶりのあがるのを見られて、おふたかたと御いつしよに自害しておはてなされました。まあわたくしのおぼえてをりますのはこれくらゐでござりますが、このかたがたはそのころもつぱらもてはやしたことでござりますから、さだめし旦那さまも御存じでいらつしやいませう。いづれもいづれも、かんばしい名をのちの世にまでのこされました奇特なひとたちでござります。

ああ、わたくしでござりますか。わたくしなどはおりつぱなかたがたの眞似は出來ませぬけれども、せんねんをだにのろうじやうのをりに捨てるいのちを生きのびてをりましたので、いまさらこのよにおもひのこすこともないとぞんじておしろにとどまつてをりましたものの、しやうぢきを申せば、まだおくがたがどうあそばすともわかりませぬので、そのごせんど(御先途)をみとどけてからともかくもならうとおもつてをりました。かう申しますとひけふ(卑怯)のやうでござりますが、おくがたはこちらへ御えんづきなされましてからまるいちねんにもなりませぬ。をだにのときは六ねんのおんちぎりでござりましたのに、それでもお子たちに引かされてながまさ公とをしきわかれをあそばしたのでござりますから、このたびとてもさうならぬとは限りませぬ。それにしても殿さまからそんなおはなしはないものか。かたきの人質をさへゆるしておやりになりながら、御夫婦と申してもみじかい御えんでござりましたのに、だいおんのある先君のいもうと御と姪御とを死出のみちづれになさるおつもりか。それともまた、いとしいおくがたをひでよし公には意地でもわたされぬとおぼしめしていらつしやるのか。かついへ公ともあらうおかたが此の()になつてめめしいこともなさるまいから、いまになんとか仰つしやるだらうが。と、そんなふうにかんがへましたのも、じぶんがたすかりたいといふこころではござりませなんだが、いきるもしぬるもおくがたしだいのいのちときめてをりましたのでござります。