ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

盲目物語 (6)


さて御城內におきましては、十八日からひろまにおより合ひなされまして御ひやうぢやうがござりましたが、くはしいことは存じませぬけれ共、亡君のおん跡目相續のこと、明地(あきち)闕國(けつこく)の始末についての御だんがふ(談合)らしうござりました。それが何分にも御めいめいに御れうけんがちがひますこととて、なかなかまとまりがつきませんで、引きつづき每日のやうに夜おそくまでおあつまりなされ、ときにはけんくわこうろんにも及ばれましたときいてをります。まあじゆんたうに申しますれば三法師ぎみが御嫡流でいらつしやいますけれども、御幼少のことでござりますから、いまのばあひは北畠どのをおあとへすゑようと仰つしやる方方もござりますし、そんなことで何や彼やとむづかしくなつたのでござりませう。しかしけつきよく御家督の儀は三ぼふしぎみにきまりましたものの、柴田どのとひでよし公とがはじめから折りあひがあしく、ことごとにあらそはれたやうでござりました。それと申しますのが、秀吉公はこんどの功勞第一のお方でござりまして、ないないこころをお寄せなさるかたがたがをられますところに、かついへ公はお家の長老でいらつしやいますから、御連枝さまをのぞいてはいちばんの上席におつきあそばし、萬事につけて列坐の衆へ威をふるはうとなされます。ことに御知行わりにつきかついへ公せんだん(專斷)をもつて秀よし公へ丹波のくにをおあたへなされ、御じぶんはひでよし公の御本領たる江州長濱六まんごくの地をおとりなされましたのが、双方の意趣をふかめるもとになつたと申します。なれどもこれはまあおもてむきでござりまして、まつたくのところは、御兩人ながら小谷のおん方にけさうしておいでなされ、どちらもおくがたをわが手に入れようとあそばしたのが事のおこりかとぞんじます。

これより先にかついへ公は、きよすにおつきなされますとおくがたへお目どほりあそばされましてねんごろな御あいさつでござりましたが、そののち三七どのへみつみつにおたのみなされましたとみえ、或る日三七どのおくがたの御殿へおこしなされましてかついへ公へ御さいえんの儀をおすすめなされたらしうござります。おくがたも、そこはなんと申しましてもおん兄ぎみにたよつていらつしやいましたことゆゑ、御ぞんしやうのうちこそおにくしみもござりましたけれども、やはり今となりましてはひとかたならずおなげきあそばし、むかしのうらみもおわすれなされてひたすら御ゑかうをつとめていらつしやいました折柄、このさき御自分の身はともかくも、三人のひめぎみたちのゆくすゑをおもはれますと、だれをちからになされてよいか途方にくれていらしつたのでござりませう。さればかついへ公の淺からぬこころをおききになりまして、にくからずおぼしめしましたか、まあそれほどでないまでも、あながちおいやではなかつたらしうござりますが、一つには德勝寺でんさまへみさををおたてなさりたく、一つには小谷どのの後室(こうしつ)としておだ家の臣下へおくだりなされますことゆゑ、そのへんのおかんがへもござりまして、さしあたりとかうの御ふんべつもつかずにいらつしやいましたところ、ほどなくひでよし公よりもおなじおもひを申しこされたやうにござります。もつともそれはどなたが仲だちをなされましたか、おほかた北畠中將どのあたりでござりましたらうか。なににいたせ北畠どのは三七どのと腹ちがひの御きやうだいでいらつしやいまして、どちらも御れんし(連枝)であらせられながらおもしろからぬおん間柄でござりましたから、一方がかついへ公の肩をもたれましたにつけ、一方がひでよし公のしりおしをなされたのでもござりませう。もとよりふかく立ち入つたことはしかと申しあげかねますけれども、お女中がたがよりよりにひそひそばなしをなされますのを、わたくし小耳にはさみまして、さてはひでよし公、小谷のときよりれんぼなされていらしつたのだ、あの時さうとにらんだことはやつぱり邪推ではなかつたわいと、ひそかにおもひあたりましたことでござります。それにしても十年以來、たえずせんぐんばんばのあひだを往來あそばし、あしたに一壘をぬきゆふべに一城をほふ()られるおはたらきをなされながら、そのおいそがしいさなかにあつてなほおくがたのおんおもかげを慕ひつづけていらしつたのでござりませうか。むかしをいへば身分の高下もござりましたものの、このたびやまざきの一戰に亡君のうらみを晴らされ、あはよくば天下をこころがけていらしつたお方のことでござりますから、いまこそ御執心(しふしん)をいろにお出しになりましたものとおもはれます。しかし、ひでよし公はさうとしましても、武强いつぺんのおかたとばかりみえましたかついへ公までがやさしい戀をむねにひそめていらつしやいましたとは、ついわたくしも存じ寄らなんだことでござります。ひよつとしましたら、これはいろこひばかりではなく、三七どのとしばたどのとがしめし合はされ、とくよりひでよし公の御心中を見ぬかれまして、わざとじやまだてをなされたのでもござりませうか。まあいくぶんかさういふ氣味がござりましたかもしれませぬ。

なれどもひでよし公へ御さいえんの儀は、じやまがありましてもありませいでもまとまる道理はござりませなんだ。おくがたはその御さうだんをお受けになりましたとき、「藤きちらうはわたしをめかけ()にするつもりか」と仰つしやつて、もつてのほかのみけしきでござりましたとやら。なるほど、ひでよし公には朝日どのと申すおかたがまへからいらつしやいますから、そこへおかたづきなされましては、いくら御本妻同樣と申してもやはりお妾でござります。それにのぶなが公御他界ののちとなりましては、小谷のおしろぜめのときいちばんに大功をあらはして淺井どのの御りやうぶんを殘らずうばひ取つたものも藤吉郞、まんぷく丸どのをだまし討ちにして串ざしにしたものも藤吉郞、一にも二にも、にくいのは藤きちらうのしわざだと、おん兄ぎみへのうらみをうつしてひでよし公へいしゆをふくんでいらしつたかとぞんじます。まして織田家のおん息女たるお方が、ちかごろきふに羽ぶりがよいとは申しながら(うぢ)もすじやうもさだかにしれぬ俄分限者(にはかぶんげんしや)のおめかけなどに、なんとしてなられませうや。どうせ一生やもめをおとほしになれぬものなら、ひでよし公よりはかついへ公をとおぼしめすのは御もつともでござります。さういふ次第で、まだはつきりと御決心がついたわけではござりませなんだが、うすうすそれが御城中へ知れわたつたものでござりますから、なほさら御兩人の不和が昂じてしまひました。ぜんたいかついへ公の方には、御自分が亡君のあだをむくいるべきおん身として、その手がらをよこどりされたそねみがござります。ひでよし公には戀のねたみ、りやう地を取られたゐこんがござります。されば御列坐のせきにおいてもたがひにそれを根におもちなされ、一方がかうとおつしやれば、一方がいやそれはならぬと、眼にかどたててあらそはれまして、御れんし御きやうだいをはじめその餘のだいみやう衆までが柴田がたと羽柴がたとにわかれるといふありさまでござりました。そんなことから、御ひやうぢやうのさいちゆうに柴田三左ゑもん勝政どの勝家公をそつとものかげへまねかれまして、いまのまにひでよしを斬つておしまひなされませ、生かしておいてはおためになりませぬとささやかれましたけれども、さすが勝いへ公は、こんにちわれ〳〵御幼君をもりたててまゐるべきばあひに、どうし討ちをしては物わらひのたねになるからと仰つしやつて、おゆるしにならなかつたと申します。それかあらぬか、ひでよし公も御用心あそばされ、夜中(やちゆう)しばしば(かはや)へ立つて行かれましたところ、丹羽五ろざゑもんのじようどのお廊下において秀吉公をよびとめられ、天下にのぞみを持たれますならかついへを斬つておしまひなされと、おなじやうなことを申されましたが、何しにかれを敵としようぞと、これも御しよういんなさらなかつたさうにござります。なれども長居(ながゐ)は無用とおぼしめされましたか、御ひやうぢやうがをはりますと、夜半(やはん)にきよすをしのんでおたちのきあそばされ、みののくに長松をすぎてながはまへおかへりなされまして、いつたんは無事にをさまりましたことでござります。

そののち三法師ぎみは安土へおうつりなされまして、はせ川丹波守どの、まへだ玄以齋どのがお守り申し上げ、御成人のあかつきまで江州において三十萬石をお知行あそばし、きよすのおしろには北畠ちゆうじやうどの、岐阜には三七のぶたか公がおすまひあそばすことになりまして、大名しゆうもみなみなかたく誓紙をかはされ御歸國におよばれましたが、おくがたの御さいえんの儀がさだまりましたのはそのとしの秋のすゑでござりました。この御えんだんは三七どののおとりもちでござりますから、おくがたはきよすより、かついへ公はゑちぜんより岐阜のおしろへおこしなされ、かの地において御祝言がござりまして、それより御夫婦御同道にて姫ぎみたちをおつれあそばし、ほつこくへおくだりなされました。その前後のことにつきましては、人によつていろ〳〵に申し、さまざまなうはさがござりますけれども、わたくしはそのみぎりお行列のなかにくははりましてゑちぜんへお供いたしましたこととて、あらましは存じてをります。當時、ひでよし公がこのお輿入れのことをききおよばれ、かついへ公をゑちぜんへかへさぬと仰つしやつて長濱へ御出陣あそばされ、おとほりを待ちかまへていらつしやると申す取り沙汰がもつぱらでござりましたが、いけだ勝入齋どののおあつかひにておもひとまられましたとも、またそんなことは根もない世上の風說であつたとも申します。もつともひでよし公の御名代として御養子羽柴秀勝公ぎふのおしろへおこしなされ、御祝儀を申しのべられまして、このたび父ひでよしこと、さしさはりのため參賀いたしかねますについては、追つて柴田どの御歸國のさい路次においておまち申しあげ、おんよろこびのしるしまでに一こんさしあげたくと、さういふ御口上でござりましたので、かついへ公もこころよく御承引なされ、ひでよし公の御饗應をおうけあそばすおやくぢやうになつてをりました。しかるところ急にゑちぜんよりお迎へのかたがたがにんずを引きつれて駈けつけて來られまして、何かものものしい御さうだんがござりましたが、秀勝公へは使者をもつておことわりにおよばれ、夜中(やちゆう)にはかに北國おもてへ御ほつそくなされました。さればひでよし公の御けいりやくがござりましたかどうか、わたくしのぞんじてをりますところは右のとほりでざります。

それにしても、おくがたはどのやうなおこころもちで御下向なされましたか。とかく再緣となりますと、いくらおりつぱな御こんれいでもさびしい氣がするものでござります。おくがたも淺井家へおこしいれのみぎりは儀式ばんたんきらびやかなことでござりましたらうが、いまはおとしも三十をおこえなされ、かずかずの御くらうをあそばしたすゑに、三人の連れ子をともなはれて雪ふかき越路へおもむかれるのでござります。それが、またどうしたいんねんか、おみちすぢまでが此のまへとおなじ驛路(えきぢ)をたどつてせきがはらより江北の地へおはひりなされ、なつかしいをだに(小谷)のあたりをおとほりになるではござりませんか。けれどもこのまへはえいろく十一ねん辰どしの春だつたさうでござりますが、こんどはそれより十五六ねんのとしつきをすぎ、秋とはいひながらもう北國はふゆの季節でござります。まして夜中(やちゆう)にあわただしい御しゆつたつでござりましたから、なんの花やかなこともなく、中にはまた、ひでよし公のぐんぜいが途中でおくがたをいけどりに來るなどと、あらぬうはさにまどはされておさわぎになるお女中がたもをられました。のみならず道中のなんじふなことと申したら、をりあしくいぶきおろし(伊吹颪)がはげしく吹きつけ、すすむにしたがつてさむさがきびしく、木の本柳ケ瀨あたりよりみぞれまじりのあめさへふつてまゐりけんそ(嶮岨)な山路に人馬のいきもこほるばかりでござりまして、ひめぎみたちや上﨟がたのおこころぼそさはさぞかしとさつせられました。わたくしなども旅にはわけて不自由な身でござりますからつらさはひとしほでござりましたが、しかしそんなことよりは、このさむぞらに山また山をおこえなされて見もしらぬ國へおいであそばすおくがたのさきざきをおあんじ申し上げ、なにとぞ御夫婦仲がおんむつまじくまゐりますやうに、このたびこそは幾久敷(いくひさしく)お家もさかえ、共白髮(ともしらが)のすゑまでもおそひとげなされますやうにと、ただそればかりをおいのり申してをりました。なれども、さいはひなことにかついへ公はおもひのほかおやさしいおかたでござりまして、亡君のいもうとごといふことをおわすれなく御たいせつにあそばされましたし、人の戀路をさまたげてまでおもらひなされただけあつて、ずいぶんかあいがつてお上げなされましたので、北の庄のおしろにつかれましてからは、おくがたも日々に打ちとけられ、殿のおなさけをしみ〴〵うれしうおぼしめしていらつしやいました。さういふ風でおもてはさむくとも御殿のうちはなんとなく春めいたここちがいたし、まあこれならば御えんぐみあそばしたかひがあつたと、しも〴〵の者も十年ぶりでうれひのまゆをひらきましたのに、それもほんの(つか)の間でござりまして、もうその年のうちにかつせんがはじまつたのでござります。

最初、かついへ公は此の(ぢゆう)のことを水にながして仲直りをなさらうとおぼしめされ、御こんれいがござりましてから間もなく、のちの加賀大納言さま利家公、不破の彥三どの、かなもり五郞八どの、ならびに御養子伊賀守どのをお使者になされてかみがたへおつかはしになり、はうばい同士矛盾(むじゆん)におよんでは亡君の御位牌にたいしてもまうしわけなくぞんずるゆゑ、こんごはぢつこんにいたしたいと申されましたので、そのときはひでよし公もたいそうおよろこびあそばされ、それがしとても同樣に存じてをりましたところ、わざわざおつかひにてかたじけなうござります、しゆりのすけどのは信長公の御老臣のことでもござれば、なんで違背いたしませうや、これからは萬事おさしづをねがひますと、れいのとほり如在ない御あいさつでござりまして、お使者のかたがたを至極にもてなされておかへしになりました。それで殿さまがたは申すまでもなく、わたくしどもまでも御兩家おんわぼくの儀をうかがひまして、もうこのうへはいやなしんぱいもなくなるであらう、おくがたのおん身にもまちがひはなからうと、ほつとむねをなでおろしてをりますと、それから一と月とたちませぬうちに、ひでよし公すうまん騎をひきゐて江北へ御しゆつぢんなされまして、ながはまじやうを遠卷きになされました。なんでもこれには仔細のありましたことらしく、ひでよし公が北の庄のごけいりやくの裏をかかれたのだと申すおかたもござります。なぜかと申しますなら、ほつこくは冬のあひだは雪がふかうござりまして、ぐんぜいをくり出すことができませぬから、たうぶんは和ぼくのていにとりつくろひ、らいねんの春ゆきどけを待つて岐阜の三七どのとしめしあはされ上方へせめのぼるやうに、御さうだんがととのつてをつたのだと申すことでござります。まあどちらがどうやらわたくしどもにはわかりませぬが、當時ながはまには御養子いがのかみどのがこもつていらつしやいましたのに、ひごろ勝家公にたいしうらみをふくんでをられましたよしにて、たちまち羽柴がたに同心なされ、おしろをあけわたしてしまはれましたので、上方ぜいはうしほのごとくみののくににらんにふいたし、岐阜のおしろにせめよせたのでござります。北の庄へもしきりに知らせがまゐりまして、櫛の齒をひくやうな注進でござりますけれども、十一月といふ極寒の折柄、そとはいちめんのおほゆきでござりまして、かついへ公はまいにちくちをしさうに空をおにらみあそばされ、おのれ、猿めがだましをつたか、この雪でさへなくば、わが武略をもつて卵を石になげるよりもやすく上方ぜいをもみつぶしてくれようものをと、お庭のゆきをさんざんに蹴ちらして齒がみをなされますので、おくがたははらはらあそばしますし、おそばの者はおそろしさにふるへあがるばかりでござりました。羽柴がたのぐんぜいはそのまに破竹のいきほひをもつてみののくにをたいはん切りなびけ、岐阜をはだかしろにしましたのがわづか十五六にちのあひだのことでござりまして、三七どのもよぎなく丹羽どのをおたのみなされ降參を申し出られましたところ、なにぶん先君の御連枝のことでござりますから秀吉公もかんにんあそばされ、しからば御老母をひとじちにいただきますと仰つしやつて、おふくろさまを安土のおしろへおうつし申し、かちどきをあげて上方へお引きとりなされました。