ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

盲目物語 (5)


そんなぐあひで、そのころのおくがたは、花さく春のふたたびめぐりくるときをお待ちあそばす御樣子も見えましたが、やはりむかしのおつらかつたこと、くやしかつたことを、きれいにお忘れにはならなかつたらしうござります。それと申しますのは、わたくし、あんなことはあとにもさきにもたつた一遍でござりますけれども、ある日御れうぢをつとめながらお話のお相手をしてをりましたとき、何かのはずみで、おもひがけないおことばを伺つたことがあるのでござります。その日は最初れいになく御きげんのていでござりまして、小谷のころのこと、長政公のおんこと、そのほかいろいろ古いことをおもひ出されておきかせ下さいましたついでに、ひととせ佐和やまのおしろにおいてのぶなが公とながまさ公と初めて御たいめんなされたをりのおものがたりがござりました。なんでもそれはおくがたが御えんぐみなされましてから間もなくのこと、おほかた永ろく年中でござりましたらう、當時さわやまは淺井どのの御りやうぶんでござりましたから、のぶなが公はみののくによりおこしなされ、ながまさ公はすりはり峠までお出むかへあそばされ、やがておしろへ御あんないなされまして、しよたいめんの御あいさつののち、善をつくし美をつくしたるおもてなしがござりました。さてあくる日は、ただいま天下の大事をひかへてあなたこなたと日をつひやすもいかがであるから、今度はそれがしがこのしろをお借り申し、自分が主人役となつて御へんれいをいたさうと、のぶなが公より仰せいだされ、ながまさ公と御いんきよとをおなじしろにおいておふるまひにおよばれまして、おだどのよりの引出物には、一文字宗吉のおん太刀をはじめおびただしき金子(きんす)銀子(ぎんす)馬代(うまだい)を御けらいしゆうへまでくだしおかれ、あさゐどのよりの御かへしには、おいへ重代の備前かねみつ、定家卿の藤川にてあそばされました近江名所づくしの歌書、そのほかつきげの駒、あふみ綿などけつこうなしなじなをととのへられ、お供のかたがたにも御めいめいへあらみの太刀やわきざしをおくられました。またおくがたも久久にておん兄ぎみに御たいめんのため小谷よりおこしなされましたので、のぶなが公のおんよろこびひとかたならず、あさゐどのの老臣がたを御前へおめしになりまして、みなみなきかれよ、その方どもの主人びぜんのかみが斯くそれがしの聟になるうへは、にほんこくちゆうは兩家の旗になびくであらう、さればそのつもりでずいぶん粉骨(ふんこつ)をぬきんでてくれたら、きつとおのおのを大名にとりたててつかはすぞと仰せられ、ひねもす御しゆえんがござりまして、(よる)は御きやうだい三人にてむつまじくおくのまへおん入りあそばし、ひきつづいて十日あまりも御たいりゆうなされました。そのあひだの御ちそうには、さわ山の浦に大あみをおろしまして、鯉やら、ふなやら、湖水のうをを數しれずとつてさしあげましたところ、これもことごとく御意にかなひ、美濃のくにではとても見られぬ名物である故、ぜひかへりにはみやげに持つてゆきたいとおほせられ、いよいよ御歸じやうのまへの日にふたたびおんなごりの御しゆえんなどがござりまして、上々のしゆびにて御ほつそくなされましたとのこと。「あのときは內大臣どのも德勝寺殿(とくしようじでん)さまもほんたうに仲がよささうににこにこしていらしつて、わたしもどんなにうれしかつたことか」などと、そんなおはなしをこまごまとあそばされまして、「おもへばあの十日ばかりのあひだがわたしのいちばんしあはせなときでした。それにつけても一生のうちにたのしいをりといふものはさうたくさんはないものだね」と仰つしやるのでござりました。さればそのときはおくがたは申すまでもなく、御けらいたちも兩家が不和にならうなどとは考えてもみませぬことで、みなみなせんしうばんぜいを祝はれたのでござりますが、ながまさ公が兼光のおん太刀を引出物になされましたについて、のちに兎や角申すものがありましたさうにござります。それはなぜかと申しますのに、右のおん太刀は御せんぞ亮政公御ひざうのお打ち物でござりました由にて、いかにたいせつな御しうぎのばあひとはいへ、ああいふ重代のたからを他家へつかはされる法はないのに、さういふことをあそばしたのが、あさゐのお家の織田どのにほろぼされる前表だつたのだと申すのでござります。なれども理窟はつけやうでござります。長政公がそれほどの品をおゆづりなされましたのも、つまりはおくがたや義理の兄上をなみなみならずおぼしめしたからでござりませう。そのためにお家がほろびたのなんのと、それは世間のなまものしりがたまたま事のなりゆきを見てさういふ風に云ひたがるのではござりますまいか。わたくしがさやうに申し上げましたら、
「それはおまへのいふ通りです。」
と、おくがたもおうなづきあそばして、
「舅となり聟となりながら、ほろぼすのほろぼされるのと、そんなことを氣にするはうがまちがつてゐます。內大臣どのにしたところで、そのじぶん敵か味方かわからない土地をお通りなされて、わづかのにんずでみののくにからはるばるおこしになるといふのは、容易のことではなかつたのです。そのこころざしにたいしても、德勝寺殿さまがあれだけのことをしてあげるのは、ひごろの御きしやうとしてあたりまへだとおもひます。」
と仰つしやつて、それからまた仰つしやいますのに、
「でもおほぜいのけらいの(なか)には不こころえなものもゐました。たしか遠藤喜右衞門尉といふ者だつたか、あのときわたしたちが小谷へかへると、あとから馬でおひかけて來て、こよひ織田どのはかしはばらで御一宿なされます、よいついででござりますから討ち果たしておしまひなされませと、わたしには內證で、そつと殿さまにみみうちをしたことがありました。おろかなことをいふ奴だととのさまはお笑ひなされて、おとりあげにはならなかつたけれど。」
と、そんなおはなしがござりました。

そのみぎり、長政公はすりはり峠までお送りなされ、そこでお別れになりまして、ゑんどう喜ゑもんのじよう、あさゐ縫殿助、なかじま九郞次郞の三人をもつて、柏原までのぶなが公のお供をおさせなされたよしにござります。おだどのはかしはばらへおつきになりますと、常菩提院(じやうぼだいゐん)のおんやどへお入りなされ、ここはながまさの領分だからすこしも心配はないと仰つしやつて、御馬廻りのさむらひたちを町かたへおあづけになり、お近習(きんじふ)の小姓しゆうと當番役のものだけをおそばへお置きなされました。ゑんどう殿はそのありさまを見てとつて急にひきかへし、馬にむち打ちもろあぶみにて小谷へはせつき、人をとほざけてながまさ公へ申されますやうは、それがしつくづく信長公の御やうだいをうかがひますのに、ものごとにお氣をつけられることは猿猴(ゑんこう)のこずゑをつたふがごとく、御はつめいなことは鏡にかげのうつるがごとく、すゑおそろしいおん大將でござりますゆゑとても此ののち殿さまとの折り合ひがうまく行くはずはござりませぬ、こよひのぶなが公はいかにも打ちとけておいでなされ、お宿にはほんの十四五人がつめてゐるだけでござりますから、しよせん今のまにお討ちとりなされるのが上分別かとぞんじます、いそぎ御決心なされて御にんずをお出しあそばされ、おだどの主從をことごとく討ち取つて岐阜へらんにふなされましたなら、濃州尾州はさつそくお手にはひります、そのいきほひにて江南の佐佐木をおひはらひ、都に旗をおあげなされて三好をせいばつあそばされるものならば、てんがを御しはいなされますのはまたたくうちでござりませうと、しきりに說かれましたさうでござります。そのときにながまさ公の仰せに、およそ武將となる身にはこころえがある、はかりごとをもつて討つのはよいが、こちらを信じて來たものをだまし討ちにするのは道でない、のぶながが今こころをゆるしてわが領內にとどまつてゐるのに、そのゆだんにつけ入つて攻めほろぼしては、たとひ一たんの利を得てもつひには天のとがめをかうむる、討たうとおもへば此のあひだぢゆう佐和山においても討てたけれども、おれはそんな義理にはづれたことはきらひだと仰つしやつて、どうしてもおもちゐになりませなんだので、遠藤どのもそれならいたし方がござりませぬが、あとでかならず後悔あそばされるときがござりますぞと申されて、またかしはばらへおもどりなされ、なにげないていで御馳走申しあげまして、あくる日無事にせきがはらまでお見おくりなされましたとやら。おくがたは此のいきさつをくはしくおきかせくださりまして、
「しかし遠藤の云つたことにも、いまかんがへれば尤もなふしがあるやうにおもはれる。」
と、さうおつしやるのでござりましたが、そのときふいにおこゑがふるへて、異樣にきこえましたので、なにかわたくしもはつといたしてうろたへてをりますと、
「一方がいくら義理をたてても、一方がたててくれなかつたらなんにもならない。てんがを取るにはちくしやうにもおとつたまねをしなければならないのかしら。」
と、ひとりごとのやうに仰つしやつて、それきりじつといきをこらへていらつしやるではござりませんか。わたくし、これはとおもひまして、お肩をもんでをりました手をやすめて、
「はばかりながら、おさつし申しあげてをります。」
と、おぼえずへいふくいたしました。するとおくがたはもう何事もなかつたやうに、
「御苦らうでした。」
と仰つしやつて、
「よいからあちらへ行つておくれ。」
といふおことばでござりますので、いそいでおつぎへさがりましたけれども、そのときはやくはなをすすつていらつしやるおとがふすまをへだててきこえたのでござります。それにしてもついさつきまでは御きげんがようござりましたのに、いつのまにかみけしきがおかはりなされ、いまのやうなことを仰つしやつたのはどうしたわけか。はじめはただ、なつかしいむかしがたりをあそばしていらつしやるうちに、だんだんお話に身がいりすぎて、おもひ出さずともよいことまでおもひ出されたのでござりませうか。はしたない奉公人なぞに御心中をおもらしなされますやうなおかたではござりませなんだのに、しじゆうおむねのおくふかくこらへてばかりおすごしなされましたのが、御自分でもおもひまうけぬときにはからずお口へ出たのかもしれませぬ。なれども小谷のころのことを十とせにちかい今となつてもおわすれなさらず、これほどつよく根にもつておいでなされ、とりわけおん兄のぶなが公へそれまでのおにくしみをかけていらつしやいましたとは。夫をうばはれ子をうばはれた母御のうらみはなるほどかういふものだつたかと、わたくしそれをはじめて知りまして、もつたいなさとおそろしさとにそのあとしばらくからだのふるへが止まなかつたくらゐでござります。

まだこのほかにもきよすにいらしつた時分のことはおもひでばなしがかずかずござりますけれども、あまりくだくだしうござりますからこれほどにいたしておきまして、それよりのぶなが公のふりよの御さいごをきつかけに、このおくがたがふたたび御えんぐみあそばすやうになりました始終を申し上げませう。もつとも信長公御せいきよのことはかくべつ申し上げませいでもあなたがたはよく御ぞんじでいらつしやいます。あの本のう寺の夜討ちのござりましたのが天正じふ年みづのえうまどしのろくぐわつ二日。なにしろかやうなへんじ(變事)出來(しゆつたい)いたさうとはたれいちにんもゆめにもおもひつかなんだことでござります。そのうへおん子城介どのまでがおなじく二條の御所においてあけちが兵に取りこめられて御せつぷくあそばされ、御父子いちどに御他界と知れましたときはまつたく世の中がわきかへるやうなさわぎでござりました。をりふし御次男きたばたけ中將どのは勢州に御座あそばされ、御三男三七どのは丹羽五ろざゑもんどのと御いつしよに泉州堺の津においでなされ、しばた羽柴のかたがたもそれぞれとほくへ御出陣でござりまして、あづちのおしろにはお留守居役の蒲生右兵衞大夫どのが手うすのにんずで御臺(みだい)やお女中さまがたをしゆごしておいでなされました。それで侍をはだか馬にのせて御城下へふれあるかせ、「さわぐなさわぐな」と取りしづめて廻られましても、まちかたの者はいまにもあけちが攻めて來ると申して泣くやらわめくやらのうろたへ方でござります。右兵衞だいふどのも最初は安土にろうじやうのかくごでをられましたけれども、ここではこころもとないとおもはれましたか、また急に模樣がへになりまして、御臺やお局さまがたを早早におつれ申し上げて御自分の居城日野谷へたちのかれました。それが三日の卯の刻ださうで、五日には早や日向守があづちへまゐりなんなくおしろを乘つとりまして、けつこうなお道具類やきんぎんのたからがそのままになつてをりましたのをことごとく己れのものになし、家來たちにもわけあたへたと申すうはさでござりました。あづちがそんなふうでござりますから、岐阜でもきよすでも、さあもう今にあけちが寄せて來はせぬかと上を下へのさうどうをいたしてをりますと、そのさいちゆうに前田玄以齋どのが岐阜のおしろから城介どのの御臺やわかぎみをおつれなされて淸洲へにげてこられました。このわかぎみはのぶなが公の御嫡孫にあたらせられる後の中納言どの、當時は三法師どのと申し上げてわづか三つにおなりなされ、おふくろさまがたといなば山の居城にいらつしやいましたが、あのものたちをぎふ(岐阜)に置いてはあやふいから早くきよすへ逃がすやうにと、城介どの御自害のとき玄以齋どのへ御ゆいごんがござりましたので、玄以齋どのはただちにみやこをのがれ出てぎふへまゐられ、御自分でわかぎみを抱きかかへて逃げてこられたのでござります。さうするうちにあけちのぐんぜいは佐和やま長濱の諸城をおとしいれて江州をいちゑんに切りなびけ、蒲生どののたてこもる日野じやうへとりつめてまゐりました。勢州からは北畠中將どのがそれをすくはうとおぼしめされ近江路へ打つて出られましたけれども、途中ここかしこに一揆がおこつてなかなかすすむどころではござりませんので、一時はまつたくどうなることかとおもつてをりますと、やがて三七のぶたか公と五郞ざゑもんのじようどのと一手になつて大坂へ馳せのぼられ、ひうがのかみの聟織田七兵衞どのを討ちとつたと申すしらせがござりました。ひうがのかみもそれをききますと日野をあけち彌平次にまかせて十日に坂本へ歸陣いたし、十三日にやまざきのかつせん、十四日にはもはやひでよし公三井でらに着陣あそばされ、ひうがのかみの首としがいとをつなぎあはせて粟田口においてはりつけになされました。さあそのかちいくさのひやうばんが又たいへんでござりまして、このかつせんには三七どの、五郞ざゑもんどの、いけ田きいのかみどののめんめんひでよし公とちからをあはせておはたらきでござりましたけれども、なかんづく秀吉公は毛利ぜいとのあつかひをさつそくに埒あけ、十一日の朝にはあまがさきへたうちやくあそばされまして、そのかけひきのすみやかなることはまことに鬼神をあざむくばかり。ひうがのかみは最初すこしもそれをしらずにやまざきへぢんを取りましたが、のちにひでよし公ちやくぢんとききましてあわててにんずをたてなほしたと申します。そんなしだいで自然ひでよし公がそうだいしやうにおなりなされかやうにじんそくにしようぶが決しましたので、にはかに御ゐせいがりゆうりゆうとして御一門のうちに肩をならべるものもないやうになられました。

きよすのおしろへもおひおひ上方から知らせがまゐりまして、まあともかくもひとあんしんとみなみなよろこんでをられましたが、そのうちにおんこの大名小名がたがだんだんに駈けつけて來られました。もうその時分、あづちのおしろはあけちの餘類が火をつけて燒いてしまひましたし、ぎふにはどなたもいらつしやいませんし、なんと申しても淸洲がもとの御本城でござりまして三法師ぎみもいらつしやることでござりますから、まづ一應はどなたもここへ御あいさつにおこしなされます。わけてもしゆりのすけ勝家公は越中おもてでほんのう寺の變事をおききなされ、かげかつ公と和睦なされていそぎ弔ひがつせんのためみやこへ上られますところに、はやくも日向守うちじにのよしを(やな)ケ瀨において御承知あそばされまして、それよりただちにこちらへおいでなされました。そのほか北ばたけのぶかつ公、三七のぶたか公、丹羽五ろざゑもんのじようどの、いけだ紀伊守どの御父子、はちや出羽守どの、筒井じゆんけいどのなど、十六七日ごろまでにみなさま御あつまりでござりまして、ひでよし公も京都において亡君のお骨をひろはれましてから、いつたん長濱の御本領へおたちよりあそばして、ほどなくおこしなされました。のぶなが公御在世のみぎりは、きよすより岐阜、ぎふよりあづちと御本城をおすすめあそばされ、めつたにこちらへおかへりなされますこともござりませず、ながいあひだひつそりいたしてをりましたので、かくおれきれきの御けらいしゆうがおそろひあそばすのはほんたうにひさしぶりでござりました。それに柴田どのをはじめ先君(せんくん)と御苦らうをともになされました舊臣のかたがたがいまではいづれも一國一じやうのおんあるじ、おほきは數ケ國の大々名(だいだいみやう)におなりなされ、きらをかざり美々しき行列をしたがへて引きもきらずに御ちやくたう(着到)なされますので、御城下はきふにこんざついたしまして、しめやかなうちにもたのもしい氣がいたしたことでござります。