さう云へば萬福丸どのを討ちはたすやうに仰せがござりましたとき、ひでよし公のたうわくなされかたは尋常でなかつたと申します。あればかりのわかぎみ一人おゆるされになりましたとて何ほどの事がござりませうや、それより淺井どののみやうせきをおつがせなされ、おんをおきせになりました方がかへつて天下せいひつのもとゐ、仁あり義あるなされかたかとぞんじますと、さまざまにおとりなしあそばされましたが、おきき入れがござりませなんだので、「しからばなにとぞ此のやくを餘人におほせつけくださりますやう」と、いつになくさからはれましたところ、のぶなが公はなはだしく御きげんを損ぜられ、「その方こんどの功にほこってまんしんいたしたか、いらざるかんげんだてをなし、あまつさへわがいひつけをしりぞけて餘人にたのめとは何ごとだ」と、きびしくおとがめなされましたものですから、しをしをと退出されまして、けつきよく若君を御せいばいなされたのだときいてをります。かれこれおもひあはせますのに、ひでよし公はまんぷくまるどのを害されて、のちのちまでもおくがたのうらみをお受けなさることがおつらかつたのでござりませう。それもなみなみのころしかたでなく、くしざしにしてさらしものにせよとの御ぢやうとありましては、なほさらのことでござります。この役まはりがえりにえつて秀吉公にわりあてられましたのは、笑止と申しませうか、おきのどくと申しませうか。こうねん柴田どのとこのおくがたの取りあひをなされ、こひにはおやぶれになりましたけれども、つひに勝家公御夫婦をせめほろぼされ、生々よよのかたきとなられましたのもこのときからのいんねんでがなござりませう。
當時わかぎみの御さいごのことはおくがたのお耳へいれぬやうにと、のぶなが公のおころづかひがござりましたので、たれいちにんも申しあげたものはないはずでござりますけれども、さらしくびにまでなりまして、しよにんのまなこにふれましたことゆゑ、うすうす世上のとりさたをおききこみになりましたか、またはむしがしらせたと申しますものか、いつからともなくけはひをおさとりあそばしてきつと御しあんなされたらしう、それからは秀吉公がおこしになりますとかへつてみけしきがすぐれぬやうでござりました。なれども或る日、「ゑちぜんからはあれきりなんのたよりもないが、若はどうしたことかしらん、とかく夢みがわるいので氣になります」と、ひでよし公へおたづねになりましたので、「さあ、いつかうに承知いたしませぬが、いまいちどおつかひをお出しなされましては」と、さあらぬていで申されますと、「でも、そなたが若をうけとりに行つたといふではないか」と仰つしやりましたのが、しづかなうちにもするどいおこゑでござりました。こしもと衆のはなしでは、そのときばかりはお顏のいろまでがまつさをにかはつて、ひでよし公をはつたとおねめつけなされたさうにござります。そんなことから秀よし公は御前のしゆびがわるくなりまして、だんだん遠のかれましたのでござります。
さて信長公はわづかのあひだに數箇國をきりなびけられ、ことごとくわがりやうぶんにくはへられまして、しやうしへの御ほうび、こうにんのおしおきなど、それぞれ御さたあそばされ、九ぐわつ九日にはもはや岐阜のおしろにおいて菊の節句をおいはひあそばされました。重陽のえんはまいねんのことでござりますけれども、べつしてそのみぎりは大小名がよそほひをこらしてお禮にまゐられ、ごんごだうだんのぎしきのありさま、めをおどろかすばかりであつたともつぱらのうはさでござりました。おくがたはしよらうと申しふれられてしばらく江北におとどまりなされまして、どなたにもたいめんあそばされず引きこもつてをられましたが、おなじ月のとをかごろ、いよいよ尾州淸洲のおさとかたへおかへりあそばすことになりました。當時信長公はぎふの稻葉やまを本城になすつていらつしやいましたので、おくがたには閑靜なきよすのおしろのはうが御つがふがよかつたのでござります。もつとも途中ちくぶしまへさんけいなさりたいと云ふ仰せでござりましたから、お女中がたやわたくしどももおつきそひ申しあげまして、長濱よりお船にめされました。をりふし、伊吹やまにはもう雪がつもつてをりまして、みづうみのうへはひとしほさむうござりましたけれども、さえわたつた朝のことでござりましたので、とほくちかくの山山まではつきり見えたのでござりませう、お女中がたはみなみなふなばたにとりついて、ながねんすみなれた土地にわかれを惜しまれ、そらをわたるかりがねのこゑ、かもめの羽ばたきにもなみだをながされ、かぜにそよぐあしの葉のおと、なみまにをどる魚のかげにもあはれをもよほされましたことでござります。ふねが竹生しまの沖あひへまゐりましたとき、「しばらくここでとめておくれ」といふおことばでござりまして、いちどう何事かと不しんにぞんじてをりますと、やがて舳に經づくえをおなほしなされ、水のおもてにむかつてたなごころを合はされしづかに御ねんじゆあそばされましたのは、おほかたそのあたりのみなぞこにかの石塔がしづめてあつたのでござりませう。さてはちくぶしまへまゐりたいと御意なされたのもさういふ仔細がおありになつたのかと、そのときわれわれもおもひあたりましたのでござります。ふねが波のまにまにゆられて一つところにただようてをりますあひだ、おくがたは香をおたきあそばして南無德しよう寺殿天英宗淸大居士と、いつしんにおんまなこを閉ぢられ、あまりながいこと合掌なされていらつしやいますので、もしやこのまま、ふなばたよりおん身をひるがへし、おなじみなぞこのもくづにおなりあそばすのではないかと、おそばのかたがたはしんぱいしまして、そつとおめしもののすそをとらへてゐたさうでござりますが、わたくしにはただ、おくがたのお手のうちで鳴るじゆずのおとがきこえ、たへなる香のかをりがにほつてまゐつたばかりでござります。
それよりしまへおあがりなされて一と夜參籠あそばされ、あくる日佐和やまへおわたりになりまして、いちにちふつか御きうそくなされましてから御ほつそくあそばし、だうちゆうつつがなく淸洲のおしろへ御あんちやくになりました。おさとかたではけつこうな御殿をしつらへてお迎へ申し、「小谷のおん方」とおよび申しあげて至極たいせつなおとりあつかひでござりましたから、なに御不自由のないおみのうへでござりましたけれども、姫ぎみたちの御せいじんをたのしみにあさゆふ看經をあそばすほかにはこれと申すお仕事もなく、おとなふお方もござりませんので、もうまつたくの世すてびとのやうな佗びしいおくらしでござりました。それにつけても、いままではおほぜいの人目もござりますし、なにやかやとおまぎれになることもござりましたのに、ひねもすうすぐらいお部屋のおくにとぢこもつていらしつてしよざいなくおくらしなされましては、みじかい冬の日あしでさへもなかなか長うござります。しぜんおむねのなかには亡き殿さまのおすがたがおもひうかべられ、ああいふこともあつた、かういふこともあつたと、かへらぬむかしをおしのびなされて悲歎にくれていらつしやいました。いつたいおくがたは武門のおうまれでいらつしやいますから、なにごとにも御辛抱づようござりまして、めつたと人にふかくのなみだをおみせになることはござりませなんだが、もはやその頃はおそばの衆と申しましてもわたくしどもばかりでござりましたので、はりつめたおこころもいつときにおゆるみなされたのでござりませう。いまこそほんたうのかなしみにおん身をゆだねられ、ひとけのない奧の間で何をおもひ出されましてかしのびねに泣いていらつしやるのが、ふとお廊下を通りますときに耳についたりいたしまして、とかくお袖のしめりがちな日がおほいやうでござりました。
さういふ風にして一ととせ二たとせはゆめのやうにすぎましたなれども、そのあひだ、春は花見、あきはもみぢがりのお催しなど、お氣ばらしにおすすめいたしましても、「わたしはやめます、おまへたちで行つておいで」と仰つしやいまして、御じぶんは浮世のほかのくらしをなされ、ただひめぎみたちをお相手になされますのがせめてものお心やりと見えまして、御きげんのよいおわらひごゑのきかれますのはそんなときばかりでござりました。さいはひ三人のお子たちはどなたもおたつしやにおそだちなされ、おんみのたけも日ましにおのびになりまして、いちばんおちひさい小督どのなども最早やおひとりであんよをなされたり、かたことまぜりにものを仰つしやつたりなされましたので、それをごらんあそばすにつけても亡き夫が御ぞんしやうであられたならばと、またおんなげきのたねでござりました。べつしておふくろさまとしましては、まんぷく丸どのの御さいごのことをお忘れなく、いつまでもおいたみなされていらつしやいましたが、なにぶん御自分のあさはかさから現在のお子を敵におわたしなされまして、ああいふおかあいさうなことになつたのでござりますから、だました人もうらめしく、だまされたわが身もくちをしく、なかなかおあきらめになれなかつたらしうござります。それに福田寺へおあづけなされた末の若君もいまはどうしていらつしやるやら。よいあんばいに信長公は此のお子のことを御存知なされませんでしたので、いつたんはおのがれになりましたものの、乳のみ兒のをりにおわかれなされましたきりその後の安否をおききにならないのでござりますから、口に出しては仰つしやりませんでも、雨につけ風につけ、いちにちとしておあんじあそばさないときはなかつたでござりませう。そんなことから一そうひめぎみたちを世にないものにおぼしめしまして、ふたりの若君の分までもかあいがつてお上げなされました。
京極さいしやう殿高次公は、ちやうどそのじぶん十三四さいでいらつしやいましたでせうか。のちには信長公の小姓をつとめられましたけれども、お元服まへはきよすにあづけられていらつしやいまして、ときどきおくがたの御殿へおこしなされたことがござりました。申すまでもござりませぬが、もと此のお兒は淺井どののお家にとつては御主筋にあたられる江北のおん屋形、佐々木高秀公のおわすれがたみでござります。さればぐわんらいはこのお兒こそ近江はんごくのおんあるじでござりますけれども、御先祖高淸入道のとき伊ぶきやまのふもとに御いんたいなされましてから、御りやうないは淺井どのの御威勢になびいてしまひまして、御じぶんたちはほそぼそとくらしていらつしやいましたところ、せんねん小谷らくじやうのみぎり、のぶなが公が江北に恩をきせようとの御けいりやくからわざわざ此のお兒をおよび出しになりまして、小姓におとりたてなされたのでござります。こうねん、天正十年のろくぐわつ惟任ひうがのかみのはんぎやくにくみして安土萬五郞のともがらと長濱のしろをおせめなされ、まつた慶ちやう五年の九月關ケ原かつせんのをりには、大坂がたに裏ぎりをなされて大津にろうじやうあそばされ、わづか三千人をもつて一まん五千の寄せ手をひきうけられましたのは此のお方でござりますが、まだそのころは、さういふ橫紙やぶりの御きしやうともみえませなんだ。おとしから云へばわんぱくざかりの時分でござりましたけれども、貴人のおうまれでありながら幼いときよりひかげもののやうにおそだちなされ、どこかにこころぼそさうなあはれな御樣子がおありになつて、御前へ出られてもおくちかずがすくなく神妙にしていらつしやいましたので、わたくしなどには、いらつしやるのかいらつしやらないのか分らないくらゐでござりました。もつとも此のお兒のおふくろさまは長政公のいもうと御でござりましたから、ひめぎみたちとはいとこ同士、おくがたは義理の伯母御におなりなされます。それで萬ぷく丸どののことをしのばれるにつけても此のお兒をいとしがられまして、「わたしが母御のかはりになつて上げますよ、用のないときはいつでもここへあそびにおいで」と仰つしやつて、なさけをかけてお上げなされ、「あの兒はだまつてゐるけれども腹にしつかりしたところがある、きつと利發ものにちがひない」とおほめになつていらつしやいました。さやうでござります、おはつ御料人と御えんぐみをなされましたのは、それよりずつとのち、七八ねんもさきのことでござりまして、當時は姫ぎみもおちひさうござりましたから、そんなおはなしはござりませなんだ。なれども此のお兒は、おはつどのよりもお茶茶どのに人知れずのぞみをかけておいでなされ、それとなくお顏をぬすみ見にいらしつたのではござりますまいか。もちろんどなたもさう氣がついたかたはござりませなんだが、子供のくせに大人のやうにおちついていらしつて、むつつりとおだまりなされ、いつまででも御前にかしこまつておいでなされたのは、何かいはくがおありになつたのかとおもはれます。さうでなければ、かくべつおもしろいこともないのにしばしば御殿へおこしなされて、窮屈なおもひをあそばしながらじつとすわつていらつしやる譯もござりますまい。わたくしだけはなんとなく無氣味なやうにかんじまして、うすうす嗅ぎつけてをりましたので、「あのお兒はお茶茶さまに眼をつけてゐるらしい」と、こしもとしゆうに耳うちをしたことがござりましたけれども、めくらのひがみだと申されましてみなさまがおわらひなされ、まじめにきいて下すつたかたはござりませなんだ。
さあ、おくがたが淸洲にいらつしやいましたあひだは、小谷のおしろのおちましたのが天しやうぐわんねんの秋のこと、それよりのぶなが公御逝去のとしの秋ごろまででござりますから、あしかけ十年、ざつとまる九ねんの月日になります。まことに光陰は矢のごとしとやら、すぎ去つてみればなるほどさうでござりますけれども、天下のみだれをよそにおながめあそばされ、いつどこに合戰があつたとも御存知ないやうなひつそりとしたくらしをなされましては、九年といふものはずいぶんながうござります。さればおくがたもいつとはなしに次第にかなしみをおわすれなされ、つれづれのをりにはまた琴などのおなぐさみをあそばすやうになりました。それにつれましてわたくしも、すきなみちではござりますし、お氣散じにもなりますことゆゑ、御ほうこうのあひまには唱歌やしやみせんのけいこをはげみ、わざをみがきまして、いよいよ御意にかなひますやうに出精いたしましたことでござります。唱歌と申せば、あの隆達節といふ小唄のはやり出しはたしかそのころでござりまして、
しもかあられか初ゆきか
しめてぬる夜の
きえぎえとなる
などと申すのや、それからまた、
枕な投げそ
なげそまくらに
とがはよもあらじ
と申すうた、もつとをかしな文句のものでは、
しならしの帶とて
非難をしやる
帶がしならしなら
そなたの肌もしならし
などと、よくみなさまにうたつてきかせたことがござります。ちかごろは此のりゆうたつぶしもすたれましたけれども、一時はあれが今の弄齋節のやうに大はやりをいたしまして、きせん上下のへだてなくうたはれたものでござります。太閤でんかが伏見のおしろでお能を御らんなされましたときは、隆達どのをおめしになつて舞臺でうたはせられまして、幽齋公がそれにあはせて小つづみをお打ちになりました。わたくしがきよすにをります時分は、やうやう流行しはじめたころでござりましたから、最初はほんの腰元しゆうの憂さはらしに、扇で拍子をとりながら小ごゑでそつとうたひまして、節ををしへて上げたりしたのでござりますが、お女中がたは今申し上げたをかしな文句のうたがおすきで、あれをうたはせてはころころとおわらひになるものですから、いつしかおくがたのお耳にとまりまして、「わたしにもうたつてきかせておくれ」と仰つしやるのでござりました。「なかなか、あなたがたにおきかせ申しますやうなものでは」と、御じたい申し上げましても、「ぜひにうたへ」と御意なされますので、それからはたびたび御前へ出ましてうたつたことがござります。「おもしろの春雨や、花のちらぬほどふれ」と申す、あの文句をたいそうおこのみなされ、あれをいつでも御所望あそばされまして、いつたいにうきうきとしたものよりは、しんみりとした、あはれみのふかいものの方がおすきのやうでござりました。よくわたくしがおきかせ申しましたのは、
をりをりにふる
君故なみだは
いつもこぼるる
とか、
そのいろ人に
しらすなよ
おもはぬふりで
わするなよ
といふやうな唄でござります。この二つのうたの文句は何かしらわたくしの胸のおもひにかよひますせゐか、これをいつしんにうたひますときは、腹のそこより不思議なちからがあふれいで、おのづから節まはしもこまやかになりこゑさへ一そうのつやを發しましたので、おききになるかたもつねにかんどうあそばされ、又自分でも自分のうたのたくみさにききほれまして、こころの中のわだかまりがいつときに晴れるのでござりました。それにわたくしはしやみせんの曲をかんがへまして、文句のあひだにおもしろい合ひの手などをくはへて、いちだんと情のふかいものにいたしました。こんなことを申しますと何やら自慢めきますけれども、かういふ小唄に三味せんを合はせますのは、わたくしなどのいたづらが始めなのでござりまして、まへにも申しましたやうに、當時は鼓で拍子をとりますのが普通だつたのでござります。
とかくはなしが遊藝のことにわたりますやうでござりますが、わたくしいつもかんがへますのに、うまれつきおんせいがうつくしく、唄をきようにうたふことが出來ますものは此のうへもなく仕合はせかとぞんじます。隆達どのも元は堺のくすりあきうどでござりましたのに、うたが上手なればこそ太かふ殿下のお召しにもあづかり、いうさい公につづみを打たせていちだいの面目をほどこされました。もつともあのかたはみづから一流をはつめいなされましたほどの名人、それにくらべたらわたくしなどはもののかずでもござりませぬが、淸洲のおしろで十年の春秋をすごしまするあひだ、あけくれおくがたのおそばをはなれず、月ゆき花のをりにふれて風流のお相手をつとめまして、ひとかたならぬ御恩をかうむりましたのも、いささかおんぎよくをたしなみましたがゆゑでござります。人の望みはいろいろでござりまして、何がいちばんの果報とも申されませぬから、わたくしのやうなきやうがいをあはれとおぼしめすかたもござりませうなれども、じぶんの身にとり此の十ねんのあひだほどたのしいときはござりませなんだ。さればなかなか隆達どのをうらやましいともおもひませぬ。それを何ゆゑかと申しますのに、おくがたのおことにあはせて三味線のひじゆつをつくし、または御しよまうの唄をおききに入れて御しんちゆうのうれひをやはらげ、いつもいつもおほめのおことばをいただいてゐたのでござりますから、たいかふでんかのぎよかんにあづかりましたよりもずつとほんまうでござります。これもめしひにうまれましたおかげかとおもへば、このとしになりますまで自分のかたはをくやんだことは一ぺんもござりませぬ。
世のことわざに、蟻のおもひも天までとどくと申します。はかない盲法師でもちゆうぎは人とかはりませぬから、すこしでも御しんらうが癒えますやうに、せいぜい御きげんうるはしうおくらしなされますやうにと、こころをこめておつかへ申し、しんぶつにきぐわんをかけましたせゐか、いや、あながちに、そのせゐばかりでもござりますまいが、そのころおくがたはおひおひにお肥えあそばされ、いちじはずいぶんやつれていらつしやいましたのに、又いつのまにかむかしのやうにみづみづしうおなりなされました。おさとへおかへりになりました當座は、お肩のほねといちばんうへのあばらとのあひだに凹みが出來、それがだんだんふかくなりまして、おくびのまはりなどひとしきりの半分ほどにおなりなされ、やせほそられるばかりでござりましたので、れうじを仰せつかりますたびになみだにくれてをりましたところ、三年目、四ねんめあたりから、うれしや日に月にわづかづつ肉がおつきなされ、七八ねん目には小谷のころよりもなまめかしうつやつやとおなりなされて、これが五人のお子たちをお產みあそばしたおかたとはおもへぬほどでござりました。こしもとしゆうにききましても、丸顏のおかほがひところほそおもてになられましたのに、このころはまた頬のあたりがふつくらとしもぶくれにおなりあそばし、それにおくれ毛のひとすぢふたすぢかかりました風情はたとへやうもなくあだめいて、をんなでさへもほれぼれしたと申します。お肌のいろがまつしろでいらつしやいましたのはもとより天品でござりますけれども、ながのとしつき日の眼のとどかぬおくのまに寢雪のやうにとぢこもつておくらしなされ、すきとほるばかりにおなりあそばして、たそがれどきにくらいところでものおもひにしづんでいらつしやるお顏のいろの白さなど、ぞうつと總毛だつやうにおぼえたさうでござります。もつとも物のあやめは、かんのよいめくらにはおほよそ手ざはりで分るものでござりまして、わたくしなども、どんなにいろじろでいらつしやいますかはひとのうはさをきくまでもなくしようちいたしてをりましたが、おなじ白いと申しましても御身分のあるおかたのしろさは又かくべつでござります。ましておくがたは三十路にちかくおなりあそばし、お年をめすにしたがつていよいよ御きりやうがみづぎは立たれ、ようがんますますおんうるはしく、つゆもしたたるばかりのくろかみ、芙蓉のはなのおんよそほひ、そのうへふくよかにお肥えなされたおからだのなよなよとしてえんなることと申したら、やはらかなきぬのおめしものがするするすべりおちるやうでござりまして、きめのこまかさなめらかさはお若いときよりまたひとしほでござりました。それにしてもこれほどのおかたが早くから不緣におなりなされ、つつむにあまる色香をかくしてあぢきないひとりねのゆめをかさねていらつしやるとは、なんといふことか。しんざんの花は野のはなよりもかをりがたかいと申しますが、春はお庭にきて啼くうぐひす、あきは山の端にかたぶく月のひかりよりほかにうかがふもののない玉簾のおくのおすがたを、もし知るひとがありましたら、ひでよし公ならずとも煩腦のほのほをもやしたことでござりませうに、とかくよのなかの廻りあはせはかうしたものでござります。