ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

盲目物語 (3)


のぶなが公はおいちどのや姪御たちをお受けとりになりますと、たいそうおよろこびになりまして「ようふんべつして出て來てくれた」と、ねんごろに仰つしやつて、「あさゐにもあれほどことばをつくして降參をすすめたのに、どこまでもきき入れないのは、あつぱれ名ををしむ武士とみえた、あれを死なすのはじぶんのほんいでないけれども、ゆみやとる身の意地であるからかんにんしてもらひたい、そなたもながのろうじやうでさぞくらうをしたことだらう」と、そこは骨肉のおんあひだがらゆゑ御じやうあいもかくべつで、わけへだてないおものがたりがござりまして、すぐに織田かうづけの守どのへおあづけなされて、よくいたはつてとらせるやうにとの御諚でござりました。

いくさの方は二十七にちのあさからやんでをりましたが、おいちどのをわたしたうへはもはや猶豫することはない、しろをひといきにもみつぶして淺井おやこに腹をきらせるばかりだと、のぶなが公おんみづから京極つぶら尾といふところへおのぼりになつてそうぐんぜいに下知をなされ、ひらぜめにせめおとせとおつしやいましたので、えい、えい、おう、と、寄せ手はすさまじい鬨のこゑをあげて責めにかかつたのでござります。このとき御いんきよ久政公の丸にはぞふへい八百ばかりこもつてをりまして、四方の持ちくちをかためてをりましたけれども、てきは眼にあまる大軍のうへに、しばた修理のすけどのがさきにたつて塀に手をかけ、ひたひたと乘りこんで來られましたので、ごいんきよもいまはこれまでとおぼしめされ、ゐのくちゑちぜんの守どのにしばらく寄せ手をささへさせて、そのまに御しやうがいなされました。御かいしやくは福壽庵どのでござります。鶴松太夫と申す舞のじやうずもをりましたが、いつもお供をおほせつかつてをりましたおなさけにこんども御しやうばんをさせていただきますと申して、おさかづきをいただいて、ごさいごをみとどけてから、ふくじゆ庵どのの介錯をつとめ、じぶんはお座敷よりいちだん下の板じきへさがつて腹をきりましたさうにござります。そのほか井口どの、赤尾與四郞どの、千田うねめのしやうどの、脇坂久ざゑもんどの、みなさま自害なされました。この御いんきよはおとしをめしていらしつたのにお氣のどくなてんまつでござりましたけれども、かんがへてみればすべて御自分がわるいのでござります。かう云ふはめにならないうちに、はやく長政公のおことばにしたがはれて朝倉どのをおみかぎりなされたらようござりましたのに、おだどのの御うんせいをみぬく御がんりきもなく、よしないぎりをおたてになつてあへなくおはてになりましたのは、たれをうらむことがござりませう。そればかりか、かつせんの駈けひき、出陣のしほどきについても、御いんきよらしく引つこんでいらつしやればよいものを、いちいち出しやばつて長政公のごけいりやくをじやまなされ、勝つべきいくさにおくれをとつて、みすみす御運をにがしたこともいくたびだつたでござりませう。おだどのがてんまはじゆん(天魔波旬)のいきほひを持つてをられたからとて、ながまさ公のさいはいにおまかせになつていらしつたら、これほどのことはござりませなんだ。されば淺井のおいへは、一代のすけまさ公、三代のながまさ公、ともにぶさうのめいしやうでいらつしやいましたのに、二代の久政公の御れうけんがつたなく、御思慮があさかつたばつかりにめつばうをまねきました。それをおもへば長政公こそおいたはしうござります。あはよくば信長公にとつてかはりてんがのしおきをなさる御器量をもちながら、おやごのいひつけをおまもりなされて御じぶんのうんせいをおちぢめなされました。わたくしどもが考へましてさへ齒がゆうて齒がゆうて、あきらめきれないのでござりますものを、おくがたのおむねのなかはどれほどでござりましたことか。なれどもそれも御孝心のおふかいせゐでござりましたので、まことにぜひがござりませぬ。

御隱居のまるのおちましたのは二十九にちの午のこくごろでござりまして、それからは、柴田、木下、前田、佐々の手のものどもが一つになつて御ほんまるへおしよせました。ながまさ公はお手まはりの小姓五ひやくばかりできつてでられさんざんにてきをなやましてさつとお引きになりましたので、よせてはくろけむりをたてて無二むさんにせめましたけれども、塀へとりつかうとするものを突きおとしはねおとし、てきを一人も丸のなかへ入れませなんだ。それで二十九にちのよるは寄せ手もせめあぐんできうそくいたしまして、あくる九月ついたちにまたせめてまゐりました。ながまさ公はそのときまで父の御さいごを御存じなく、「下野守どのはどうなされた」と小姓におたづねなされましたところに、「ごいんきよはさくじつ御しやうがいでござります」と申しあげるものがをりましたので、「さうとはゆめにも知らなんだ、それをきくからは此の世になんのみれんがあらう、ちちうへの弔ひがつせんをしていさぎよくおあとを追ふばかりだ」と、巳の刻ごろに二ひやくばかりで切つて出られ、むらがるてきをきりふせきりふせ一とあしもひかずたたかはれましたが、柴田木下のぐんぜいがたうまちくゐ(稻麻竹葦)と取りかこみ、味方はわづか五六十人になりましたので、一文字にかけちらし、御ほんまるへ馳せいらうとなされますうちに、敵は御ほんまるをのつとつて中から門をかためてしまひましたので、御門の左わきにある赤尾美作守どのの屋形へおのがれになりまして、やがてお腹を召されました。御かいしやくは淺井日向守。お供をいたしたひとびとは、日向のかみをはじめとして、なかじましん兵衞、なかじま九郞次郞、きむらたろじらう、木むら與次、淺井おきく、わきざかさすけ、などのかたがたでござります。てきは信長公のおほせをうけて、なんとかしてながまさ公を生けどりにせうとしたのださうでござりますけれども、きこゆる剛將がひつしのはたらきのゆゑにそんなすきはござりませなんだので、あとから屋形へふみこんでおん首ばかりを戴いたのでござります。

いけどりと云へば、あさゐ石見守、赤尾みまさかのかみ、おなじく新兵衞、この三人のかたがたは武運つたなく繩目のはぢをおうけになつて御前へひきすゑられました。そのときのぶなが公が、「そのはう共、しゆじん長政にぎやくしんをおこさせ、としごろひごろようも己をくるしめたな」とおつしやりましたので、石見どのは强情な(じん)でござりますから、「わたくし主人あさゐながまさは織田どののやうな表裏ある大將ではござりませぬ」と申しあげますと、のぶなが公かつと御りつぷくあそばされ、「おのれ、ふかくにも生けどりになるほどの侍として、もののへうりが分るか」と、(やり)のいしづきで石見どののあたまを三度おつきになりました。なれどもひるむけしきもなく、「手足をしばられてゐるものをちやうちやくなされてお腹がいえますか、おん大將のこころがけはちがつたものでござりますな」とにくまれぐちをたたかれましたので、つひにお手うちになりました。美作どのはおとなしくしてをられましたところが、「その方じやくねんのみぎりより武勇のほまれたかく、おにがみのやうにうたはれながらなんとしておくれを取つたるぞ」との仰せに、「とかく老まういたしまして此の通りのしまつでござります」と申され、「いちめいを許して取りたててつかはさう」といふ御諚でござりましたけれども、「このうへはなんの望みもござりませぬ」と申されてひたすらおいとまをねがはれました。「しからばせがれの新兵衞を世話してやらう」とかさねて御ぢやうがござりましたときに、美作どの御子息しんべゑどのをかへりみられ、「いやいや、御辭退申した方がよいぞ、殿にだまされてわるびれてはならぬぞ」と申されましたので、からからとおわらひなされ、「老いぼれめ、己をうたがつてゐるな、そんなに己がうそつきに見えるか」と仰つしやつて、そののちほんたうに新兵衞どのをお取りたてになりました。

小谷のおくがたは(をつと)ながまさ公御しやうがいとおききあそばしてから、一とまにとぢこもられたきりにちにち御回向をあそばしていらつしやいますと、或る日のぶなが公がお見まひにおいでなされ、「たしかそなたには男の子が一人あつたはずだ、その子がたつしやならわたしが引きとつてやういく(養育)をして長政のあとをつがせてやりたいが」と仰つしやるのでござりました。おくがたは最初、兄ぎみのこころをはかりかねて、「(わか)はどうなりましたことやら存じませぬ」と申されましたが、「ながまさこそかたきだけれども子どもになんの罪があらう、わたしには甥になるのだからいとほしうてたづねるのだ」と仰つしやりますので、さてはそれほどにおもつて下さるのかとだんだん御あんどあそばされ、これこれのところにをりますと、萬福丸どののかくれがをおもらしになりました。それでゑちぜんの國つるがごほりへお使者が立ちまして、木村喜內介へ、わかぎみをつれてまゐるやうに仰せつかはされましたけれども、きないのすけは思案をいたし、わかぎみは自分いちぞんを以て斬つてすてましたとおこたへ申しましたところが、その後もさいさいおつかひがござりまして、兄うへがああまで云はれるものをなまじかくしては折角のなさけにそむく、わがみも和子(わこ)のぶじな顏をみたいほどに一日もはやくつれてきておくれと、しきりにおくがたがせつかれるものでござりますから、きないのすけもこころえがたくおもひながら、とてもありかを知られたうへはと、萬福丸どののお供をして、九ぐわつ三日にごうしう木之本へまゐりました。すると木下藤きちらうどのがむかへに出られて若君をうけとられ、のぶなが公へそのむねを言上いたされますと、「その方その子を討ちはたし、くびを串ざしにしてさらしものにしろ」と仰つしやりますので、さすが藤吉郞どのもたうわくいたされ、「それまでのことは」と云はれましたなれども、かへつてお叱りを蒙りまして、よんどころなく御諚のとほりになされました。ながまさ公のお首も、あさくら義景どののお首といつしよに、肉をさらし取つて朱塗りにあそばされ、よくねんの正月、それを折敷(をしき)にすゑてさんがの大名しゆうへおさかなに出されました。のぶなが公も淺井どののためにはたびたびあやふい目におあひなされ、よほどおにくしみが深かつたのでござりませうけれども、もとはと云へば御じぶんの方がせいしを反古になされたのでござります。せめて妹御のおんなげきをさつしておあげなされたら、えんじやのよしみもあるおかたをあれほどになさらないでもようござりましたらうに。とりわけにくしんのなさけをかりてお市どのをあざむかれ、ぐわんぜないお子をくしざしになさるとは、あまりむごたらしいなされかたでござります。されば天正じふねんの夏、ほんのう寺においてひごふにおはてなされましたのも、あけちがぎやくしんばかりではなく、おほくのひとのつもるうらみでござりませう。いんぐわのほどはおそろしうござります。

のちの太閤殿下、きのした藤吉郞どのがりつしんなされましたのも此のころからでござりました。こんどの城ぜめには柴田どのはじめみなみな手柄をきそはれましたなれども、なかについて藤吉郞どのはばつぐんの功をおたてなされ、のぶなが公もななめならずおよろこびになりまして、小谷のおしろと、あさゐ郡と、坂田ごほりのはんぶんと、いぬがみ郡とを所領にくだされ、江北のしゆごとなされました。そのをり藤吉郞どのは、小谷のおしろは小ぜいにてはまもりがたいと仰せられ、わたくしのこきやう長濱へうつられまして、當時あそこは今濱と申してをりましたのを、このとき長濱とおあらためになつたのでござります。

それはとにかく、ひでよし公が小谷のおくがたに懸想(けさう)なされましたのはいつごろからでござりましたか。わたくしはおくがたがお城をおたちのきなされましたとき、「いつしよにつれて行つてやりたいが、いつたんここをおちのびてからたよつておいで」と、有りがたい仰せがござりましたものですから、この身はすでになきものとかくごいたしてをりましたのがまよひのこころをしやうじまして、おのりもののあとからまぎれ出で、かつせんのしじゆうを見とどける迄いちにちふつかは町かたにかくれてをりましたけれども、またおそばをしたうて上野守どのの御陣へあがりましたところ、氣にいりの座頭であるからとおこゑがかりがござりましたので、さいはひにきびしいおとがめもござりませんで、ふたたび御用をつとめてをつたのでござります。されば秀吉公がおこしなされましたをりにもたびたびお次にひかへてをつたのでござりますが、はじめて御たいめんのときは、御前へ出られますとはるかにへいふくされまして、「わたくしが藤吉郞にござります」とうやうやしい御あいさつでござりましたので、おくがたもつつましやかに御ゑしやくを返され、せんぢんの骨折をおねぎらひなされました。ひでよし公は、「わたくし、このたびさせる軍功もござりませぬのに御襃美としてあさゐどのの所領をたまはり、もつたいなくも長政公のおんあとをつぎますことは弓矢とつてのめんぼくでござります、ただこのうへは何事も古きおしおきにしたがつて江北をとりしづめ、亡きおん大將の武ゆうにあやかりたうぞんじます」と申され、「陣中のことゆゑさぞ御不じいうでござりませう、なんぞお手まはりのしなにても御不足のものはござりませぬか、おこころおきなうお申しつけくださりませ」などと、それはそれは如在(じよさい)のないおことばで、おどろくばかりあいそのよいお方でござりました。ことにひめぎみたちにまで何くれと御あいきやうを振りまかれ、御きげんをとられまして、「お(ひい)さまがいちばんの(あね)さまでいらつしやいますか、どれどれ、わたくしに()つこなさりませ」と、お茶茶どのをひざの上へおのせなされおぐしをかいておあげなされて、「おとしはいくつ、おなまへは」などとおたづねになるのでござりました。お茶茶どのははかばかしい御へんじもなさらずにしぶしぶ抱かれていらつしやいましたが、このひとが父御のしろをせめおとした一方の旗がしらかと、をさなごころにもにくくおぼしめしましたものか、ふと秀吉公のかほをおさしなされ、「そなたは猿に似てゐるのかえ」とおつしやりましたものですから、ひでよし公もすこし持てあまされまして、「さやうでござります、わたくしは猿に似てをりますが、お姫さまはお袋さまにそつくりでいらつしやいますな」と申され、はつ、はつ、はつと、わらひにまぎらされました。その後もおいそがしいなかをぬけめなくおみまひにおいでなされ、何やかやとひめぎみたちにまで御しんもつをなされまして、ひとかたならぬおこころぞへでござりましたから、おくがたも、「藤きちらうはたのもしいものぢや」と仰つしやつて、氣をゆるしていらつしやいましたけれども、わたくし、いまからかんがへますのに、お市どのの世にたぐひない御きりやうにはやくも眼をおつけなされ、ひとしれず思ひをよせていらしつたのではござりますまいか。もつとも主人のぶなが公のいもうと()であらせられ、けらいの身ではおよびもつかぬ高嶺(たかね)の花でござりましたからまさかそのときにどうといふおつもりもござりますまいが、なにぶん此のみちにかけましたらゆだんのならぬ秀吉公でござります。みぶんのちがひと申しましても、うゐてんぺんは世のつねのこと、とり分けえいこせいすいのはげしいのは戰國のならはしでござります。さればながい月日のうちにいつかは此のおくがたをと、ひそかにのぞみをおかけなされましたやら、なされませなんだやら、えいゆうがうけつのこころのうちは凡夫にはかりかねますけれども、あながちこれはわたくしの邪推ばかりでもないやうな氣がいたします。