ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

セロ彈きのゴーシュ

歴史的仮名遣いの練習。(字音仮名遣いは別として)「じ/ぢ」「ず/づ」、現代発音の「わ」「い」「う」「え」「お」の文字またはその前の文字が変わることがあるだけなのだが、なかなか自然にできるようにならない。手近に歴史的仮名遣いの『セロ彈きのゴーシュ』のテクストが見当たらないので、どこまで正しく直せたかは不明。この作品に出てくる『愉快な馬車屋』に関連して、Original Dixieland Jass Band の “Lively Stable Blues” (1917) と中野忠晴の『陽氣な馬車屋』(1936) も聴いた。

セロ彈きのゴーシュ
宮澤賢治 

ゴーシュは町の活動寫眞館でセロを彈く係りでした。けれどもあんまり上手でないといふ評判でした。上手でないどころではなく實は仲間の樂手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも樂長にいぢめられるのでした。
ひるすぎみんなは樂屋に圓くならんで今度の町の音樂會へ出す第六交響曲の練習をしてゐました。
トランペットは一生けん命歌ってゐます。
ヴァイオリンも二いろ風のやうに鳴ってゐます。
クラリネットもボーボーとそれに手傳ってゐます。
ゴーシュも口をりんと結んで眼を皿のやうにして樂譜を見つめながらもう一心に彈いてゐます。
にはかにぱたっと樂長が兩手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。樂長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテヽ テヽヽイ、こゝからやり直し。はいっ。」
みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。ゴーシュは顏をまっ赤にして額に汗を出しながらやっといま云はれたところを通りました。ほっと安心しながら、つゞけて彈いてゐますと樂長がまた手をぱっと拍ちました。
「セロっ。絲が合はない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを敎へてまでゐるひまはないんだがなあ。」
みんなは氣の毒さうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込んだりじぶんの樂器をはじいて見たりしてゐます。ゴーシユはあわてゝ絲を直しました。これはじつはゴーシユも惡いのですがセロもずいぶん惡いのでした。
「今の前の小節から。はいっ。」
みんなはまたはじめました。ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなり進みました。いゝあんばいだと思ってゐると樂長がおどすやうな形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかとゴーシュはどきっとしましたがありがたいことにはこんどは別の人でした。ゴーシュはそこでさっきじぶんのときみんながしたやうにわざとじぶんの譜へ眼を近づけて何か考へるふりをしてゐました。
「ではすぐ今の次。はいっ。」
そらと思って彈き出したかと思ふといきなり樂長が足をどんと踏んでどなり出しました。
「だめだ。まるでなってゐない。このへんは曲の心臟なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音樂を專門にやってゐるぼくらがあの金沓鍛冶(かなぐつかぢ)だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情といふことがまるでできてない。怒るも喜ぶも感情といふものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の樂器と合はないもなあ。いつでもきみだけとけた靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくやうなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝あるわが金星音樂團がきみ一人のために惡評をとるやうなことでは、みんなへもまったく氣の毒だからな。では今日は練習はこゝまで、休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれ給へ。」 
みんなはおじぎをして、それからたばこをくはへてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。ゴーシュはその粗末な箱みたいなセロをかゝへて壁の方へ向いて口をまげてぼろぼろ泪をこぼしましたが、氣をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしづかにもいちど彈きはじめました。
その晚遲くゴーシュは何か巨きな黑いものをしょってじぶんの家へ歸ってきました。家といってもそれは町はづれの川ばたにあるこはれた水車小屋で、ゴーシュはそこにたった一人ですんでゐて午前は小屋のまはりの小さな畑でトマトの枝をきったり甘藍(キャベジ)の蟲をひろったりしてひるすぎになるといつも出て行ってゐたのです。ゴーシュがうちへ入ってあかりをつけるとさっきの黑い包みをあけました。それは何でもない。あの夕方のごつごつしたセロでした。ゴーシュはそれを床の上にそっと置くと、いきなり棚からコップをとってバケツの水をごくごくのみました。
それから頭を一つふって椅子へかけるとまるで虎みたいな勢でひるの譜を彈きはじめました。譜をめくりながら彈いては考へ考へては彈き一生けん命しまひまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもがうがうがうがう彈きつゞけました。
夜中もとうにすぎてしまひはもうじぶんが彈いてゐるのかもわからないやうになって顏もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄い顏つきになりいまにも倒れるかと思ふやうに見えました。
そのとき誰かうしろの()をとんとんと叩くものがありました。
「ホーシュ君か。」ゴーシュはねぼけたやうに叫びました。ところがすうと扉を押してはひって來たのはいまゝで五六ぺん見たことのある大きな三毛猫でした。
ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重さうに持って來てゴーシュの前におろして云ひました。
「あゝくたびれた。なかなか運搬はひどいやな。」
「何だと」ゴーシユがきゝました。
「これおみやです。たべてください。」三毛猫が云ひました。
ゴーシユはひるからのむしゃくしゃを一ぺんにどなりつけました。
「誰がきさまにトマトなど持ってこいと云った。第一おれがきさまらのもってきたものなど食ふか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをむしって。いまゝでもトマトの莖をかじったりけちらしたりしたのはおまへだらう。行ってしまへ。ねこめ。」
すると猫は肩をまるくして眼をすぼめてはゐましたが口のあたりでにやにやわらって云ひました。
「先生、さうお怒りになっちゃ、おからだにさはります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「生意氣なことを云ふな。ねこのくせに。」
セロ彈きはしゃくにさはってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考へました。
「いやご遠慮はありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音樂をきかないとねむられないんです。」
「生意氣だ。生意氣だ。生意氣だ。」
ゴーシユはすっかりまっ赤になってひるま樂長のしたやうに足ぶみしてどなりましたがにはかに氣を變へて云ひました。
「では彈くよ。」
ゴーシュは何と思ったか扉にかぎをかって窓もみんなしめてしまひ、それからセロをとりだしてあかしを消しました。すると外から二十日過ぎの月のひかりが(へや)のなかへ半分ほどはひってきました。
「何をひけと。」
「トロメライ、ロマチックシューマン作曲。」猫は口を()いて濟まして云ひました。
「さうか。トロメライといふのはかういふのか。」
セロ彈きは何と思ったかまづはんけちを引きさいてじぶんの耳の穴へぎっしりつめました。それからまるで嵐のやうな勢で「印度の虎狩」といふ譜を彈きはじめました。
すると猫はしばらく首をまげて聞いてゐましたがいきなりパチパチパチッと眼をしたかと思ふとぱっと扉の方へ飛びのきました。そしていきなりどんと扉へからだをぶっつけましたが扉はあきませんでした。猫はさあこれはもう一生一代の失敗をしたといふ風にあわてだして眼や額からぱちぱち火花を出しました。するとこんどは口のひげからも鼻からも出ましたから猫はくすぐったがってしばらくくしゃみをするやうな顏をしてそれからまたさあかうしてはゐられないぞといふやうにはせあるきだしました。ゴーシュはすっかり面白くなってますます勢よくやり出しました。
「先生もうたくさんです。たくさんですよ。ご生ですからやめてください。これからもう先生のタクトなんかとりませんから。」
「だまれ。これから虎をつかまへる所だ。」
猫はくるしがってはねあがってまはったり壁にからだをくっつけたりしましたが壁についたあとはしばらく靑くひかるのでした。しまひは猫はまるで風車のやうにぐるぐるぐるぐるゴーシユをまはりました。
ゴーシユもすこしぐるぐるして來ましたので、
「さあこれで許してやるぞ」と云ひながらやうやうやめました。
すると猫もけろりとして
「先生、こんやの演奏はどうかしてますね。」と云ひました。
セロ彈きはまたぐっとしゃくにさはりましたが何氣ない風で卷たばこを一本だして口にくはへそれからマッチを一本とって
「どうだい。工合をわるくしないかい。舌を出してごらん。」
猫はばかにしたやうに尖った長い舌をベロリと出しました。
「はゝあ、少し荒れたね。」セロ彈きは云ひながらいきなりマッチを舌でシュッとすってじぶんのたばこへつけました。さあ猫は愕いたの何の舌を風車のやうにふりまはしながら入り口の扉へ行って頭でどんとぶっつかってはよろよろとしてまた戾って來てどんとぶっつかってはよろよろまた戾って來てまたぶっつかってはよろよろにげみちをこさへようとしました。
ゴーシュはしばらく面白さうに見てゐましたが
「出してやるよ。もう來るなよ。ばか。」 セロ彈きは扉をあけて猫が風のやうに(かや)のなかを走って行くのを見てちょっとわらひました。それから、やっとせいせいしたといふやうにぐっすりねむりました。
次の晚もゴーシュがまた黑いセロの包みをかついで歸ってきました。そして水をごくごくのむとそっくりゆふべのとほりぐんぐんセロを彈きはじめました。十二時は間もなく過ぎ一時もすぎ二時もすぎてもゴーシユはまだやめませんでした。それからもう何時だかもわからず彈いてゐるかもわからずがうがうやってゐますと誰か屋根裏をこつこつと叩くものがあります。
「猫、まだこりないのか。」
ゴーシュが叫びますといきなり天井の穴からぽろんと音がして一疋の灰いろの鳥が降りて來ました。床へとまったのを見るとそれはくゎくこうでした。
「鳥まで來るなんて。何の用だ。」ゴーシュが云ひました。
「音樂を敎はりたいのです。」
くゎくこう鳥はすまして云ひました。
ゴーシュは笑って
「音樂だと。おまえの歌は、くゎくこう、くゎくこうといふだけぢゃあないか。」
するとくゎくこうが大へんまじめに
「えゝ、それなんです。けれどもむづかしいですからねえ。」と云ひました。
「むづかしいもんか。おまへたちのはたくさん啼くのがひどいだけで、なきやうは何でもないぢゃないか。」
「ところがそれがひどいんです。たとへばくゎくこうとかうなくのとくゎくこうとかうなくのとでは聞いてゐてもよほどちがふでせう。」
「ちがはないね。」
「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならくゎくこうと一萬云へば一萬みんなちがふんです。」
「勝手だよ。そんなにわかってるなら何もおれの處へ來なくてもいゝではないか。」
「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。」
「ドレミファもくそもあるか。」
「えゝ、外國へ行く前にぜひ一度いるんです。」
「外國もくそもあるか。」
「先生どうかドレミファを敎へてください。わたしはついてうたひますから。」
「うるさいなあ。そら三べんだけ彈いてやるからすんだらさっさと歸るんだぞ。」 
ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと絲を合はせてドレミファソラシドとひきました。するとくゎくこうはあわてゝ羽をばたばたしました。
「ちがひます、ちがひます。そんなんでないんです。」
「うるさいなあ。ではおまへやってごらん。」
「かうですよ。」くゎくこうはからだをまへに曲げてしばらく構へてから
「くゎくこう」と一つなきました。
「何だい。それがドレミファかい。おまへたちには、それではドレミファも第六交響樂も同じなんだな。」
「それはちがひます。」
「どうちがふんだ。」
「むづかしいのはこれをたくさん續けたのがあるんです。」
「つまりかうだらう。」セロ彈きはまたセロをとって、くゎくこうくゎくこうくゎくこうくゎくこうくゎくこうとつゞけてひきました。
するとくゎくこうはたいへんよろこんで途中からくゎくこうくゎくこうくゎくこうくゎくこうとついて叫びました。それももう一生けん命からだをまげていつまでも叫ぶのです。
ゴーシュはたうとう手が痛くなって
「こら、いゝかげんにしないか。」と云ひながらやめました。するとくゎくこうは殘念さうに眼をつりあげてまだしばらくないてゐましたがやっと
「……くゎくこうかくうかっかっかっかっか」と云ってやめました。
ゴーシュがすっかりおこってしまって、
「こらとり、もう用が濟んだらかへれ」と云ひました。
「どうかもういっぺん彈いてください。あなたのはいゝやうだけれどもすこしちがふんです。」
「何だと、おれがきさまに敎はってるんではないんだぞ。歸らんか。」
「どうかたったもう一ぺんおねがひです。どうか。」くゎくこうは頭を何べんもこん〳〵下げました。
「ではこれっきりだよ。」
ゴーシュは弓をかまへました。くゎくこうは「くっ」とひとつ息をして
「ではなるべく永くおねがひいたします。」といってまた一つおじぎをしました。
「いやになっちまふなあ。」ゴーシュはにが笑ひしながら彈きはじめました。するとくゎくこうはまたまるで本氣になって「くゎくこうくゎくこうくゎくこう」とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。ゴーシュははじめはむしゃくしゃしてゐましたがいつまでもつゞけて彈いてゐるうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんたうのドレミファにはまってゐるかなといふ氣がしてきました。どうも彈けば彈くほどくゎくこうの方がいゝやうな氣がするのでした。
「えいこんなばかなことしてゐたらおれは鳥になってしまふんぢゃないか。」とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。
するとくゎくこうはどしんと頭を叩かれたやうにふらふらっとしてそれからまたさっきのやうに
「くゎくこうくゎくこうくゎくこうかっかっかっかっかっ」と云ってやめました。それから恨めしさうにゴーシュを見て
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意氣地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と云ひました。
「何を生意氣な。こんなばかなまねをいつまでしてゐられるか。もう出て行け。見ろ。夜があけるんぢゃないか。」ゴーシユは窓を指さしました。
東のそらがぼうっと銀いろになってそこをまっ黑な雲が北の方へどんどん走ってゐます。
「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」
くゎくこうはまた頭を下げました。
「默れっ。いゝ氣になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまふぞ。」ゴーシユはどんと床をふみました。
するとくゎくこうはにはかにびっくりしたやうにいきなり窓をめがけて飛び立ちました。そして硝子にはげしく頭をぶっつけてばたっと下へ落ちました。
「何だ、硝子へばかだなあ。」ゴーシュはあわてゝ立って窓をあけようとしましたが元來この窓はそんなにいつでもする〳〵開く窓ではありませんでした。ゴーシュが窓のわくをしきりにがたがたしてゐるうちにまたくゎくこうがばっとぶっつかって下へ落ちました。見ると(くちばし)のつけねからすこし血が出てゐます。
「いまあけてやるから待ってゐろったら。」ゴーシュがやっと二寸ばかり窓をあけたとき、くゎくこうは起きあがって何が何でもこんどこそといふやうにじっと窓の向ふの東のそらをみつめて、あらん限りの力をこめた風でぱっと飛びたちました。もちろんこんどは前よりひどく硝子につきあたってくゎくこうは下へ落ちたまゝしばらく身動きもしませんでした。つかまへてドアから飛ばしてやらうとゴーシュが手を出しましたらいきなりくゎくこうは眼をひらいて飛びのきました。そしてまたガラスへ飛びつきさうにするのです。ゴーシュは思はず足を上げて窓をばっとけりました。ガラスは二三枚物すごい音して碎け窓はわくのまゝ外へ落ちました。そのがらんとなった窓のあとをくゎくこうが矢のやうに外へ飛びだしました。そしてもうどこまでもどこまでもまっすぐに飛んで行ってたうとう見えなくなってしまひました。ゴーシュはしばらく呆れたやうに外を見てゐましたが、そのまゝ倒れるやうに室のすみへころがって睡ってしまひました。
次の晚もゴーシュは夜中すぎまでセロを彈いてつかれて水を一杯のんでゐますと、また扉をこつこつ叩くものがあります。
今夜は何が來てもゆふべのくゎくこうのやうにはじめからおどかして追ひ拂ってやらうと思ってコップをもったまゝ待ち構へて居りますと、扉がすこしあいて一疋の狸の子がはひってきました。ゴーシュはそこでその扉をもう少し廣くひらいて置いてどんと足をふんで、
「こら、狸、おまへは狸汁といふことを知ってゐるかっ。」とどなりました。すると狸の子はぼんやりした顏をしてきちんと床へ座ったまゝどうもわからないといふやうに首をまげて考へてゐましたが、しばらくたって
「狸汁ってぼく知らない。」と云ひました。ゴーシュはその顏を見て思はず吹き出さうとしましたが、まだ無理に恐い顏をして、
「では敎へてやらう。狸汁といふのはな。おまえのやうな狸をな、キャベジや(しほ)とまぜてくたくたと煮ておれさまの食ふやうにしたものだ。」と云ひました。すると狸の子はまたふしぎさうに
「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいゝ人でこはくないから行って習へと云ったよ。」と云ひました。そこでゴーシュもたうとう笑ひ出してしまひました。
「何を習へと云ったんだ。おれはいそがしいんぢゃないか。それに睡いんだよ。」
狸の子は俄に勢がついたやうに一足前へ出ました。
「ぼくは小太鼓の係りでねえ。セロへ合はせてもらって來いと云はれたんだ。」
「どこにも小太鼓がないぢゃないか。」
「そら、これ」狸の子はせなかから棒きれを二本出しました。
「それでどうするんだ。」
「ではね、『愉快な馬車屋』を彈いてください。」
「なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。」
「あゝこの譜だよ。」狸の子はせなかからまた一枚の譜をとり出しました。ゴーシュは手にとってわらひ出しました。
「ふう、變な曲だなあ。よし、さあ彈くぞ。おまへは小太鼓を叩くのか。」ゴーシュは狸の子がどうするのかと思ってちらちらそっちを見ながら彈きはじめました。
すると狸の子は棒をもってセロの駒の下のところを拍子をとってぽんぽん叩きはじめました。それがなかなかうまいので彈いてゐるうちにゴーシュはこれは面白いぞと思ひました。
おしまひまでひいてしまふと狸の子はしばらく首をまげて考へました。
それからやっと考へついたといふやうに云ひました。
「ゴーシュさんはこの二番目の絲をひくときはきたいに遲れるねえ。なんだかぼくがつまづくやうになるよ。」
ゴーシュははっとしました。たしかにその絲はどんなに手早く彈いてもすこしたってからでないと音が出ないやうな氣がゆふべからしてゐたのでした。
「いや、さうかもしれない。このセロは惡いんだよ。」とゴーシュはかなしさうに云ひました。すると狸は氣の毒さうにしてまたしばらく考へてゐましたが
「どこが惡いんだらうなあ。ではもう一ぺん彈いてくれますか。」
「いゝとも彈くよ。」ゴーシュははじめました。狸の子はさっきのやうにとんとん叩きながら時々頭をまげてセロに耳をつけるやうにしました。そしておしまひまで來たときは今夜もまた東がぼうと明るくなってゐました。
「あゝ夜が明けたぞ。どうもありがたう。」狸の子は大へんあわてゝ譜や棒きれをせなかへしょってゴムテープでぱちんととめておじぎを二つ三つすると急いで外へ出て行ってしまひました。
ゴーシュはぼんやりしてしばらくゆふべのこはれたガラスからはひってくる風を吸ってゐましたが、町へ出て行くまで睡って元氣をとり戾さうと急いでねどこへもぐり込みました。
次の晚もゴーシュは夜通しセロを彈いて明方近く思はずつかれて樂譜をもったまゝうとうとしてゐますとまた誰か扉をこつこつと叩くものがあります。それもまるで聞えるか聞えないかの位でしたが每晚のことなのでゴーシュはすぐ聞きつけて「おはひり。」と云ひました。すると戶のすきまからはひって來たのは一ぴきの野ねずみでした。そして大へんちひさなこどもをつれてちょろちょろとゴーシュの前へ步いてきました。そのまた野ねずみのこどもときたらまるでけしごむのくらゐしかないのでゴーシュはおもはずわらひました。すると野ねずみは何をわらはれたらうといふやうにきょろきょろしながらゴーシュの前に來て、靑い栗の實を一つぶ前においてちゃんとおじぎをして云ひました。
「先生、この兒があんばいがわるくて死にさうでございますが先生お慈悲になほしてやってくださいまし。」
「おれが醫者などやれるもんか。」ゴーシュはすこしむっとして云ひました。すると野ねずみのお母さんは下を向いてしばらくだまってゐましたがまた思ひ切ったやうに云ひました。
「先生、それはうそでございます、先生は每日あんなに上手にみんなの病氣をなほしておいでになるではありませんか。」
「何のことだかわからんね。」
「だって先生先生のおかげで、兎さんのおばあさんもなほりましたし狸さんのお父さんもなほりましたしあんな意地惡のみゝづくまでなほしていたゞいたのにこの子ばかりお助けをいたゞけないとはあんまり情ないことでございます。」
「おいおい、それは何かの間ちがひだよ。おれはみゝづくの病氣なんどなほしてやったことはないからな。もっとも狸の子はゆふべ來て樂隊のまねをして行ったがね。はゝん。」ゴーシュは呆れてその子ねずみを見おろしてわらひました。
すると野鼠のお母さんは泣きだしてしまひました。
「あゝこの兒はどうせ病氣になるならもっと早くなればよかった。さっきまであれ位がうがうと鳴らしておいでになったのに、病氣になるといっしょにぴたっと音がとまってもうあとはいくらおねがひしても鳴らしてくださらないなんて。何てふしあはせな子どもだらう。」
ゴーシュはびっくりして叫びました。
「何だと、ぼくがセロを彈けばみゝづくや兎の病氣がなほると。どういふわけだ。それは。」
野ねずみは眼を片手でこすりこすり云ひました。
「はい、こゝらのものは病氣になるとみんな先生のおうちの床下にはひって(なほ)すのでございます。」
「すると療るのか。」
「はい。からだ中とても血のまはりがよくなって大へんいゝ氣持ちですぐ療る方もあればうちへ歸ってから療る方もあります。」
「あゝさうか。おれのセロの音ががうがうひゞくと、それがあんまの代りになつておまへたちの病氣がなほるといふのか。よし。わかったよ。やってやらう。」ゴーシュはちょっとギウギウと絲を合せてそれからいきなりのねずみのこどもをつまんでセロの孔から中へ入れてしまひました。
「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院でもさうですから。」おっかさんの野ねずみはきちがひのやうになってセロに飛びつきました。
「おまへさんもはひるかね。」セロ彈きはおっかさんの野ねずみをセロの孔からくゞしてやらうとしましたが顏が半分しかはひりませんでした。
野ねずみはばたばたしながら中のこどもに叫びました。
「おまへそこはいゝかい。落ちるときいつも敎へるやうに足をそろへてうまく落ちたかい。」
「いゝ。うまく落ちた。」こどものねずみはまるで蚊のやうな小さな聲でセロの底で返事しました。
「大丈夫さ。だから泣き聲出すなといふんだ。」ゴーシュはおっかさんのねずみを下におろしてそれから弓をとって何とかラプソディとかいふものをがうがうがあがあ彈きました。するとおっかさんのねずみはいかにも心配さうにその音の工合をきいてゐましたがたうとうこらへ切れなくなったふうで
「もう澤山です。どうか出してやってください。」と云ひました。
「なあんだ、これでいゝのか。」ゴーシュはセロをまげて孔のところに手をあてゝ待つてゐましたら間もなくこどものねずみが出てきました。ゴーシュは、だまってそれをおろしてやりました。見るとすっかり目をつぶってぶるぶるぶるぶるふるへてゐました。
「どうだったの。いゝかい。氣分は。」
こどものねずみはすこしもへんじもしないでまだしばらく眼をつぶったまゝぶるぶるぶるぶるふるへてゐましたがにはかに起きあがって走りだした。
「あゝよくなったんだ。ありがたうございます。ありがたうございます。」おっかさんのねずみもいっしょに走ってゐましたが、まもなくゴーシュの前に來てしきりにおじぎをしながら
「ありがたうございますありがたうございます」と十ばかり云ひました。
ゴーシュは何がなかはいさうになって
「おい、おまへたちはパンはたべるのか。」ときゝました。
すると野鼠はびっくりしたやうにきょろきょろあたりを見まはしてから
「いえ、もうおパンといふものは小麥の粉をこねたりむしたりしてこしらへたものでふくふく膨らんでゐておいしいものなさうでございますが、さうでなくても私どもはおうちの戶棚へなど參つたこともございませんし、ましてこれ位お世話になりながらどうしてそれを運びになんど參れませう。」と云ひました。
「いや、そのことではないんだ。たゞたべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の惡いこどもへやるからな。」
ゴーシュはセロを床へ置いて戶棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。
野ねずみはもうまるでばかのやうになって泣いたり笑ったりおじぎをしたりしてから大じさうにそれをくはへてこどもをさきに立てゝ外へ出て行きました。
「あゝゝ。鼠と話するのもなかなかつかれるぞ。」ゴーシュはねどこへどっかり倒れてすぐぐうぐうねむってしまひました。
それから六日目の晚でした。金星音樂團の人たちは町の公會堂のホールの裏にある控室へみんなぱっと顏をほてらしてめいめい樂器をもって、ぞろぞろホールの舞臺から引きあげて來ました。首尾よく第六交響曲を仕上げたのです。ホールでは拍手の音がまだ嵐のやうに鳴って居ります。樂長はポケットへ手をつっ込んで拍手なんかどうでもいゝといふやうにのそのそみんなの間を步きまはってゐましたが、じつはどうして嬉しさでいっぱいなのでした。みんなはたばこをくはへてマッチをすったり樂器をケースへ入れたりしました。
ホールはまだぱちぱち手が鳴ってゐます。それどころではなくいよいよそれが高くなって何だかこはいやうな手がつけられないやうな音になりました。大きな白いリボンを胸につけた司會者がはひって來ました。
「アンコールをやってゐますが、何かみじかいものでもきかせてやってくださいませんか。」
すると樂長がきっとなって答へました。「いけませんな。かういふ大物のあとへ何を出したってこっちの氣の濟むやうには行くもんでないんです。」
「では樂長さん出て一寸挨拶してください。」
「だめだ。おい、ゴーシュ君、何か出て彈いてやってくれ。」
「わたしがですか。」ゴーシュは呆氣にとられました。
「君だ、君だ。」ヴァイオリンの一番の人がいきなり顏をあげて云ひました。
「さあ出て行きたまへ。」樂長が云ひました。みんなもセロをむりにゴーシュに持たせて扉をあけるといきなり舞臺へゴーシユを押し出してしまひました。ゴーシュがその孔のあいたセロをもってじつに困ってしまって舞臺へ出るとみんなはそら見ろといふやうに一そうひどく手を叩きました。わあと叫んだものもあるやうでした。
「どこまでひとをばかにするんだ。よし見てゐろ。印度の虎狩をひいてやるから。」ゴーシュはすっかり落ちついて舞臺のまん中へ出ました。
それからあの猫の來たときのやうにまるで怒った象のやうな勢で虎狩りを彈きました。ところが聽衆はしいんとなって一生けん命聞いてゐます。ゴーシュはどんどん彈きました。猫が切ながってぱちぱち火花を出したところも過ぎました。扉へからだを何べんもぶっつけた所も過ぎました。
曲が終るとゴーシュはもうみんなの方などは見もせずちゃうどその猫のやうにすばやくセロをもって樂屋へ遁げ込みました。すると樂屋では樂長はじめ仲間がみんな火事にでもあったあとのやうに眼をじっとしてひっそりとすわり込んでゐます。ゴーシュはやぶれかぶれだと思ってみんなの間をさっさとあるいて行って向ふの長椅子へどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。
するとみんなが一ぺんに顏をこっちへ向けてゴーシュを見ましたがやはりまじめでべつにわらってゐるやうでもありませんでした。
「こんやは變な晚だなあ。」
ゴーシユは思ひました。ところが樂長は立って云ひました。
「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもこゝではみんなかなり本氣になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やらうと思へばいつでもやれたんぢゃないか、君。」
仲間もみんな立って來て「よかったぜ」とゴーシユに云ひました。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな。」樂長が向ふで云ってゐました。
その晚遲くゴーシユは自分のうちへ歸って來ました。
そしてまた水をがぶがぶ呑みました。それから窓をあけていつかくゎくこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「あゝくゎくこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんぢゃなかったんだ。」と云ひました。