歴史的仮名遣いの練習の続き。「エ段」の拗長音「キョウ、ショウ、チョウ、……」がこの例文ではたくさん出てきた。以下、二種類の異なるあらわし方をまとめておく。二番目のあらわし方をするのは漢音由来の表記である。
第一番目:
妙(めう)に、何疊(でふ)、敎師(けうし)、肖像(せうざう)、調子(てうし)、料簡(れうけん)、御座いませうか、表情(へうじやう)、駝鳥(だてう)
※ 例文以外だと、
夫婦(めうと)、茗荷(めうが)、蝶(てふ)、手水(てうづ)、今日(けふ)、豹(へう)、瓢箪(へうたん)、不調法(ぶてうはふ)、卑怯(ひけふ)、料理(れうり)、芭蕉(ばせう)、小児(せうに)
第二番目:
天長節(てんちやうせつ)、以上(いじやう)、領分(りやうぶん)、正面(しやうめん)、病院(びやうゐん)、表情(へうじやう)、眞砂町(まさごちやう)、尋常(じんじやう)、障子(しやうじ)、兩手(りやうて)
※ 例文以外だと、
銀杏(いちゃう)、丁度(ちやうど)、泥鰌(どぢやう)、生姜(しやうが)、桔梗(ききやう)、精進(しやうじん)、頂上(ちやうじやう)、東京(とうきやう)、お嬢さん(おぢやうさん)
《以下、『三四郞』(夏目漱石作) の例文》
翌日は約束だから、天長節にも拘らず、例刻に起きて、學校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三號を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。
玄關の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと鉤の手に座敷がある。座敷の後が茶の間で、茶の間の向ふが勝手、下女部屋と順に竝んでゐる。外に二階がある。但し何疊だか分らない。
三四郞は掃除を賴まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。むろん奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨つべきものも見當らない。强ひて捨てれば疊建具位なものだと考へながら、雨戶丈を明けて、座敷の椽側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。
大きな百日紅がある。然し是は根が隣にあるので、幹の半分以上が橫に杉垣から、此方の領分を冒してゐる丈である。大きな櫻がある。これは慥に垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往來へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊とみえて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。氣の毒な樣な庭である。たゞ土丈は平らで、肌理が細かで甚だ美しい。三四郞は土を見てゐた。實際土を見る樣に出來た庭である。
そのうち高等學校で天長節の式の始まる號鐘が鳴り出した。三四郞は號鐘を聞きながら九時が來たんだらうと考へた。何もしないでゐても惡いから、櫻の枯葉でも掃かうかしらんと漸く氣が附いた時、また箒がないといふ事を考へ出した。また椽側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戶がすうと明いた。さうして思ひも寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。
二方は生垣で仕切つてある。四角な庭は十坪に足りない。三四郞は此狹い圍の中に立つた池の女を見るや否や、忽ち悟つた。──花は必ず剪つて、甁裏に眺むべきものである。
此時三四郞の腰は椽側を離れた。女は折戶を離れた。
「失禮で御座いますが……」
「失禮で御座いますが……」
女は此句を冒頭に置いて會釋した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顏は決して下げない。會釋しながら、三四郞を見詰めてゐる。女の咽喉が正面から見ると長く延びた。同時に其眼が三四郞の眸に映つた。
二三日前三四郞は美學の敎師からグルーズの畫を見せてもらつた。其時美學の敎師が、此人の畫いた女の肖像は悉くヺラプチユアスな表情に富んでゐると說明した。ヺラプチユアス!池の女の此時の目附を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艷なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髓に徹する訴へ方である。甘いものに堪へ得る程度を超えて、烈しい刺戟と變ずる訴へ方である。甘いと云はんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなるほどに殘酷な目附である。しかも此女にグルーズの畫と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。
「廣田さんの御移轉になるのは、此方で御座いませうか」
「はあ、此處です」
「廣田さんの御移轉になるのは、此方で御座いませうか」
「はあ、此處です」
女の聲と調子に較べると、三四郞の答は頗るぶつきら棒である。三四郞も氣が附いてゐる。けれども外に云ひ樣がなかつた。
「まだ御移りにならないんで御座いますか」女の言葉は明確してゐる。普通の樣に後を濁さない。
「まだ來ません。もう來るでせう」
「まだ御移りにならないんで御座いますか」女の言葉は明確してゐる。普通の樣に後を濁さない。
「まだ來ません。もう來るでせう」
女はしばし逡巡つた。手に大きな籃を提げてゐる。女の着物は例によつて、分らない。たゞ何時もの樣に光らない丈が眼についた。地が何だかぶつ〴〵してゐる。夫に縞だか模樣だかある。その模樣が如何にも出鱈目である。
上から櫻の葉が時々落ちて來る。其一つが籃の蓋の上に乘つた。乘つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包んだ。女は秋の中に立つてゐる。
「あなたは……」
「あなたは……」
風が隣へ越した時分、女が三四郞に聞いた。
「掃除に賴まれて來たのです」と云つたが、現に腰を掛てぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郞は自分でも可笑しくなつた。すると女も笑ひながら、
「ぢや私も少し御待ち申しませうか」といつた。其云ひ方が三四郞に許諾を求める樣に聞えたので、三四郞は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郞の料簡では、「あゝ、御待ちなさい」を略した積りである。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郞は仕方がないから、
「あなたは……」と向ふで聞いた樣なことを此方からも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帶の間から、一枚の名刺を出して、三四郞に吳れた。
「掃除に賴まれて來たのです」と云つたが、現に腰を掛てぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郞は自分でも可笑しくなつた。すると女も笑ひながら、
「ぢや私も少し御待ち申しませうか」といつた。其云ひ方が三四郞に許諾を求める樣に聞えたので、三四郞は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郞の料簡では、「あゝ、御待ちなさい」を略した積りである。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郞は仕方がないから、
「あなたは……」と向ふで聞いた樣なことを此方からも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帶の間から、一枚の名刺を出して、三四郞に吳れた。
名刺には里見美禰子とあつた。本鄕眞砂町だから谷を越すとすぐ向ふである。三四郞が此名刺を眺めてゐる間に、女は椽に腰を卸ろした。
「あなたには御目に掛かりましたな」と名刺を袂へ入れた三四郞が顏を擧げた。
「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方を向いた。
「まだある」
「それから池の端で……」と女はすぐ云つた。能く覺えてゐる。三四郞はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、「どうも失禮致しました」と句切りをつけたので、三四郞は、
「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。兩人は櫻の枝を見てゐた。梢に蟲の食つた樣な葉が僅かばかり殘つてゐる。引越しの荷物は中々遣つて來ない。
「何か先生に御用なんですか」
「あなたには御目に掛かりましたな」と名刺を袂へ入れた三四郞が顏を擧げた。
「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方を向いた。
「まだある」
「それから池の端で……」と女はすぐ云つた。能く覺えてゐる。三四郞はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、「どうも失禮致しました」と句切りをつけたので、三四郞は、
「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。兩人は櫻の枝を見てゐた。梢に蟲の食つた樣な葉が僅かばかり殘つてゐる。引越しの荷物は中々遣つて來ない。
「何か先生に御用なんですか」
三四郞は突然かう聞いた。高い櫻の枯枝を餘念なく眺めて居た女は、急に三四郞の方を振り向く。あら喫驚した、苛いわ、といふ顏附であつた。然し答は尋常である。
「私も御手傳ひに賴まれました」
「私も御手傳ひに賴まれました」
三四郞は此時始めて氣が附いて見ると、女の腰を掛てゐる椽に砂が一杯たまつてゐる。
「砂で大變だ。着物が汚れます」
「えゝ」と左右を眺めた限りである。腰を上げない。しばらく椽を見廻した眼を、三四郞に移すや否や、
「掃除はもうなすつたんですか」と聞いた。笑つてゐる。三四郞は其笑ひの中に馴れ易いあるものを認めた。
「まだ遣らんです」
「御手傳ひをして、一所に始めませうか」
「砂で大變だ。着物が汚れます」
「えゝ」と左右を眺めた限りである。腰を上げない。しばらく椽を見廻した眼を、三四郞に移すや否や、
「掃除はもうなすつたんですか」と聞いた。笑つてゐる。三四郞は其笑ひの中に馴れ易いあるものを認めた。
「まだ遣らんです」
「御手傳ひをして、一所に始めませうか」
三四郞はすぐに立つた。女は動かない。腰を掛けた儘、箒やハタキの在家を聞く。三四郞は、たゞ空手で來たのだから、どこにもない、何なら通りへ行つて買つて來ようかと聞くと、それは徒費だから、隣で借りる方が好からうと云ふ。三四郞はすぐ隣へ行つた。早速箒とハタキと、それから馬尻と雜巾迄借りて急いで歸つてくると、女は依然として故の所へ腰をかけて、高い櫻の枝を眺めてゐた。
「あつて……」と一口云つた丈である。
「あつて……」と一口云つた丈である。
三四郞は箒を肩へ擔いで、馬尻を右の手へぶら下げて「えゝありました」と當り前の事を答へた。
女は白足袋の儘砂だらけの椽側へ上がつた。あるくと細い足の痕が出來る。袂から白い前垂を出して帶の上から締めた。其前垂の緣がレースの樣に縢つてある。掃除をするには勿體ない程綺麗な色である。女は箒を取つた。
「一旦掃き出しませう」と云ひながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へ擔いだ。綺麗な手が二の腕まで出た。擔いだ袂の端からは美しい襦袢の袖が見える。茫然として立つてゐた三四郞は、突然馬尻を鳴らして勝手口へ廻つた。
「一旦掃き出しませう」と云ひながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へ擔いだ。綺麗な手が二の腕まで出た。擔いだ袂の端からは美しい襦袢の袖が見える。茫然として立つてゐた三四郞は、突然馬尻を鳴らして勝手口へ廻つた。
美禰子が掃くあとを、三四郞が雜巾を掛ける。三四郞が疊を敲く間に、美禰子が障子をはたく。どうかかうか掃除が一通り濟んだ時は二人とも大分親しくなつた。
三四郞が馬尻の水を取換へに臺所へ行つたあとで、美禰子がハタキと箒を持つて二階へ上つた。
「一寸來て下さい」と上から三四郞を呼ぶ。
「何ですか」と馬尻を提げた三四郞が梯子段の下から云ふ。女は暗い所に立つてゐる。前垂だけが眞白だ。三四郞は馬尻を提げた儘二、三段上つた。女は凝としてゐる。三四郞はまた二段上つた。薄暗い所で美禰子の顏と三四郞の顏が一尺ばかりの距離に來た。
「何ですか」
「何だか暗くつて分らないの」
「何故」
「何故でも」
「一寸來て下さい」と上から三四郞を呼ぶ。
「何ですか」と馬尻を提げた三四郞が梯子段の下から云ふ。女は暗い所に立つてゐる。前垂だけが眞白だ。三四郞は馬尻を提げた儘二、三段上つた。女は凝としてゐる。三四郞はまた二段上つた。薄暗い所で美禰子の顏と三四郞の顏が一尺ばかりの距離に來た。
「何ですか」
「何だか暗くつて分らないの」
「何故」
「何故でも」
三四郞は追窮する氣がなくなつた。美禰子の傍を擦り拔けて上へ出た。馬尻を暗い椽側へ置いて戶を開ける。なるほど棧の具合が善く分らない。そのうち美禰子も上がつて來た。
「まだ開からなくつて」
「まだ開からなくつて」
美禰子は反對の側へ行つた。
「此方です」
「此方です」
三四郞はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が觸れる所で、馬尻に蹴爪づいた。大きな音がする。漸くのことで戶を一枚明けると、强い日がまともに射し込んだ。眩しい位である。二人は顏を見合はせて思はず笑ひ出した。
裏の窓も開ける。窓には竹の格子が附いてゐる。家主の庭が見える。鷄を飼つてゐる。美禰子は例の如く掃き出した。三四郞は四つ這ひになつて、後から拭き出した。美禰子は箒を兩手で持つた儘、三四郞の姿を見て、
「まあ」と云つた。
「まあ」と云つた。
やがて、箒を疊の上へ抛げ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘外面を眺めてゐる。そのうち三四郞も拭き終つた。濡れ雜巾を馬尻の中へぼちやんと擲き込んで、美禰子の傍へ來て竝んだ。
「何を見てゐるんです」
「中てゝご覽なさい」
「鷄ですか」
「いゝえ」
「あの大きな木ですか」
「いゝえ」
「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」
「私先刻からあの白い雲を見て居りますの」
「何を見てゐるんです」
「中てゝご覽なさい」
「鷄ですか」
「いゝえ」
「あの大きな木ですか」
「いゝえ」
「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」
「私先刻からあの白い雲を見て居りますの」
なるほど白い雲が大きな空を渡つてゐる。空は限りなく晴れて、どこ迄も靑く澄んでゐる上を、綿の光つた樣な濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、靑い地が透いて見える程に薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まつて、白く柔かな針を集めた樣に、さゝくれ立つ。美禰子は其塊を指さして云つた。
「駝鳥の襟卷に似てゐるでせう」三四郞はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、
「まあ」と云つたが、すぐ叮嚀にボーアを說明してくれた。其時三四郞は、
「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを敎へた。美禰子は、
「あらさう」と云ひながら三四郞を見たが、
「雪ぢや詰まらないわね」と否定を許さぬやうな調子であつた。
「何故です」
「何故でも、雲は雲でなくつちや不可ないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」
「さうですか」
「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」
「あなたは高い所を見るのが好きの樣ですな」
「えゝ」
「駝鳥の襟卷に似てゐるでせう」三四郞はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、
「まあ」と云つたが、すぐ叮嚀にボーアを說明してくれた。其時三四郞は、
「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを敎へた。美禰子は、
「あらさう」と云ひながら三四郞を見たが、
「雪ぢや詰まらないわね」と否定を許さぬやうな調子であつた。
「何故です」
「何故でも、雲は雲でなくつちや不可ないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」
「さうですか」
「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」
「あなたは高い所を見るのが好きの樣ですな」
「えゝ」
美禰子は竹の格子の中から、まだ空を眺めてゐる。白い雲はあとから、あとから、飛んで來る。