ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

ほとゝぎす

明治二十九年七月十二日の一葉の日記にこの随筆を短期間で書いたことが記されている。発表されたのは、六月十五日の明治三陸地震による津波被害義捐のための文芸倶楽部の臨時増刊(七月二十五日)であった。なお、一葉の日記は同年の七月二十二日で途絶えている。熱は七月初旬より大抵九度位あったという。

  • 『すゞろごと』の「ほとゝぎす」は、博文館の改訂版に従うと、二回出てくる「子規」の表記がすべて「杜鵑」になっている。一葉が原稿をどう書いたかわからないので、随筆中のほととぎすの表記をすべて変えて、「ほとゝぎす」「杜鵑」「郭公」「子規」にしてみた。
  • 『すゞろごと』は随筆ぐらいの意味だろうが、「すずろなり」には「無性に」とか「軽率な」とかいう意味があるので、上手い題名だと思う。一葉は『そゞろごと』にしたかったらしいが、そのニュアンスの違いはよくわからない。
  • 「げに戀する人の我れに聞かすなと言ひけんも道理(ことはり)ぞかし」は、古今和歌集、詠人しらずの「夏山になく郭公心あらば物思ふ我に声なきかせそ」から。
  • 一葉の遺した和歌には時鳥(ほとゝぎす)を詠んだものが何首かある。

うらやましひと日住まばや子規なく山ざとの柴のいほりに

人傳もうたがはれけり子規わがまだ聞かぬ心ならひに

あれきけと人呼びおこす程もなし初時鳥よはの一こゑ

ともに聞く人の來よかし時鳥一こゑ鳴きて今過ぎにけり

思ひ寢のゆめかとぞおもふほとゝぎす待ちつかれたる夜半の一こゑ

  • 「こゝゐの森」は伊豆山神社の森のこと。
  • 「月夜に寝ほうけて鳴出(なきい)づる時は常の聲とも異(ことな)りぬべし」とあるのは、『枕草子』の「夜烏どものゐて」の段に以下のようにあるのを踏まえているのかもしれない。

夜烏どものゐて、夜中ばかりにいねさわぐ。落ちまどひ、木づたひて、寢起きたる聲に鳴きたるこそ、晝の目にたがひてをかしけれ。


ほとゝぎす

ほとゝぎすの聲まだしらねば、いかにしてか聞かばやと戀しがるに、人の訪ひ來て何かは聞えぬ事のあるべき、我が宿の大木(おほき)にはとまりてさへ鳴くものを、夜ふけ枕にこゝろし給へ、近く聞く時は唯一こゑあやしき音(ね)に聞きなさるれど、遠くなりゆく聲のいと哀れなるぞと敎へられき。時は舊(ふる)き曆の五月にさへあれば、おのが時たゞ今と心いさみて、それよりの夜な〳〵目もあはず、いかで聞きもらさじと待(まち)わたるに、はかなくて一夜は過ぎぬ、そのつぎの夜もつぎの夜もおぼつかなくて何時しか曉月夜の頃にもなれば、など斯くばかり物はおもはする、いとつれなくも有るかなと憎む〳〵猶まつに弱らで一夜を待(まち)あかしゝに、ある曉のいとねぶたうて、物もおぼえずしばし夢結ぶやうなりしが、耳もと近くその聲あやまたず聞えぬ、まだ聞かざりし音をさやかに知るは怪しけれど疑ひなき夫れと枕おしやりて、居直れば又一こゑさやかにぞなく、故人がよみつる歌の事などさま〴〵胸に迫りて、ほと〳〵淚もこぼれつべく、ゆかしさのいと堪へがたければ閨(ねや) の戶おして大空を打見あぐる、月には橫雲少しかゝりて、見わたす岡の若葉のかげ暗う、過ぎゆきけんかげも見えぬなん、いと口惜しうもゆかしうも唯身にしみて打ながめられき。明(あけ)ぬれば歌よむ友のもとに消息(せうそこ)して此(この)ほこりいはゞやとしつるを、事にまぎれてさて暮しつ、夜に入れば又々鳴きわたるよ、こたびは宵より打しきりぬ、人の聞かせしやうに細やかなる聲はあらねど唯ものゝ哀れにて、げに戀する人の我れに聞かすなと言ひけんも道理(ことはり)ぞかし、おもふ事なき身もとすゞろに鼻かみわたされて、日記のうちには今宵のおもふこと種々(くさ〴〵)しるして、やがて哀れしる人にとおもふ。かくて二日ばかり、三日の後なりけん、ゆくりなく訪ひ來し友あり、いと嬉しうて、今や此(この)事かたり出(い)でん、しばししてや驚かすべき、さこそは人の羨やましがるべきをと、嬉しきにも猶はゞかられつゝ、あらぬ事ども言ひかはすほどに、折しもかの杜鵑(ほとゝぎす)檐端(のきば)に近う鳴く聲のする、あれ聞き給へ、此宿(ここ)はこゝゐの森にもあらぬを、此(この)夜頃(よごろ)たえせず聲の聞ゆるが上に、ひるさへ斯くと打出(うちいだ)したれば、友は得ときがたきおもゝちして、何をかのたまふ、とたゞに言ふ、かく〳〵と語れば、そは承けがたき事と打かたぶき打かたぶきするほどに、又も一聲二聲うちしきれば、あれが聲を郭公(ほとゝぎす)とや、いかにして然(さ)はおぼしつるぞ、いとよき御聞きざまと友は口おほひもしあへず笑みくつがへる、いつも曉よりなきいでゝ夕ぐれまでは御檐(おんのき)のものなるを、いかにして然(さ)は聞き給ひけん、物ぐるほしくもおはしますかなといよ〳〵笑ふに、さにはあるまじ、いかで山がらすを然(さ)はおもふべき、あの鳴音(なくね)聞き給へ、よもあやまらじと訝(いぶか)しうなりて言へば、月夜に寢ほうけて鳴出(なきい)づる時は常の聲とも異(ことな)りぬべし、今のなく音(ね)は何かは異ならん、あれ見給へ飛びゆく姿もさやかなるをと指さゝれて、あはれこの子規(ほゝとぎす)いつも初音をなく物に成りぬ。覺(さ)めずは夢のをかしからましを。