ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

一葉の習作

武藏國 (武州) 江戶は、明治維新の折に江戶府となりすぐに東京府となつた。其處へ東京市が制定されたのは、明治十一年のことであり、一葉の生きた時代、東京市は十五區よりなつてゐる。

一葉の作品は言ふまでもなく、其のほとんどが東京市を舞臺としてゐる。東京市の中でも、ものごゝろついてより、住んだことのある本鄕區、下谷區、芝區 (『うもれ木』や『大つごもり』の舞臺)、神田區、萩の舍があつた小石川區周邊が舞臺となることが多い。

一葉の小說の中で地名が小說的效果をあげてゐるのは既に紹介した『別れ霜』の俥が彷徨する場面かもしれない。この心中小說に於ては、『心中天の網島』の「橋づくし」のやうに、「萬世橋」「日本橋」「京橋」が出てきてをり、もう少し「橋」のつく地名を登場させさへしてゐれば、三島由紀夫の『橋づくし』よりも樋口一葉の方が先だつたのにと惜しまれる。

一葉の小說で東京市以外の地名が出てくるといふ點で、もつとも特異であるのは一部しか殘されてゐない (第五囘以降の文章だけを讀むことができる)「無題」の習作であらう。その習作では、

「海水渺々山色精絕一洞の天泉よく數十の浴舍をうるほし、四時浴客の絕間なき豆州海濱の一小村熱海」

が舞臺となつてゐて、熱海の「林屋」といふ旅館に、小說の登場人物である日本橋區橫山町伊豆屋の息子の德藏、お綾、召使ひのお絲が、お綾の心の病ひのために逗留する場面が描かれてゐる。逗留後の三人の歸京は小田原まで俥で行つて*1、小田原より汽車に乘つて新橋停車場へ着いたと書かれてゐる。しかし、當時、東海道線は國府津驛が終點だつたので、小田原から國府津驛までの間は馬車鐵道を使つたはずである。一葉の年譜によると、彼女が十二歲のとき長兄である泉太郞が熱海で病氣療養したとあるので、一葉は長兄からの手紙や聞いた話しを思ひ出しながら書いたのかもしれない。

お綾が心の病ひなのは、本所區向島小梅町の三河屋の息子、雄二を戀慕し忘れ難いためだが、その雄二は洋行してゐたが歸国し、橫濱港に上陸してゐる。雄二の歸國歡迎會は、江東中村井生村や星ケ丘の茶寮が候補にのぼるが、上野櫻ガ岡の櫻雲臺に決まる。その宴會では、松旭齊天一が西洋手品を披露する。

お綾は宴會で雄二に再會した晚、自害しようとするのは一葉作品ゆゑ驚かない。ところが、お綾は遺書をしたゝめをへて最後に「あら〳〵かしく」と書き、

「(前略)さすがに覺悟はわろびれず、身のたしなみにとかねてより母がさづけし懷劍に今宵我みを切らんとは神ならぬ身の白こ袖、みなりを死後にくずさじとひざ引結はふ眞紅のしごき、物こそいはね合はす手に父と母との暇乞ひ、南無阿み陀佛は口のうちあはやとみえし折」、

德藏が「ふすま蹴開きかけ行つて」懷劍をお綾の手からもぎ取つてしまふのである。しかも、そこには舅姑、父母、雄二が勢揃ひしてゐて、德藏は雄二にお綾を貰ふてくれと賴み、雄二がそれを承諾するハツピイエンドである。

お蔭で、三宅花圃の『藪の鶯』や『八重櫻』まで讀んでしまつたが (『八重櫻』の方が、はるかに面白い)、一葉はこの時代まだ純眞なまゝで、素直に三宅花圃のやうな小說を書かうとしたのだと思ふ。會話文も片假名こそないが例の會話の書き方を眞似してゐる。『藪の鶯』の構成を『八重櫻』で變換しながら書いてゐるやうな氣もする。もしかしたら、三宅花圃的なものからのその後の訣別が一葉を作家として脫皮させたのかもしれない。

男「アハヽヽヽ。此ツー、レデースは。パアトナア(ばかり)お好きで僕なんぞとおどつては。夜會に來たやうなお心持が遊ばさぬといふのだから。

齋「官員といへば山中はどうしたらう。此節は役所のはぶりがいゝとかで。等も進んださうだ。仕方のない男だが。あんなのが人氣にあふのサ。まア僕等の學術上で分析すれば。ゴマカシユム百分の七十に。ヲペツカリユム百分の三十といふ人物だ。アハヽヽヽ。
宮「あれでかれこれ御同前の三分の二位月給をとるのだから。官員は名譽にも何にもならない。
齋「さうだがこのごろはどんなソサヤヂーにも面を出して。高等官の中間(なかま)にでもはひつたやうに威張つて居るさうだ。

以下は、一葉の『うつせみ』を思ひ出す。

服「お記憶のよいこと。私くしすらわすれてしまひました。さういへば篠原さんでもお兄樣がきのふ御歸京になりましたとネ。
宮「オヤあの方はH(注: ハズバンド)ぢやアないの。
服「Hですけれどエンゲイジばかりですから。はま子さんも兄樣とおつしやつていらつしやい升ヨ。

△「君けふのレツソンはデフヒガルトだつたねえ。
□「アーだけれど僕は昨日ブラザアに下讀みをしてもらつたから。すこぶるイージーだつたゼ。

メネー〳〵は「メニー〳〵」のことだらうか。かすていらをつまみながら女同士が會話する場面は、一葉の習作でも熱海の宿の場面で出てくる。この女性同士の會話は、

「(前略)お綾は例の限りなき物思にとざゝれて溜息がちに居る折から廊下の口ほそめに明けて、ヲヤ今日はお一人ですかと聲をかけて入來るは其の隣室の妻君也(後略)」

と始まるのだが、この人物の這入り方をお綾の自害の場面で德藏が「ふすま蹴開きかけ行」くところと對比させながら讀んだ。

女「ヨー齊藤さんもうおよしなさいヨ。サア」トかすていらをペンナイフで切て出す。「メネー〳〵。サンキユー。ホワ。ユウワ。カインド」と片言の英語を囀りながらチヨイとつまんで(後略)

*1:熱海と小田原の間に客車を人力で押して動かす「豆相人車鐵道」が開通するのは明治二十八年である。