ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

月の夜

一葉の随筆『あきあはせ』の中にある「月の夜」から。

さゝやかなる庭の池水にゆられて見ゆるかげ物いふやうにて、手すりめきたる所に寄りて久しう見入るれば、はじめは浮きたるやうなりしも次第に底ふかく、この池の深さいくばくとも量られぬ心地になりて、月はそのそこの底のいと深くに住らん物のやうに思はれぬ。久しうありて仰ぎ見るに、空なる月と水のかげと孰れを誠のかたちとも思はれず。物ぐるほしけれど箱庭に作りたる石一つ水の面にそと取落せば、さゞ波すこし分れて、これにぞ月のかげ漂ひぬ。

この部分では空間の拡がりに大きな違いはあるにせよ『土佐日記』の以下の一節を想起してしまう。

十七日、曇れる雲なくなりて曉月夜いとおもしろければ、船を出して漕ぎゆく。このあひだに雲のうへも海の底も同じごとくになむありける。むべも昔の男は「棹は穿つ波の上の月を。船はおそ(壓)ふ海のうちの空を」とはいひけむ。きゝざれに聞けるなり。また、ある人のよめる歌、「みなそこの月のうへより漕ぐふねの棹にさはるは桂なるらし」。これを聞きてある人のまたよめる、「かげ見れば浪の底なるひさかたの空こぎわたるわれぞさびしき」かくいふあひだに、夜やうやく明けゆくに、檝取ら「黑き雲にはかに出できぬ。風も吹きぬべし。御船返してむ」といひてかへる。このあひだに雨ふりぬ。いとわびし。

『土佐日記』のこの部分には、一葉の作品名である「曉月夜」も出てくるのだが、そのことはさしあたって関係がない。ここで「昔の男がいったらしい(なんとはなしに聞いたのです)がそれはもっともなことだ」として引用されている詩は、よくある注釈では中唐の詩人、賈島によるものとあるが、どうもそうではないらしく、詠み人しらずの漢詩とここではしておく。

海鳥浮還沒 海鳥は浮かび還た沒し
山雲斷更連 山雲は斷えて更に連なる
掉穿波上月 掉は穿つ波の上の月を
舡壓水中天 舡は壓ふ水中の天を

貫之の「雲のうへも海の底も同じごとくになむありける」は単なる情景描写とも受け取れるが、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という『土佐日記』の文脈においては、その情景の「同じごとく」がそこに続く、漢詩と和歌との共存に関聯づいているという穿った読み方もできるかもしれない。

一葉の「空なる月と水のかげと孰れを誠のかたちとも思はれず」で一葉が何を考えていたかは分かるはずもなく、「雅と俗の混淆とした世界」などというつもりも毛頭ないし、もちろん、このように垂直に貫かれた世界を描いた作家は一葉ひとりに限らない。たとえば、すぐに思い出すのは、夏目漱石であろう。

三四郞が凝として池の面を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、その又底に靑い空が見える。

この後、三四郎は女(美禰子)の落としていった花を拾ってかいだ後、その花を池の中へ投げ込むのだが、そこで漱石はわざわざ「花は浮いてゐる」と書いている。一葉の場合には、もちろん落とした石は底に沈んだのであろうが、この作家はそれだけでは終わらせない。まるでそれが悲劇の前兆であったかのように、事が進んでしまうのである。

かくはかなき事して見せつれば、甥なる子の小さきが眞似て、姉さまのする事我れも爲(す)とて、硯の石いつのほどに持て出でつらん、我れもお月さま碎くのなりとて、はたと捨てつ。それは亡き兄の物なりしを身に傳へていと大事と思ひたりしに、果敢(はか)なき事にて失なひつる罪得がましき事とおもふ。