文芸誌「群像」に連載されていた、蓮實重彥の『ショットとは何か』の連載が完結した。最後の V はとりわけ素晴らしく、さすがに 100 回は見ていて記事にしたこともある『バンドワゴン』(1953) の “Dancing in the Dark” でシド・チャリシーが音楽の高鳴りとともに突然回りだすシーンこそ見なかったが、マックス・オフュルスの『たそがれの女心』(MADAME DE …, 1953) の DVD は見たりした。リチャード・フライシャーの『その女を殺せ』(The Narrow Margin, 1952) も列車が主な舞台の大変面白い作品である。(レコードを使ったものだとラングの『スカーレット・ストリート』(1945) で、エドワード・G・ロビンソンがジョーン・ベネットとダン・ドゥリエイの関係を知る有名な場面を思い出す。)
III においてフランシス・フォード・コッポラが語っている、
映画作家なら、それぞれ単体では意味を持たないひとつのショットを別のショットにつなぐことで、そこに意味が生まれるということは、映画という芸術が始まった初期の頃から知っている。
は、その後にいきなりエイゼンシュテインを持ち出してしまったことで批判はされているものの、かなりいい線いっていると思う。個人的にはカッティング オン アクションを考えるならば二番目に使われている「意味」を「旋律」に置き換えたい気がする。あるいは 「運動」でも「驚き」でも「手触り」でも「惹きつけられるもの」でもよく、無数に置き換え可能である。ショットは D. W. グリフィスに端を発するというのが蓮實さんの主張で、季刊誌リュミエールに掲載された後、単行本には納められていないので要旨を記事 (「ドリーの冒険」) にしておいた『単純であることの穏やかな魅力——D. W. グリフィス論』は非常に重要なものだと思う。
これも前に書いたが、蓮實さんの「主題論」についての自分なりのほぼ出鱈目の理解は、類似や反復にもとづく意味作用の網の目によって細部をお互いに共鳴させ、単体のままではよくわからなかった希薄で多様でうつろいやすい潜在的意味をようやく開示させるというものであり、他方、より貧弱な装置へ「紋切りイメージ」を流して増幅したらどんな酷いことになるかという視点で書かれたのが、「物語批判」であるというものである。
それにしても、グリフィスの『東への道』(1920) のほんの数秒しか続かないリリアン・ギッシュが白い箱を抱えて仕事を探して歩く一本道の短いふたつのショットとデイヴィッド・ローリーの『セインツ 約束の果て』(2013) のショットを時空を超えて共鳴させることができるのは本当に凄いと思う *1。そういうことができる人を自分は創造的な人と考えているので、蓮實さんという人は僕にとって創造的な人なのである。(創造性がなにかはよくわからないが、少なくとも時間、空間の広大な拡がりの中から思いもかけない結合を生み出せる能力に関係していると思っている。)
*1:「編集のリズムの快適さ」の例として、大好きなフランク・ボセーギ監督の『幸運の星』(Lucky Star, 1929) も取り上げられている。また、トーキー以後、それにふさわしい一本道を撮りえたのは、成瀬巳喜男ぐらいしか見あたらないともある。アンゲロプロスなんかはこの場合、趣旨が違うんだろう。