「群像」最新号の『ショットとは何か V ショットを解放する』を読みはじめた。
ただ、ただ、素晴らしい。
映画における男女の心の機微は、ダンスという運動の持続とともにしか描けなかったというのが、映画史的な現実なのです。
マックス・オフュルスの『たそがれの女心』(1953)
高校時代に見たときには、何だかわからないうちにこのシークエンスが終わってしまったので、わたくしは絶句と饒舌のさなかに置き去りにされたまま、ひたすら喋りたいのに、何を口にすべきか皆目見当もつかず、黙りこくるしかなかったのです。ああ、凄いことが映画では起こっている。その実感だけは、いま見直しても、改めて見ている感性を揺るがせているのです。
グル・ダッドの『渇き』(1957)
映画で未知の何ものかを誘うには、ここでのようなショットの連鎖によって、その視線と身振りと歌声のくり返しがひとつになった運動として、見る者に委ねられるしかないという真実に目覚めることになるのです。
ヴィンセント・ミネリの『バンド・ワゴン』(1953)
男女の仲が親密さを増すという状況が、映画においては、あくまでも同じステップを踏むという二人だけが演じる優雅で親密な運動にいかにキャメラを向けるかという映画的な現実としてあるのだというまぎれもない事態に、ここでも見る者をたちあわせてくれるからなのです。
ルキノ・ヴィスコンティの『われら女性』(1953)
その瞬間、おそらく映画史上でもっとも美しいクローズアップがスクリーンを覆うことになるのです。
ジャン・リュック・ゴダール の『はなればなれに』(1964)
二人の身振りはその巧拙を超えて、映画という時間体験の中で、彼ら、そして彼女の運動の持続がまぎれもない現在として画面を輝かせていたことに、誰も無頓着でいることは許されないとさえ思っているのです。
成瀬巳喜男の『山の音』(1954)、『鶴八鶴次郎』(1938)
二人は、映画が不意に映画自身と出会ったときだけに姿を見せるはてしない拡がりへと向けて、ゆるやかに踏みこんで行くかのようなのです。この瞬間、スクリーンには鈍くはじけているような動揺が拡がってゆくのです。
そして、動から不動への移行。「寡黙なる雄弁さ」。
動きを奪われつくした人間とは、それこそ死そのものにほかならないからです。
ドン・シーゲルの『殺し屋ネルソン』(1957)
ラオール・ウォルシュの作品の数々
ニコラス・レイの『大砂塵』(1954)
サム・ペキンパーの『昼下がりの血斗』(1962)
フランシス・フォードの『ゴッドファーザー パートIII』(1990)
マイケル・マンの『コラテラル』(2004)
ロベルト・ロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』(1950),『無防備都市』(1945)
しかし、こうした動から不動への移行が、必ずしも死のイメージには結びつかない場合もあることを指摘しておかねばなりません。あの忘れがたいロベルト・ロッセリーニの傑作『神の道化師、フランチェスコ』の最後に見られるものです。
女性が動きを止めることで死がもたらされるという代表的なイメージは、いうまでもなく、ロベルト・ロッセリーニによる『無防備都市』 におけるアンナ・マニアーニだといえるでしょう。
リチャード・フライシャーの『その女を殺せ』(1952)
ジョン・フォードの『長い灰色の線』(1955)
デイヴィッド・ロウリーの『セインツ 約束の果て』(2013)