ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

陥没地帯 (104)

『見るレッスン』を読むには読んだが、聞き書きで、そのまとめ方はいかにも「新書」で、なんだかねという程度のものである。一般向けの本なんだろう。まあ、それでもうれしかったのは、いままであまり取り上げてくれなかった清水宏監督の『有りがたうさん』(1936) をこれを知らずして日本映画を語るのは非国民だと言ってくれたり、清水宏を知らずして映画を語るなと言ってくれていることである。また、この手の本ではあまり取り上げられることのない下村兼史*1の名前が出てきているのが一番貴重かもしれない。後は一時期、米国時代のフリッツ・ラングばかり顕揚していた蓮實さんが『スピオーネ』(1928) をあげている。これは手持ちの DVD を見直してしまった。エルンスト・ルビッチの『私の殺した男』(1932) の素晴らしさは当然である。ジャック・ターナの『キャット・ピープル』(1942) も同じである。その他、挙げておられる映画も当然で、繰り返しになるが、やはりあくまで一般向けの本なんだろう。悲しいことではあるが、80 歳を過ぎた蓮實さんがいまさらこんなことを言い続けなければいけないのが、今の日本なのであり、そのことだけは改めて認識しておかないといけないと思った。

それで、清水宏が出てきたので、傑作でもなんでもない、清水宏監督の『港の日本娘』(1933) のことに触れる。出演は、「黒川砂子」に及川道子、「ドラ・ケンネル」に井上雪子、「シェルダン耀子」に沢蘭子、「ヘンリー」に江川宇礼雄、「マスミ、酒場の女」に逢初夢子、「売れない画家」に斉藤達雄、「原田、酒場の謎の紳士」に南條康雄といった顔ぶれである。

「ドラ・ケンネル」を演じている井上雪子は、『監督 小津安二郎』に蓮實さんのインタビューがあるオランダ人と日本人のハーフである。「ヘンリー」を演じる、江川宇礼雄も、ドイツ人と日本人のハーフである。しかし、「シェルダン耀子」を演じる沢蘭子は、宝塚出身の女優で生粋の日本人である。及川道子は、島津保次郎の『家族会議』(1936) が最後の出演作で 26 歳で結核で亡くなられた「永遠の処女」である。逢初夢子は、もちろん同じ島津保次郎の『隣の八重ちゃん』(1934) の八重ちゃん役だった人である。

井上雪子もインタビューで言っているように、当時、この作品はまったくあたらなかったらしい。それはそうだろうと思う、奇妙な作品である。ただ、随所に思わず笑いこけてしまうところが多々ある作品である。たとえば、いかにも安っぽい作りの教会が出てきて親密になったかと思うと、その次に及川道子と江川宇礼雄が一緒にバイクに乗るシーン(「海に」「山に」「街に」とタイトルが出る)がたった3ショットあって、その次には、いきなり及川道子が井上雪子に「ヘンリー、この頃ちっとも会ってくれないの」といったりするところである。それでもロングのショットがうまいせいだろうと思うが、最初のシーンの井上雪子と及川道子がセーラー服で歩いている移動撮影や、ヘンリーが登場する呼吸は悪くないのである。特に、神戸で酒場の女になった及川道子と逢初夢子が傘をもって歩いているところなんかは、実にいい雰囲気である。女に日傘を持たせて、くるくる回させている。二人の女に日傘を持たせて歩かせ、後ろに男が一人歩く。これだけのことで映画になっていると思った。

日傘からの連想だが、清水宏監督作品『恋も忘れて』(1937)では、冒頭、蛇の目傘を回しながら後姿を見せて画面奥へとゆっくり歩いている和服を着た女が、子供(突貫小僧)が傍を駆け抜けた瞬間にくるりと振り向き、子供に「坊や、坊や、うちのハル坊知らない」と聞く。子供が「俺、ハル坊の守っ子じゃないやい」と答えて去っていくと、画面は今度は女の正面バストショットに切り替わり、そこで彼女が桑野通子であることがわかる。そのショットで「憎い餓鬼だね」という彼女の台詞を聞いた瞬間に心が躍ったことは覚えている。この映画、桑野通子をはじめ、佐野周二、子供たちの全身を捉えたフルショットが多い。また、霧がかかった横浜のだれもいない夜の街を佐野周二と桑野通子が歩くノワール映画 (1937年にである)のようなシーンを見ることができる。冒頭のシーンを含め、桑野通子の背中姿のショットも多い。背中が大きくあけたドレスを着た桑野通子が、固定キャメラで、背中を見せたままホテルのダンスホールに入り一人でダンスを踊るシーンは良い。だからといって、清水宏は桑野通子の顔のアップを禁欲しているわけではなく、シングル・マザーである彼女が、ホテルのダンスホールに女給として勤めている母親のせいで、自分の子供が友達から仲間外れにされていると聞かされたときには、桑野通子の悲痛な顔のすばらしいアップを示してくれている。「無国籍メロドラマ」というジャンルがあるかどうか知らないが、そんな作品である。