山中貞雄の遺稿
「青空文庫」に山中貞雄監督の遺稿となった従軍記がある。
彼の最後の作品となってしまった『人情紙風船』(1937) は、8 月 25 日が封切日にあたる。その当日に山中へ召集令状がきた。同じ年の 10 月 8 日、彼は神戸から中国大陸に向けて出港するが、日記はその出発前の 9 月 28 日から始まっている。中国への出発が 10 月 7 日と決定された 10 月 5 日に、彼はこんな映画のシナリオめいたものをそこに書き残している。
十・五
遂二十月「七日ノ旅立チ」ト決定スル
××ニ一泊シテ八日乘船トノ由。MEMO セツトは花園驛を後景ニシテ前景の宿ハ稻荷驛前ノ玉屋ヲモデルトスル事、宿デナク驛ノ商家(商賣ヲ考究スル事)デモヨシ
「おツ母アがお寺の和尙さんに賴ンで、寫眞の裏にこの通り俺の戒名書いて……」
エフエクト
萬歲の聲、汽車のボー○——少しキツクなる恐れあり止めても可
朝 お袋さんが訪れる
村で鼻が高い話
痔はどうかの話
息子クサル◎ラスト 戰地からの手紙——
ボーゼストの、手と私の殺した男の、手 とを再考スル
この「◎ラスト」の部分にある「ボーゼスト」とは、映画作品『ボー・ジェスト』(Beau Geste) のことである。ウィリアム・ウェルマン監督の『ボー・ジェスト』だと 1939 年公開だから、この『ボー・ジェスト』は 1926 年のハーバート・ブレノン監督のサイレント版を指す。主演は、「コールマン髭」で知られるロナルド・コールマンで、ボーを演じている。
ジェスト兄弟のボー、ディグビー、ジョンの内、末弟であるジョンだけが生き残って英国に戻りボーが遺した手紙と宝石を家の夫人に渡し、夫人は、ボーが夫人のために泥棒の汚名を被ったことを知るところを山中は言っているのだと思う。
次の『私の殺した男』(Broken Lullaby, 1932) は、もちろんエルンスト・ルビッチ監督による反戦映画である。『私の殺した男』のあの感動的な手紙のシーンを山中は、戦地に向けて旅立つ 2 日前に思い出していたのである。
このごく短い文面からだけでも、山中はアメリカ映画を引用しながら映画作りを行っていたことがわかる。治安維持法は 1928 年に改正強化され、映画に対しても厳しい検閲の中、比較的問題の少ないジャンルである時代劇を利用し、そこに彼が愛してやまなかったアメリカ映画を様式として引用するというのが時代に対する戦略だったのである。
山中が見ることのなかった 1939 年、ウィリアム・A・ウェルマン監督版は、優れたサイレント作品である前作にあえて多くをつけ加える必要はないとウェルマンは考えたのだろう。あくまでも上品なこの監督は、新たな独自性とやらをつけ加えて前作を台無しにしてしまおうとは考えなかったのである。ただ、ゲイリー・クーパーが演じるボーが亡くなった際、そのバイキングの火葬のシーンで、ディグビー(ロバート・ブレストン)によって吹かれる音を殺したラッパが響けば、それで十分だと考えたのだ。実際、トーキーはこの場面のために発明されたのだろうかと思うぐらいそれは効果をあげている。その喇叭の音色は、公開 1 年前に戦地で 28 歳という若さで亡くなった山中貞雄にも確実に届いていると思う。
『ボー・ジェスト』のストーリー
フランス外人部隊の一隊が、サハラ砂漠にある砦を訪れようとしている。部隊は、まずラッパ兵をその砦へ偵察に出すのだが、彼はそのまま戻ってこない。ラッパ兵を探して砦に入った隊長は、砦の兵たちが横たわっている二人の死体を除いて、みな武器を持って塹壕に寄りかかった格好で死んでいるのを見る。しかも、横たわっている二人の死体も目を離したわずかの間に消えてしまった。外人部隊は、翌日砦を詳しく調べることに決め、近くのオアシスへと一時的に引き上げようとしたとき、砦は炎上してしまう。
物語の舞台は、昔の英国に変わっている。三人の男の子と一人の女の子が池で戦争ごっこをして遊んでいる。三人の男の子は、年齢が上から愛称ボー (マイケル)、ディグビー、ジョンである。一緒にいる女の子はイソベルと呼ばれている。幼い末っ子のジョンとイソベルは、とても仲がよい。ボーとディグビーは、二人のどちらが先に死んでも、彼らが池で模型の船と人形でやったように、海賊式の (バイキングの) 火葬をするという誓いをおこなう。
その三人の男の子と女の子は、その家の夫人によって女手一つで育てられている。夫は中国へ行ったきり戻ってきてないのだ。男の子 3 人は、その家の夫人の姉の遺児であり、夫人は子供たちの養育費や、海外にいる夫への送金などで経済的に苦しい。そこで、夫人は家宝である「青い水」と呼ばれる宝石をインド人の貴族に売るのだが、そのことを秘密にするため、家には宝石の模造品を残す。しかし、たまたま隠れて、夫人がインド人に宝石を売る現場にいあわせた長男ボーだけは、その事実を知ってしまう。
時間が経過して、子供たちは成長して若者になっており、ジョンとイソベルはお互い恋人同士となっている。海外にいる夫から、夫人に対して金が入り要なので、宝石「青い水」を売って金を送って欲しいと催促がくる。ボーは家族が集まる居間の机に取り出された「青い水」の模造品を灯りが消えて暗くなった隙に盗んでしまう。夫人は誰が宝石を盗んだのかを問いただすが、結局、誰が盗んだか犯人はわからない。その夜、ボーは次男のディグビー宛に書き置きを残して家出する。ディグビーは兄の書き置きを読むと、彼も末っ子のジョン宛に書き置きを残して家出する。さらに二人の兄たちの家出を知ったジョンも家を出てしまう。
三人の兄弟は、幼い頃、夫人の友人である軍人から「外人部隊」の話を聞いたことを覚えていた。そして、家出した三人は三人とも「外人部隊」の兵になり、そこで再会する。
三人が問題の宝石はボーのベルトの中にあることを話していると、それを同じ部隊の兵卒に盗み聴きされてしまう。兵卒からその話しを聞いた部隊の軍曹は、その宝石をどうにかして手に入れたいと思う。
軍曹が引きいる部隊には、ボーとジョンが配属され、物語冒頭に登場した砦へ赴く。横暴な軍曹に憤った兵卒達が脱走しようとしたとき、アラビア人が砦を襲撃して来た。砦の部隊の兵卒たちは次々倒れていくが、倒れた兵卒達はアラビア人を騙くために塹壕に立てかけられる。ボーも、またそこで敵弾を受けて倒れてしまう。軍曹は「青い水」をボーから奪うが、宝石と一緒にあった手紙から、それが偽物であることを知り、激怒して倒れたボーに乱暴をする。それをジョンが見て、彼は軍曹に立ち向かう。ボーは最期の力をふり絞り、ジョンを助け、軍曹は刺殺される。ボーは息を引き取る。ジョンは、宝石と手紙を携えて砦を逃れる。
そのあとに砦にやって来た物語冒頭の部隊には、ディグビーが配属されていて、偵察に出たのは他ならぬディグビーその人だったのである。彼はボーが死んでいるのを見つけて、幼いときの約束を思い出し、海賊式火葬をしてボーを弔う。砦は火に包まれる。ディグビーも、砦を逃れる。
ディグビーは砂漠の中で弟ジョンと再会する。二人は更に他の戦友 二名と砂漠で出逢ったが、四人は砂漠の中で迷ってしまう。水が不足し駱駝は死んでしまい、四人が一緒では生還できないことを知ったディグビーは、一人砂漠に消えていってしまう。
ジョンは、その後、無事に英国に帰ってボーの遺した手紙と宝石を家の夫人に渡す。夫人は、ボーが夫人のために泥棒の汚名を被ったことを知る。ジョンは二人の兄たちに感謝し、イソベルと結婚する。
山中貞雄がイメージした手紙は、最後は夫人が読むボーの手紙のことであろう。
『私の殺した男』について
エルンスト・ルビッチ監督のこの映画はコメディではない。第一次世界大戦の西部戦線でドイツ兵を刺殺したフランスの兵士が遺族の許しを請うためにドイツ兵の故郷を訪れるという反戦映画である。ドイツでも公開されたが、ナチの宣伝相であるゲッペルズから攻撃を受け、ドイツでは上映禁止となっている。冒頭のショットからして凄い。そこでは、松葉杖の男の片脚のない空間から、戦勝パレードの様子が撮られているのである。ルビッチの扉ショットの変形だと思うが、もの凄く強いショットである。
すべての虚構は煎じ詰めると、ある境界線を設定することで、「こちら」と「あちら」という対立する 2 項を設定し、その境界線を登場人物が越えた後、また帰ってくるというものらしいが、ルビッチの扉ショットというのは、ここでいっている「境界線」のことに他ならない。扉の「こちら」と「あちら」で必ず虚構が生まれ、物語が分節されていくのである。この場合、「あちら」には戦争があり、「こちら」には戦争で傷ついた人がいる。
山中貞雄監督の失われてしまったフィルム『街の入墨者』(1935) は、長谷川伸が原作だが、山中は原作を脚色するにあたって、この映画を参考にしたと言われている。
山中貞雄は、ルビッチと同じ 22 歳で映画を初監督している。山中はルビッチの『青髭八人目の妻』(1938) が公開された半年後の1938 年 9 月、彼が 28 歳のとき出征先の中国で赤痢が原因で亡くなっている。山中が監督として活動した期間は実質 5 年で、その間、26 本の映画を撮っている (現存しているのは三本のみ)。ルビッチも『結婚哲学』(1924) をとるまで、40 本以上撮っているが、山中も同じ若さでそれに匹敵するペースで映画を作っていたのである。なお、この作品について、小津安二郎監督も 1933 年頃のインタビューでこう答えている。
今年は怠けて外国の写真をあんまり見ませんでしたが、見たうちではいろいろ非難はされていてもルビッチの『私の殺した男』が、一番好きでした。