ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

リオ・ブラボー


1959 年のハワード・ホークス監督作品。原題は、”Rio Bravo"。

クェンティン・タランティーノ監督が女性と付き合うにあたっては、まず『リオ・ブラボー』が好きであるかどうかをさりげなく確認し、もし相手が好きでなさそうだったらそれ以上の付き合いは遠慮するのだという話をどこかで聞いたことがある。それは、エリック・ロメールが「ホークスが理解できなければ、映画などわかるはずがない」というのと同じような趣旨の発言だろう。

小学生のとき、土曜日の午後、誰もいない家に帰ってきてカラー・テレビをつけると映画をやっていて、それをなんとはなしに見ていたら、その面白さにぐんぐんひきこまれてしまったことがある。

途中から見たので、何というタイトルの作品なのかもわからずじまいだった。その時分は、ジョン・ウェインの顔と名前すら一致しなかったし、映画というのはどれもみんな、こんな具合に面白いのが普通なのだろうとなんとなく感じていたのだが、やがて、その作品は特別な面白さとして記憶の中にいつまでも残っていることを発見した結果、高校生ぐらいになると、さて、あの作品は何というタイトルなのだろう、いつかもう一度、今度は最初から全部見たいものだと思っていた。

あるとき、山田宏一さんの映画本を読んでいたら、どうも見たことのある映画のことを喋っておられる、そうかあの作品は『リオ・ブラボー』というんだ、監督はハワード・ホークスというんだとそこで初めて知った。

その後、大学生になって「東京倶楽部」という浅草にある場末の映画館でこの映画がかかっていることをタウン情報誌で見つけて胸が高鳴り、退色し傷だらけのプリントであったが、全編を三回続けて見てようやく小学生以来の念願がかなった。その後、蓮實ゼミでも取り上げられて、蓮實さんがあの歌のシーンで、ウォルター・ブレナンの椅子の座り方をコメントしていたのなんかはいまでも覚えているし、テレビで放映されるたびに見たし、DVD も手に入れて何回か見たが、いまだにこの映画がなぜこんなに飽きずに面白いのか本当のところはわからない。

前に新しい作品が今後作られなくなったとしても、過去の映画を全部見るなど不可能であり、映画の全貌などそうやすやすとわかるはずがないということを書いたが、たった一本の映画に限ったって全貌など簡単にわかるはずがない。

たぶん世の中には、この作品が面白くて面白くてしょうがないという人たちとそうでもない人たちがいる気がするが、最近は、映画というのは「わかる人にはわかる」でよいのではないかと思っている。わからない人に小学生ですらわかるその面白さを力説しても所詮無駄だと思っているので、どちらかというと自分もタランティーノの側に組している。

この作品の撮影について基本的事実を確認しておくと、まずクロース・アップが極端に少ないことがわかる。クロース・アップは心理的描写のために使われるとイメージされることが多いが、この作品で実際に使われているクロースアップを具体的に確認してみると、人物の顔のクロースアップは一切撮っていないということが判明する。

それが使われているショットは以下にあげるぐらいのものぐらいである。

  1. 冒頭のシーンでジョーが拳銃をぬくときに、拳銃がクロースアップされる。
  2. 酒場のシーンでカウンターに置かれたビールのジョッキに血が垂れているところを示すショット
  3. ジョン・ウェインの靴のクロースアップ
  4. ディーン・マーティンが、震える手で紙たばこをうまく巻けないところ

この作品には、後に「ニューシネマ」と呼ばれる作品群が陥っている意味もないズームやスローモーションなどの技法は多用されていないどころか皆無である。また、始まって 4 分 40 秒ぐらいまでは、台詞が一切ない。ハワード・ホークスは、こういったことを難しそうにでなく、あまりにもサラリとやってのけるので、その画面作りの思いもかけぬ厳しさに気がつきにくいのである。

50 年代の映画になるともう女優の「脚線美」は変質してしまっていて、ああいい脚だなあとすぐに思い出せるのは、『バンドワゴン』(1953) のシド・チャリシーか、この映画のアンジー・ディキンソンぐらいではなかろうか。それで我慢できなければ、アメリカ映画から遠く離れて、ルイス・ブニュエル作品のどう見ても倒錯している変質者的世界に浸るしかないだろう。50 年代になると「脚線美」が好きなどというとそれはもはや健全な楽しみとは言えず、変質者呼ばわりされかねない時代なのである。

その変質は、50 年代前半に登場したキャサリンでない方のヘップバーンの、たしかに細くて長いかもしれないがちっとも美しいとは思えない脚を、まるで美しい脚の代表であるかのようにいい立てる人の出現によって始まったという仮説をもっているが、自分が睨んでいるところでは、それをいいたてる人は、この作品の面白さをそうでもないと思う側のグループに属している。