アルベルト・ラットゥアーダ監督の同名の映画『アンナ』(1951) からだが、シルヴァーナ・マンガーノの歌は吹き替えである。この作品も含めて、イタリアン・ネオリアリズモを支えた一人であるこの監督の作品を恥ずかしながらほとんど見ていないのだが、それでも、かろうじて引っかかるのは、ナスターシャ・キンスキーの映画デビュー作で、マルチェロ・マストロヤンニと共演している『今のままでいて』(Così come sei, 1978) をキンスキーの裸目当てで封切りとともに見たことぐらいである。蓮實さんが『話の特集』にこの、クラウス・キンスキーの娘の売り出し映画のことを書いてくれていなければ忘れていたかも知れない。
月並みといわれようが、シルヴァーナ・マンガーノというとジョセッペ・デ・サンティス監督の『にがい米』(Riso Amaro, 1949) の記憶である。ジャン=リュック・ゴダールの『(複数の)映画史』の第5章(3A)の最後はイタリア映画への賛美であるが、そこでは『ストロンボリ』(1949) のイングリッド・バーグマン、『夏の嵐』(1954) のアリダ・ヴァリ、『テオレマ』(1968) のアンヌ・ヴィアゼムスキーのクロース・アップに混じって『にがい米』のシルヴァーナ・マンガーノも引用されている。
『にがい米』は、いまはもうない銀座の並木座で見たときからのお気に入りの一本で、DVD がまだない時代には、夜中に目が覚めたりするときには突然なんの脈絡もなく、ああ『にがい米』を見たいという発作にかられるぐらい好きであった。DVD を手に入れてからは、さすがにその発作は納まったが、朝、通勤電車の中でやたらに「脱毛」の広告があちらこちらに貼られているのを見ると、ノー・スリーブの服を着ているシルヴァーナ・マンガーノがその両腕をあげると腋毛が見えることにドキドキしたことを思い出して、その広告がやがて終わる平成日本の退屈さの象徴であるかのように思えてしまう。
マンガーノが、最後に飛び降り自殺をした後、一緒に田植えをした仲間の女性たちが、みずから働いた稼ぎとしてもらった大切な米を一握りずつ彼女の動かなくなった体へとかけていくシーンは、メロドラマの演出であるとわかっていながら泣いてしまう。この映画では、すさまじい雨、用水路の流れ、田に漲られた水など、様々な水の表情の描写があって素晴らしいのだが、それにも増して素晴らしいのは、「米」そのものが水の流れのように見えたり、砂丘のように見えたりする演出がある点だ。「米」が身近であるはずの日本という国の映画において同じような演出を思い出そうとするのだが、なかなかこの作品のように迫ってくるものは思い出せない。
1951:
Silvana Mangano:
1953:
Silvana Mangano:
Pérez Prado:
Amália Rodrigues:
1954:
江利チエミ
1956:
Caterina Valente:
1957:
Abbe Lane:
1961:
Connie Francis:
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