1939 年に公開された大作映画『オズの魔法使い』(The Wizard of Oz, 1939) は、監督としてヴィクター・フレミングがクレジットされているものの少なくとも五名の異なる監督が関わっているとされる。
一人目は、リチャード・ソープ。しかし、彼が撮影したシーンは、ラッシュの段階ですでに却下されており、最終的には一切残っていない。
二人目が、ジョージ・キューカー。しかし、実際に撮影されたシーンはない。演技やメークアップの助言等に関わっただけとされる。
三人目のマービン・ルロイは、この映画の製作面での関わりがほとんどで、つなぎとなるシーンをいくつか撮っただけだとされている。
四人目のヴィクター・フレミングは、実際にクレジットされていることからも、大部分のシーンに関わっている。しかし、撮影途中で『風と共に去りぬ』の監督に抜擢された事情から映画冒頭にあるモノクロでのカンザス・セットでのシーンには直接関わっていない。
そして五人目がキング・ヴィダーである。彼はヴィクター・フレミングが未着手だった作品冒頭のカンザスのモノクロシーンを主に担当し、この映画を完成させている。
カンザスのシーンには、後年スピルバーグの『ツイスター』によって引用されることになるあの竜巻の場面が含まれている。
キング・ヴィダーは、1894 年 2 月 8 日生まれで、ジョン・フォードと同い歳で、誕生日もフォードの方がわずか一週間早いだけである。ヴィダーは、テキサス州の島内都市であるガルベストンで生まれ育った。海抜の低いガルベストンはハリケーンの被害にしばしば曝され、彼が実際に六歳で経験したという1900 年の「ハリケーン・ガルベストン」による高潮では壊滅的被害をうけ、ヒューストン市がその後発展する契機ともなった。
植草甚一さんがヴィダーの生い立ちを書いている文章があって、その前半生がまるで映画のように面白い。それによるとヴィダーが最初に映画を見たのは 15 歳のときで、ガルベストンのオペラ・ハウスで特別上映されたジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902) であったという。それからしばらくすると、ガルベストンの楽器屋の主人が店を整理し、真ん中に壁を取り付けそこで映画を有料で上映しはじめたそうである。ヴィダー少年は夏休みを利用して、そこで切符のもぎりのバイトを始めた。映写技師は一人だけだったので、技師が昼飯と夕飯をとっている間はヴィダー少年が映写機のクランクを廻したという。上映された映画は、マックス・ランデの一巻物のような作品が多かったというが、中には二巻物の『ベン・ハア』(1907) もあったとある。
ある日、ヴィダー少年が友人のロイ・クローの家に遊びに行くと、その友達は夢中で廃物を利用して手製のキャメラを組みたてていた。キャメラが完成すると二人は百フィートの生フィルムをカタログ販売で手に入れ、最初のテスト撮影をおこなうことにした。その日はちょうど、暴風雨だったそうである。二人は、手づくりのキャメラをもって海岸に行き、そこにあった脱衣所がいまにも風に吹き飛ばされそうなのを見ると、それにキャメラを向け風に飛ばされないよう固定する。こうして波が防波堤を越え、脱衣所が風に吹き飛ばされてしまう瞬間の撮影に成功する。撮影済みフィルムをシカゴに送って現像、プリントをしてもらったところ、ピンぼけながらも、その光景はしっかり映っていた。そのフィルムは、方々のニッケル・オデオンから暴風雨のドキュメンタリーは珍しいので映写したいと申し込みがあったそうである。これが、彼の処女作である 1913 年の “Hurricane in Galveston” (1913) であると思っている。
あの『オズの魔法使い』の竜巻シーンは、6歳のときに米国史上最悪といわれるハリケーン被害を実際に体験し、ハリケーンのドキュメンタリー映画によって、そのキャリアを始めた男の演出によるものなのである。キング・ヴィダーにはハリウッドのスタジオ・システムの職人監督という面が確かにあり、この映画だって派手なカラーの場面ではなくモノクロのカンザス・シーンを担当し堅実に映画を完成させている。しかし、この作品で映画的記憶として残っているのはむしろ、『虹の彼方』をジュディ・ガーランドが歌うシーンや竜巻のシーンの生々しさの部分であり、それは彼のドキュメンタリー作家的な面がもたらしたものなのかもしれない。
Somewhere Over the Rainbow: