ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

瞳をとじて

最近、映画健忘症にかかった感のある自分は遅まきながらこの映画を見て、まるで登場人物のフリオがしただろう体験をしたのだった。やはり映画館こそ失われた記憶を取り戻すのに一番適した環境なのかもしれない。 少なくともこの作品の登場人物たちはそのことを些かも疑っていないように振る舞っていることは感動的である。

この映画を見る前から前兆のように、『ミツバチのささやき』の最後でアナ・トレントが窓を開いて「私はアナ。私はアナ」と呟やいてあの印象的な瞳をとじると、それまでにない大人の女性のような表情を見せるところにまいったことを思いだした。瞳をとじること。ロベルト・ロッセリーニの『ドイツ零年』の少年は自分の見た現実に耐えられず、目を閉じ手で顔を覆ってビルから飛び降りてしまうことで大人になることを拒否したのだが、『ミツバチのささやき』のアナの場合はどうだったんだろう、そんな答えが出せないようなことを考えたことも思い出した。 ビクトル・エリセは視線劇で瞳をとじること (それは涙さえ見せることのない最も微妙な運動のひとつである) が映画を揺るがせることを発見した一人である。

まだ一度しか見ていないし、過去の三作の DVD も探し出して見返すこともしていないので、考えがまとまらない。だが、それは記憶喪失者にとって当然のことなのだから、そのままにしておこう。

『瞳をとじて』 ではそれにしてもなぜあんなに雨ばかり降っているのだろう。だからといって空は雨が降っているか曇天ばかりでもなく、asylum での特にあの忘れ難いペンキを塗るシーンでは青い空も登場している。 あの白い洗濯物が飜るところはドライヤーの『奇跡』 (映画の中でその作品名が口にされたりもしている) の冒頭を思い出させてもくれるし、ミュージカル的な演出だったからだろうか、奇妙なことに澤井信一郎の『野菊の墓』も思い出させてくれた (蓮實重彥が澤井信一郎とエリセは似ていると言っていたことを思い出したからかもしれない)。

エリセは記憶装置としての映画に「いま・ここ」の現在が距離なしに密着して張りついてしまう瞬間をことのほか大切にしていることはわかる。しかし、ディーン・マーチンの過去を取り戻そうとしている役柄がこの作品の元映画監督とどこかしら通じるところがあるといっても、『リオ・ブラボー』 を今の時代にこのように引用することが許されてよいのかという気もした。ことによったら、映画健忘症にはこれくらいやらないと効き目がないと思ったのかもしれないし、二曲やらないというのが節度だったのかもしれない。 実際、これは効いた。それは、ヴィスコンティの『ベリッシマ』に出演しているアンナ・マニャーニが、夏の夜、アパートの中庭でホークスの『赤い河』の野外上映を見ながら傍らに座っている夫に話しかけているシーンのように効いたといってよいかもしれない。牢屋のある保安官事務所の内部という閉鎖空間で歌われていた 「ライフルと愛馬」を砂場の上に直接置かれたテーブルを囲んで海辺に住む隣人たちと歌う場面は、素直によかった。

なんか無駄に長くなっているので、ここで打ち切ることにする。