部屋の加湿を忘れて寝てしまい、翌朝喉の調子が良くなかったので、普段は舐めることなどない飴でも試してみようと思いたち、近所のドラッグストアを物色していたら、「クロモジ」という名前が向こうから勝手にやってきて目に入ったので、迷うことなく「養命酒製造」と赤字でデカデカと書かれたその袋を購入した。
幸田文は『木』の中で、 草木に心をよせることについて、
「心をよせるなど、そんなしっかりしたことでない。毎日の暮らしに織り込まれて見聞きする草木のことで、ただちっとばかり気持がうるむという、そんな程度の思いなのである」
と適切に書いているが、 「クロモジ」 という文字を目にした瞬間、そういえば、クロモジのあの黄色の花が咲くのももうすぐだなあとか、その花の写真は撮ったことがなかった、近くだと「泉の森」にあったなあとかいろいろ考えて、まさに「気持がうる」んだのである。
柳田國男の『故郷七十年』の「鳥柴の木」には、次のような贅沢で嫉妬したくなるような幼児体験が綴られている。 クロモジの木を燃やす香りと米の炊かれる匂い!
子供のころ、私は每朝、厨の方から傳はつて來るパチ〳〵といふ木の燃える音と、それに伴つて漂つて來る懷しい匂ひとによつて目を覺ますことになつてゐた。
母が朝飯のかまどの下に、炭俵の口にあたつていた小枝の束を少しづゝ折つては燃し附けにしてゐるのが、私の枕下に傳わつたのであつた。
今でも炭俵の口に、細い光澤のある小枝を曲げて輪にして當ててゐる場合が多いやうであるが、そのころ私の家などでは、わざ〳〵山の柴木を採ることはしないで、それをとつておいて、每朝、用ゐてゐたわけである。じつはその木がいつたい何といふ名であるかを長らく知ることもなかつた。
ところが、たま〳〵後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であつたことに氣がついたのである。