イエギク。普通にいえば菊。
ホウキギ。育てている女性と話をした。ひたち海浜公園にあるものが素晴らしいそうである。
ジギタリス。
アカネ。染料にするのは根であり、色は朱色から赤。初めての日の丸の赤は茜染だったとある。ムラサキ (紫草) の花は白で、やはり根を染料として最も高貴な色 *1とされた紫の染色に使う*2。ムラサキは、神奈川県ではすでに絶滅危惧種 1A である *3。
万葉集巻一の歌 (1-20)、
天皇 *4の、蒲生野*5に遊猟したまひし時に、額田王の作れる歌
あかねさす紫野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る
は、次にある大海人皇子 (あとの天武天皇) の返歌 (1-21)
皇太子の答へ御りしゝ謌
紫草のにほへる妹を憎くあらば
人妻ゆゑに我れ恋ひめやも
とともに非常に有名である。「紫野」は紫草が生えている (あるいは栽培していた) 野のこと。貴重な染料や薬となった植物だから野守を置いて管理した禁制の地 (標野) であったと思われ、「紫野行き標野行き」は同格表現だと自分は解釈している (標野はいくつかあって、重複を避けるためとそれぞれの語がもつ連想を歌に織り込むため別の表現にした)。「あかねさす」は「茜草さす」で、この場合「紫」にかかる枕詞であり、「明るい陽がさす」というぐらいの意味とされる。ところで、大陸から伝わった 5 月 5 日の行事であるこの薬猟で、ムラサキの根が実際 (女性達によって) 採取されたかどうかはわからないが、ムラサキの抜いたばかりの根の色は写真をみるかぎり、乾燥した紫根の暗い紫とはまったく違って、非常に鮮やかな赤紫色であり、まさに「あかねさす」である*6。この乾燥前の根の色が実感できて、この額田王作とされる歌の素晴らしさがはじめてよくわかった気がする。旧暦五月であればムラサキの白い花はもう咲いていたはずで、大海人皇子の返歌に「にほへる」とあるのはその白い花が陽の光を受けて美しく輝いていたのを織り込んだのだと思う。
なお、この歌は短い表現形式の中に織り込んだ視点設定の巧みさとともに、名詞+動詞の組合せを五回反復しているのが特徴的だと思う。
ツツジ。秋にも咲くものが結構ある。
これはフジバカマかなあ。
ハマナスがまだ咲いている。
筒井康隆『ダンシングオールナイト』からアーティ・ショウの『フレネシー』。
『フレネシー』はもともとは、マリンバ奏者でもあったメキシコの Alberto Domínguez Borrás が作ったものであるが、『パーフィディア』の作曲でも知られている。以下は、以前記事で紹介したことがあるドロシー・ラムーアが歌ったもの。
*1:603年に制定された官位十二階は大化 3 年には新しい官位に変更されたが、紫系統の色が高い官位を示したことには変わりない。
*2:万葉の時代にムラサキの根と椿の木灰を使って染色が行われていたことは次の歌でわかる。海石榴市は椿の大きな樹の下にできたのだろう古代の市 (いち) で現在の奈良県桜井市にたっていた。「紫 (むらさき) は 灰指 (さ) すものそ 海石榴市 (つばいち) の 八十 (やそ) の衢 (ちまた) に 逢へる児 (こ) や誰」
*3:かつて相模国と武蔵国は紫根の一大産地として知られていた。紫草の栽培は至難の技という。
*4:天智天皇。この歌が作られたのは、日本書記から 668 年 5 月 5 日とされている
*5:近江国蒲生郡の野。蒲生郡は近江国の東南部で、現在の滋賀県近江八幡市、東近江市、蒲生郡安土町、同日野町などと、神崎郡永源寺町の一部を含む一帯。
*6:以下で乾燥する前の根の写真が見られる。 環境省_Good Life Award(グッドライフアワード)取組紹介