ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

おもしろい(6)

主題体系と説話体系とか便宜上言っているけど、これはもともとひとつの「記号」を頭の中に二つの異なる体系を同時に走らせて読みとるということで、英語の音を聞きながら同時に日本語の意味を理解しているのと結構近いのかなという気もしたりする。

フェルディナン・ド・ソシュールはライプツィヒ大学の卒業で 1913 年に 55 歳で亡くなっているわけだが、名高い「一般言語学講義」を行ったのは、1906 年に生まれ故郷のジュネーブにあるジュネーブ大学の正教授に任ぜられた後の 1907 年から 1911 年にかけてのことだから彼の晩年といってもいい。そして彼が「記号」(signe: シーニュ、フランス語の動詞 signifier の名詞形) は、能動的に「意味するもの」として訳される心的聴覚映像である「シニフィアン」(signifiant: 動詞 signifier の現在分詞) と、受動的に「意味されるもの」として訳される思考の心的映像である「シニフィエ」(signifié: 動詞signifier の過去分詞) といわれる、二つの異なるイメージの連合関係であると主張したのは、1911 年 5 月 19 日とされるので最晩年の時期である。

ソシュールが行った提案は、あくまで「提案」であり定義というべきものではなくそれを盲信する必要はないのだが、よくある勘違いは、シニフィアンを物理的な音や聴取りを通じた生理的な過程であるとしてしまうことである。つまり、ソシュールの提案による記号 (シーニュ) とは聴覚イメージと意味に関する思考のイメージが頭の中でカップリングした関係性を指すのであって、主体の外の現実の実体を直接指すということでは決してない。問題はこの二つの体系をどういう資源配分で「カップリング」させているかにある。「意味の病」にかかっている人はシニフィアンを抑圧しすぎで両者の「バイリンガル」状態からはほど遠いのである。

 

表象の奈落 ―フィクションと思考の動体視力― 新装版

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