すでに記事として一度取りあげた一葉の『十三夜』をもう一度ごく簡単にとりあげてみる。「上」「下」二部から構成されているこの小説の語りにおいて、「お関」と「録之助」という幼なじみの二人の間にある明白なテクスト上の「類似」が見られることで、この二人の人物が同一のある「主題」に属していると考えざるをえない状況が出現している。たとえば、お関は「上」の冒頭で
ゑゝ厭や厭や
と一葉の作品世界を貫くキーワードともいうべき「厭や」を言っているが、性別が異なる録之助もまた「下」の冒頭で
私からお願ひです何うぞお下りなすつて、最う引くのが厭やに成つたので御座ります
と同じ「厭や」と言っていることに注目せざるをえない。「類似」はその事実だけにとどまるものではない。他にも普段住んでいる場所は、お関の方は母親の発言から夫である原田の家の「二階」であり、録之助の方は、浅草の木賃宿、村田の「二階」を仮の寝処(ねどころ)にしているといった共通点を確認することができる。
「普遍性」とは歴史意識を抜きにして語れるものではないが、「お関」と「録之助」という二人の人物の導入によって、明治という時代の「家」の論理の犠牲になる普遍的な人物像が主題化されていることは言うまでもない。そして、「お関」の場合には「家」を維持する選択のケースが語られ (上)、「緑之助」の場合には「家」を破壊する選択のケース が語られる (下) ことで、同じ主題に属する類似した二つのもののつかの間の儚い出会いに「齟齬」が生じ、小説の最後では、まるで鋭利な刃物で切断されたかのような鮮やかな読後感が生まれることになる。
其人それは東へ、此人これは南へ、大路の柳月のかげに靡 (な) びいて力なささうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奧も憂きはお互ひの世におもふ事多し。