前回の記事であげた「主題」において発現する機能とは、もっとも一般的に言えば物語の語りを分節することである。ここで注意しないといけないのは、短編小説の場合は特にそうなのだが、まったく同じ「主題」が単調に繰り返される例は寧ろ希であり、「主題」はその都度表情を変えることが多いということである。
たとえば梶井基次郎の短編『檸檬』を取り上げてみると、作品の冒頭に出てくる
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終壓へつけてゐた。
という文章の「不吉な塊 」に注目してみると、「塊」として見なせる他の重要なものは明らかに「檸檬」であろう。「塊」の表情違いとして「不吉な塊」と「檸檬」を併置してみれば、この短編の構造はおおまかには明らかといえるし、「不吉の塊」と「檸檬」はその表情の違いによってほぼ対極的な機能を発現していることがわかる。
実際、「私」を苦しめている「不吉な塊」は、次のように記述されている。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終壓へつけてゐた。焦燥と云はうか、嫌惡と云はうか──酒を飮んだあとに宿醉があるやうに、酒を每日飮んでゐると宿醉に相當した時期がやつて來る。それが來たのだ。これはちよつといけなかつた。結果した肺尖カタルや神經衰弱がいけないのではない。また脊を燒くやうな借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。
「不吉な塊」は「私」という「話者」にも結局よく分からないものであり、「話者」はこの「不吉な塊」を漠然としたものとしてしか表現できていないし、その語りはどちらかというと支離滅裂である。
一方、「塊」のもう一つの表情である「檸檬」の方はどうであろうか。
レモンヱロウの繪具をチユーブから搾り出して固めたやうなあの單純な色
丈の詰つた紡錘形の恰好
ここに引用されているように「檸檬」は「話者」にとってこのうえなく具体的な「存在」として活き活きと描写されている。それは「私」にとって具体的な「細部」と無媒介的に触れあえるものである。
握つてゐる掌から身內に浸み透つてゆくやうなその冷たさ
私は何度も何度もその果實を鼻に持つて行つては嗅いで見た。
汚れた手拭の上へ載せて見たりマントの上へあてがつて見たりして色の反映を量つたり、またこんなことを思つたり、──つまりは此の重さなんだな。──
この作品には以下の引用にあるように「二重寫し」という言葉が出てくることに注意したい。
錯覺がやうやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の繪具を塗りつけてゆく。何のことはない、私の錯覺と壞れかかつた街との二重寫しである。
「不吉な塊」と「檸檬」とは「塊」の異なる表情として二重化されたものである。「私」は「不吉な塊」に「想像の繪具を塗りつけ」具体化しそれを直接握りしめ、「此の重さなんだな」と確認することで、「不吉な塊」を別の表情へと変容させてしまったのである。「檸檬」を丸善に残して立ち去るとは、したがって「私」が漠然とした「不吉な塊」の抽象性から一時的にせよ解放されたことを意味するのは言うまでもない。