ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

ちばてつやの少女漫画

『ユキの太陽』が宮崎駿の処女作だということとはあまり関係ないし、漫画を特別好きという訳でもないのだが、ちばてつやの少女漫画にだけはなぜか執着があるらしく、つい最近も気がついてみると『島っ子』『みそっかす』『アリンコの歌』『リナ』『ユキの太陽』『テレビ天使』などを読み耽っていた。

これも最近、筒井康隆と蓮實重彥の『笑犬楼 vs. 偽伯爵』を読んでいたら、蓮實重彥の『時をかける少女』論が書き下ろしであったのだが、そこでは角川文庫新装版の『時をかける少女』のカヴァーイラストにある少女の「洒落た色彩の」ショルダー・バッグが貶されていて、「その時代——戦後の昭和ともいうべき過去の一時期——の日本の女子中学生たちが手に下げているのは、『サザエさん』の婿養子フグ田マスオがサラリーマンとして日々抱えているものと寸分違わぬ、古典的とさえいえそうな無愛想で冴えない鞄だと思わざるをえない」とあるのだが、実際『みそっかす』の茜が持つ鞄はそのような鞄である (学校は週六日だったこともまた分かる)。

蓮實は「もちろん当時の中学にも肩掛け鞄というものは存在していたが」と断っているが、その肩掛け鞄というのは、『ハリスの旋風』——これは少年漫画だが——で効果的に活用されていた石田国松のぶら下げられ、放り出される鞄のことであろう。『ハリスの旋風』も『時をかける少女』も 1965 年の作品だが、ちばてつやの少女漫画作品群もほぼこの前後の「戦後の昭和ともいうべき過去の一時期」に集中しており、その漫画に今なお執着があるのは、当時の記憶が微かにある懐かしさの所為なのか —— たとえば『アリンコの歌』では、壁や黒板には鉄腕アトムの、ノートにはオバQの落書きがあったり、怪我に沁みるヨーチンを塗ったり、『まだらの少女』が怖さの比喩として普通に通じたり、出てくる歌といえば三田明の「美しい十代」「若い翼」や「ごめんねチコちゃん」と奥村チヨの「ごめんねジロー」のミックスだったりする——それとも時代を超えた別の理由がある所為なのか、正直よくわからない。