「めくらぶだう」が「野ぶどう」に変えられていたが、宮澤賢治の『めくらぶだうと虹』の抜粋が小学校の国語のテキストにあった。抜粋部分には「めくらぶだうの實が虹のやうに熟れてゐました」 に該当する処が含まれていなかったので、小学生には野葡萄の実の写真を見せた。野葡萄の実のイメージがないと流石に読解は難しいだろう。
英語の紫系の色には “violet” と “purple” があるが、日本語訳は、戦後のある時期までそれぞれ「菫色」「紫色」と使い分けていたと思う。たとえば、賢治の詩 『烏』(『春と修羅 第二集』所収) では「紫外線」を「菫外線」と云っている。(もちろん細かすぎるので小学生には説明していない。)
なお、歴史的仮名遣いにはどこまで正しく直せたか分からない。
めくらぶだうと虹
宮澤賢治
城あとのおほばこの實は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟は刈られました。
「刈られたぞ。」と云ひながら一ぺんちょっと顏を出した野鼠がまた急いで穴へひっこみました。
崖やほりには、まばゆい銀のすゝきの穗が、いちめん風に波立ってゐます。
その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの實が虹のやうに熟れてゐました。
さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向ふの山は暗くなりました。
そのかすかなかすかな日照り雨が霽れましたので、草はきらきら光り、向ふの山は明るくなって、たいへんまぶしさうに笑ってゐます。
そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたやうに飛んで來て、みんな一度に、銀のすゝきの穗にとまりました。
めくらぶだうは感激して、すきとほった深い息をつき、葉から雫をぽたぽたこぼしました。
東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のやうにやさしく空にあらはれました。
そこでめくらぶだうの靑じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。
さうです。今日こそたゞの一言でも、虹とことばをかはしたい、丘の上の小さなめくらぶだうの木が、よるのそらに燃える靑いほのほよりも、もっと強い、もっとかなしいおもひを、はるかの美しい虹にさゝげると、たゞこれだけを傳へたい、あゝ、それからならば、それからならば、實や葉が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠りにはひっても、あるいはそのまゝ枯れてしまってもいゝのでした。
「虹さん。どうか、ちょっとこっちを見てください。」
めくらぶだうは、ふだんの透きとほる聲もどこかへ行って、しはがれた聲を風に半分とられながら叫びました。
やさしい虹は、うっとり西の碧いそらをながめてゐた大きな碧い瞳を、めくらぶだうに向けました。
「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはめくらぶだうさんでせう。」
めくらぶだうは、まるでぶなの木の葉のやうにプリプリふるへて輝いて、いきがせはしくて思ふやうに物が云へませんでした。
「どうか私のうやまひを受けとってください。」
虹は大きくといきをつきましたので、黃や菫は一つづゝ聲をあげるやうに輝きました。そして云ひました。
「うやまひを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰氣な顏をなさるのですか。」
「私はもう死んでもいゝのです。」
「どうしてそんなことを、おっしゃるのです。あなたはまだお若いではありませんか。それに雪が降るまでには、まだ二か月あるではありませんか。」
「いゝえ。私の命なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派におなりになるためなら、私なんか、百ぺんでも死にます。」
「あら、あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、たとへば、消えることのない虹です。變はらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。たゞ三秒のときさへあります。ところがあなたにかゞやく七色はいつまでも變はりません。」
「いゝえ、變はります。變はります。私の實の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。雪にうづまって白くなってしまひます。枯れ草の中で腐ってしまひます。」
虹は思はず微笑ひました。
「えゝ、さうです。本たうはどんなものでも變はらないものはないのです。ごらんなさい。向ふのそらはまっさをでせう。まるでいゝ孔雀石のやうです。けれどもまもなくお日さまがあすこをお通りになって、山へおはひりになりますと、あすこは月見草の花びらのやうになります。それもまもなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが來ます。
そのころ、私は、どこへ行き、どこに生まれてゐるでせう。また、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一秒づゝけづられたりくづれたりしてゐます。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらはれるときは、すべてのおとろへるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさへ、たゞ三秒ひらめくときも、半時空にかゝるときもいつもおんなじよろこびです。」
「けれども、あなたは、高く光のそらにかゝります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌ひます。」
「それはあなたも同じです。すべて私に來て、私をかゞやかすものは、あなたをもきらめかします。私に與へられたすべてのほめことばは、そのまゝあなたに贈られます。ごらんなさい。まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむやうに、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のたゞ一抹も、神の子のほめたまうた、聖なる百合に劣るものではありません。」
「私を敎へてください。私を連れて行ってください。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考へてゐます。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるといふことはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでせう。お日樣があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません。」
停車場の方で、銳い笛がピーと鳴りました。
もずはみな、一ぺんに飛び立って、氣違ひになったばらばらの樂譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。
めくらぶだうは高く叫びました。
「虹さん。私をつれて行ってください。どこへも行かないでください。」
虹はかすかにわらったやうでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。
そして、今はもう、すっかり消えました。
空は銀色の光を增し、あまり、もずがやかましいので、ひばりもしかたなく、その空へのぼって、少しばかり調子はづれの歌をうたひました。