最近、単なる思いつきで記事に使うフォントを明朝体に改めてみたのだが、少なくとも自分には読み易いのでそのまま使い続けている。ひとつ〳〵の文字に「抑揚」があるというのはやっぱり大事なことなんだなあと改めて思った。
蓮實重彥の『ショットとは何か』は雑誌連載中から楽しみに読んでいて、単行本も入手したが、その単行本の表紙——他には背表紙や扉などにもある——の「ショットとは何か」という文字がゴシック体になっていたことに一寸吃驚した。蓮實さんが単独の著者名になっている本でそんなことがあったかなと考えたりした。しかも著者名の「蓮實重彥」には従来通り明朝体が使われていて、じっと見ているとやっぱり不釣り合いに感じる。こんなところまで「デジタル馬鹿」——「一億総白痴化」という古めかしい言葉を思い出した——の影響は及んでいるのだろうか。心配になって、7月21日に出版予定の『ジョン・フォード論』の表紙の写真を確かめたら素晴らしい出来で杞憂だと分かりほっと安心した。
上手い下手は別にして、塾に来た小学生が書く文字が余りにも均一でまるでゴシック体のようなのを見て、道をあるけば厭でも見える看板や選挙ポスターの文字——この時候、暑苦しさが更に募る——から始まって、情報端末やテレビの画面に映る文字に至るまで、例外もあるが大半はそんな文字に晒されているのだからこれも無理はないかと思いつつも、つい、樋口一葉の原稿を見せてしまった。もちろん読める読めないは別の話しであり、筆を使って一葉は書いたのだから筆記用具が違うといってしまえばそれまででもあるのだが、手書きの文字ぐらい少し抑揚や緩急があった方が人間らしくないかなあと思ったので、反応を知りたかったのである。