ノリの悪い日記

古今東西の映画、ポピュラー音楽、その他をいまここに交錯させながら随想します。

雑記 (爲にならない漢字の話)

漢字の知識を増やしたいという慾望をもって意識的に努力をした記憶がこれっぽっちも存在しないのは、もしかしたら『反=日本語論』にある次の一節を読んだことが知らず知らずに抑圧となってしまったのかもしれない。尚、『反=日本語論』は 1977 年の出版であり、下の引用にある「最近」は四十五年以上前の事である。

最近の学生は漢字を知らないという。ある新聞社の入社試験に「鴉」にふりがなをつけさせる問題をだしたところ、答えが六十何通りかにわかれたそうだ。だが、そんなことに驚いていてはいけない。カラスがからすだとわかり、烏によってあの黒い鳥をイメージできればそれで充分である。これを格好の材料として、今日の漢字の知識の欠落ぶりを嘆いたりするよりは、いったい、どんな種類の学生が「鴉」をカラスと読めたかを追跡調査することの方が、はるかに有意義ではないか。その調査の結果は目に見えている。学校で暗記を強いられたわけではない二つの人の名前(﹅﹅﹅﹅)に親しんできた者たちだけが、「鴉」を正確に読みえたことは間違いない。その二つの人の名前(﹅﹅﹅﹅)とは、いうまでもなく長谷川伸と加藤泰である。ところで、ある大新聞社がその全集を刊行している前者はともかくとして、あなたは、加藤泰を知っているか。

これは自分でも思い当たることである。小学生のときに「澪標」が読めたのは、わからない漢字だらけでも外村繁の『澪標』をこっそりと読んだからだし、「襤褸」を「つづれ」とも読むことができるのはハリウッド三十年代の映画邦題の御蔭である。「颪」はシュトロハイムの映画『アルプス颪』からである。この前、中学三年生に国語を教えていたらテキストに「驟雨」の読みと意味を答えさせる問題が出ていたが、成瀬巳喜男の映画を見たか吉行淳之介の小説を読んでいたら解答できるだろう。ちなみに私は前者である。「バケツ」を「馬尻」と宛字したのは夏目漱石である。「檸檬」は梶井基次郎の短編からである。昭和三十一年の国語審議会による「『同音の漢字による書きかえ』について」によると、「闇夜(あんや)」は「暗夜」に書き換えることになっているが、一葉の作品『暗夜』は「やみよ」と多分読むのだろう。本人の意志にかかわらず、漢字の読み方なんて向こうから厭でもやってくるものだと思う。

それに、三千年程度の歴史があるにもかかわらず、あるいはそれ故なのか、漢字の習得に関するなんらかの理論的試みについての説明を少し読んでみても納得ができたためしがほとんど無い。最近、中学受験の国語の問題を見ていると部首名の「ふるとり」という呼び方を知らないと解けない問題が出ていたが、戦後のどさくさに「舊」という漢字を「旧」にそもそも変えておきながら、「舊」にはあったが「旧」には何処にも存在しない「隹」を「ふる(﹅﹅)とり」と小学生に未だ丸暗記させようとしていることにどうも釈然としない (日本では部首名に公式なものはない)。これに比べば「酒」の部首「酉」の「ひよみ(﹅﹅﹅)のとり」はまだしものような気がする。ちなみに受験勉強馴れ (?) した小学生が間違わないのは、たとえば次のア〜エの漢字の中から部首が異なる漢字を選びましょう、というような問題である。

ア. 往
イ. 行
ウ. 彼
エ. 徴

(正解はイの「ぎょうがまえ」)

「神」にある「しめすへん(⺬)」も「神」の「⺭」になってしまえば想像しにくいし、「衣へん」の「衤」と紛らわしくなった。それに、「祭」「神」「祝」にそれぞれ使われている「示」がもつ宗教的関連性も、「神」「祝」「祭」では気付きにくくなってしまった。

漢字の由来の説明も感心したことはあまりないが、モーリン・オハラが羊の群れを追う『静かなる男』のイメージが頭にあるせいか「美」に「羊(⺷)」が使われているのはわかる気がする。他にも、「羨」「達」「祥(祥)」「羊羹」「窯」「洋」「義」「養」「善」「群」「痒」などに「羊(𦍌)」があるのは何となく諒解できる。「羨」の構成 ⿱ 下部が「次」でなく「㳄」なのは「よだれ」という意味だそうだが、「盜」は「盗」となってしまった。「㳄」が「よだれ」だとしたら、「次」の「⼎」は吐息を示した形だそうで、「次」は、ほっとリラックスしている様子を表わすことがあり、「姿」「恣」という漢字はそんな雰囲気を残している。

「欠」は「あくび (欠伸)」であり、口を開いた(さま)だと想像できる。これも、例えば「缺點」が「欠点」であるように、「欠」を「缺」の代わりにしてしまって、もともと「缺」の意味なのを「欠」の主要な意味だと思いこむようになったから分かりにくい。「歌」とか「歓(歡)」の「欠」には本来の意味が残っている。「歡」の「雚」は(こうのとり)だが、ここでは「喚」と音が通じているので使われているらしい。しかし、ハシビロコウ (嘴広鸛) が嘴を開いている様子はいかにも「歡」だと思ってしまう。おまけに、「⻀」に相当する冠毛まで頭にある。餌をとるために凝視しているハシビロコウを見ると同じように「觀(観)」も納得できる。

また、「遲い」は「遅い」になって、「犀」が「羊」になったのは拙いように感じる。その点、「痒」はあれだけ全身に毛が多いとそうだなあと思える。他にも「干」と「于」は区別しないと駄目だと言いながら、「突」が「突」に、「臭」が「臭」に変わって「穴からにわかに犬」「犬の鼻」という成り立ちではなくなった 。ところが「嗅覚」の「嗅」は「犬」のままである。他の例としては「類」が「類」に、「戾」が「戻」に、「器」が「器」になったが、字の由来は「犬」に皆関連している。「﹅(点)」を打つか打たないかでいえば、「專」が「専」に変わり、(へん)が「十」で(つくり)が「尃」であったものが「博」に変わったので、何故「﹅」を打たなかったり打ったりするのかが意味不明となり、音読みがハ行で始まるならば点がつくなどと覚えたにもかかわらず「穂 (穗)」の音読みを「ホ」だと勘違いして「﹅」を打ったりするのだが、いい加減もうやめる。

※「臭」と「嗅」のような例をもう一つ挙げておくと、「比喩」「楡」「福沢諭吉(福澤諭吉)」「輸送(輸送)」のような「喩」「楡」「諭」「輸」の旁の違いがある。病気がいえることは「治癒」だが旧字は「治瘉」でよい筈である。「愉快」の「愉」の旧字はコードがないがやはり旁は「兪」である。
※ 表題にある「爲」は「為」の旧字だが、「爲」を ⿱ に分解すると上部は「爪」、下部は暫く眺めていると「象」に見えてくるから不思議である。「爪」は象を使役するということであろう。